「………どうした?……さっきから何を考えてる?」
「昭王の名前のことだ………なにか…なにか大事なことを忘れている気がしてならぬ……」
「ふうん……」
あまり気にもせず、ミロはもう一度やさしく口付けた。
どうしてこんなにもいとおしくてならぬのだろう、抱いても抱いても足りぬ気がするのは不思議なほどだ。

   昭王は、いったいどのくらいの間、カミュを抱いていたのだろう?
   真夏の夜半過ぎから明け方までといえば、四時間がいいところだろうな………
   それに比べて、俺の幸せなことといったらどうだ!
   ここにこうして思う存分二人で過ごしているってことを知らせられたら、どんなにいいことか………
   まあ無理な相談だが…………

そのときだ、カミュが 「 あっ! 」 と声を上げ、満足しきっていたミロを驚かせた。
「ミロ! 今わかった、昭王は知っている!!
 私とお前がこうして巡り会っていることを確かに知っているのだ!!!」
「なにっっっ、それはどういうことだっ??!!」
これが驚かずにいられようか、ミロは唖然としてカミュを見つめた。

「よいか、思い出してみるがいい。 昭王が私に銀の櫛を持ってきたときのことだ。」
「あれは、お前の誕生日、2月7日だったな。印象的だったから、よく覚えている。」
「あの時、お前がやってきて灯りをつけたので、昭王の姿は消えてしまった。 おそらく、時の彼方へ帰って
 いったのだろう。」
「うむ。」
カミュの話にミロは引き込まれる。
「しかし、その前に、お前が廊下から私に 『 遅くなってすまなかった 』 と云ったので、私はこう返事をした
 のだ、 『 ミロ、早くここへ! 』 と。」
「あっ………!!」
ミロが息を呑んだのも当然だった。
その瞬間に昭王は知ったのだ、自分と同じ名前を名乗る人物がカミュのそばにいることを。 そして、そのときの口調から、二人が親しい関係らしいこともわかったのに違いない。
「あの時の昭王は、部屋の家具調度などを見て、自分の生きている時代よりも未来にいる私と会っている
 ことを感じていただろうと思う。 そして、そこにいる私が、ミロという人間とともにいることを知り、昭王は私
 たちが再び出会うことを確信したに違いないのだ。」
「ああ、カミュ、俺にもはっきりとわかるぜ!お前は確か、そのときの昭王が嬉しそうだったと云わなかった
 か? 俺の名前を聞く前の昭王は、お前に会えたことを喜んでいたのだが、お前が俺の名を呼んだときに
 は自分の将来が確かにお前と結ばれていることを知り、どれほど嬉しかったろう!」
「よかった………あのとき、お前の名を呼んで……」
安堵の溜め息がミロの胸を暖かく包み、それと一緒に充足感が広がってゆく。
「ほんとのところ、俺が気にしていたのは、お前と別れたあとの昭王のことだった。 お前はまだいいかもし
 れん、シベリアへは、おそらく弟子の育成か自己研鑽にために行くのだろう。 昭王のことを胸に秘めなが
 ら聖闘士としての使命を全うし、自分の道をまっすぐに歩いていったに違いない。
 ………しかし、昭王はどうだろう?」
カミュを抱く手に力が込められ、重い吐息が少し震えずにはいられない。
「あのあと、趙の娘と婚姻し、国中から子をなすことを期待されるのだ……。 そして、燕は秦と対立する道
 を選ぶことになるだろう。 昭王のときに一番栄えたというからには、その後の燕は厳しい情勢に追い込
 まれてゆくんじゃないのか?昭王は、その長い時代をお前なしで過ごすのだ………。
 一方、お前の昭王との思い出には、誰も触れることはない。 お前は独り身を通し、他の誰も知るはずの
 ない昭王のことはお前の胸の中に封印される。 だが、燕を救ったお前のことはいつまでも燕の人々の記
 憶に残り、何年のちになっても昭王の回りで話題になる可能性がある………、それを昭王は繰り返し聞
 き、自らもお前のことについて語らなければならないかもしれんのだ………。」
「ミロ………………」
「こんな残酷なことがあるだろうか……そう思ったよ、俺は……。 誰しも、想い出は想い出として大事に胸
 の奥にしまっておきたいものだ。 しかし、昭王の場合はそうではない。 天勝宮中にお前の思い出が残
 り、それを多くの人間が口にするのだ………もしかしたら、趙から来た后が聞きたがることもあるんじゃ
 ないのか………?
 今だから言うが、俺は昭王のために涙を流したことが何度もある……身につまされてとても他人のことと
 は思えなかった……」
カミュは身を揉み込むようにミロの胸にすがっていた。 とても返事などできはしなかったのだ。
「しかし、さっきお前が気がついてくれた……昭王には、はっきりとした未来が見えたのだ! いつかはわ
 からぬ遠い日にお前と過ごす日々があることを知った昭王は、喜びの中に燕へと帰っていったのだか
 ら。」
白い頬に胸に肩に、ミロは口付けを繰り返す。
「昭王がお前に会いにきたのは、別れてのち、会いたい気持ちが高じたときのことなのだろうよ。 そして俺
 のことを知った昭王は、そのあとの長い人生を希望を持って生きていったのだ。 たった一夜の想い出を
 何十年と胸に抱いていったに違いない………」
「私も考えたことがある………お互いに相手が生きているかどうかもわからぬままに過ごしてゆくのだな、
 と………。 私の場合は、いつかギリシャへ帰ったのだろうから、帰路に燕を通ったときに燕王の近況を
 知ることが出来ただろう。 その治世は安泰か、子を幾人なしたのか、健勝でいるのかと………。 ギリシ
 ャにいても、風の噂で燕の趨勢を知ることも可能だったろう。 しかし、昭王は私のことを知ることは出来
 ぬ。 生きているか死んでいるかもわからぬままに私を思い続けてくれたに違いない……そのことを思う
 と私は………ミロ………」
「カミュ……案ずることはない……大丈夫だ…大丈夫だから………」
ミロがいとおしげにカミュを見つめた。長いまつげの先に雫が光る。
「昭王は全てを知ったのだ……夢が叶えられることを確信した昭王は、怖れも嘆きもせずにおのれの道を
 歩んでいった。 俺は確かにそう思う。この俺が言うんだから間違いない、安心して……カミュ……」

叶え切れなかった想いを込めて、ミロはカミュをいつくしむ。
艶やかな長い髪をいとおしげに指に絡め、声を忍ばせて耳元に口寄せて秘めた想いをささやいた。
「昭王は別れてのちも、お前のことを夢見たに違いない………その髪に声にどれほど焦がれ、想いを馳せ
 たことだろう。 お前も、そうだ、カミュ……シベリヤの厳しい寒夜の独り寝に昭王の肌身の暖かさを思い
 浮かべていたのだろうに………」
「ミロ………私たちで二人の……昔の夢を取り戻そう……」
「ああ、そうだ………俺はこんなにお前を愛してる……二度と離れたくはないぜ」
「私も………同じだ……」
寄せ合った頬が涙で濡れた。
どちらの涙なのか、ついにわからぬままになった。