副読本 その38 「 蓮の花 」


「今回は珍しくシャカが出てきたな。 あいつも燕にいることをすっかり忘れていたぜ。」
「うむ、私も失念していたが、蓮の花が出ればシャカの話が出るのも不思議ではあるまい。」
「え? どうしてだ?」
お気に入りの抹茶入り玄米茶を一口飲んだミロが首をかしげた。

ミロはコタツに入ってぬくぬくとしているのが好きである。
カミュと違って正座は苦手なので、座椅子にもたれて長い足をのんびりと伸ばしている。 もちろん、時々は足先でそっとカミュの膝に触ったりもできるのがちょっとした楽しみなのだ。
離れのコタツはゆったりとしたサイズで、二人並んでいても十分な横幅があるのだが、なにかというとミロがくっついてくるのに当惑したカミュが、夕食までは対角線か向かい合わせに入ることを要求し、しばらくは頑張っていたミロだが、結局はその案を受け入れるしかなかったのだ。 なにしろカミュがそれまでの幾つもの実例を挙げて、
「だから、私は困ると言っているのだ!」
と強硬に主張したので、ミロとしては反論する根拠が見つけられなかったのである。

   ほう…もう自説を撤回するのか、ミロも案外押しが弱いのだな、
   ことがことなので、もう少し執着するかと思ったが。
   私なら、もっと違う角度から論点を見出し、論理的に承服させる自信があるが、
   それをミロに望むのは無理だし、また、そうされてもこちらが困る。
   ミロが隣に来ると、ゆっくり茶も飲めぬのだからな。

そんな経緯があって、おとなしく対角線の位置に座っているミロが時々は膝に触ってきても、これは許容範囲とみなされていて、カミュも異議をとなえるようなことはしない。 そこは、大人の付き合いというものである。
「蓮は仏教と強く結びついている。 仏教の創始者である釈尊 ( ブッダ ) が誕生した際、蓮の花が開いてその瞬間の到来を告げたといわれており、そのため、仏教の様々な面で蓮の花や葉は登場するのだ。」
「すると仏教の象徴ってわけか?」
「蓮だけが仏教を代表するというわけではない。 無憂樹・インド菩提樹・沙羅双樹を仏教の三大聖木といって、仏教徒にはたいへんにあがめられている。」
「木をあがめるっていうのは面白いが、それはまたどういうわけだ?」
「ルンビニー園の無憂樹の木の下で、摩耶夫人がブッダを生んだと言い伝えられており、また、ブッダが悟りを開いたのがインド菩提樹の木の下だそうだ。 そして、ブッダが入滅 ( =亡くなること ) するときにその四方に二本ずつ、合計八本の沙羅双樹の木が生えていたという 。 これが三大聖樹だが、蓮のほうは、仏像の台座を蓮華台といって蓮の花弁を表しているとか、悟りを開いた仏が住む極楽浄土の池には様々な色の蓮が咲き、空からは蓮の花びらが降ってくるとか、いろいろに使われているようだ。」
淀みなく説明するカミュに、ミロはいつもながら感心してしまうのだ。
「ふうん、ギリシャ神話じゃ、アフロディーテが誕生したときにバラの花が贈られたことになってるが、ブッダは蓮なのか! そういえばアフロの双魚宮にはバラ園があるが、シャカの処女宮には確か……あ……」
「蓮の栽培には水が欠かせないが、十二宮の立地条件はそれを許さない。 シャカもさぞかし残念だったろうが、その代わりに沙羅双樹を植えたのだろう。 ブッダが亡くなったときにこの木の花が一斉に咲いて落花し、その身を飾ったと伝えられている。 だからシャカは………」
カミュが突然口を閉ざした。 伏せた瞳が暗い色に沈み、ただでさえ白い頬がさらに血の気を失ったように見えもする。
「カミュ……」
すっと立ったミロが、ためらいもせず横に座って、こわばった身体を抱いてやる。

   暖かい部屋なのに、こんなに身体が冷たくて………
   カミュも俺も……いつまであの記憶に苦しめられる?

「ミロ……私は……」
「カミュ……全ては終り、そして新しく始まっている。………なにも気にすることはない、シャカだってよくわかっているさ、あいつは悟りを開いているからな。」
「……それはわかっている……」
「あの危急存亡のときですら、冷静な判断をくだして、シャカの方からお前たちにA・Eを示唆したんだろう? 俺には 『 悟り 』 っていうやつの実態がよくわからんが、ともかくたいした奴だよ。」
そう言いながらいとおしげに口付けてゆくと、冷たい唇がそれでもそっと迎えてくれた。

   かわいそうに、カミュ……早く暖めてやりたいが……

「理性では……論理ではわかっていても、それでもつらいものだ………それに、シャカだけではない。 あろうことか、お前にもA・Eを………」
「それを言うなら、俺だってお前にスカーレットニードルを……」
「ミロ………」
白い頬に赤味がさした。
「今夜は互いに傷口を舐めあうようだな。」
「カミュ……それ、比喩のつもり? それとも……」
「ばかもの……」
ミロの目論見通り、今度こそ頬が真っ赤になった。



「カミュ、お前…………すごく素敵に書かれてないか?」
「え………?」
「お前は聞きたくないかもしれんが、まるで深窓の美姫だぜ、知らずに読んでると♪」
「美姫って……そんな……そんなことは私の責任ではないっ!」
「そうだけどさ………」
背を向けたカミュの首筋に口付けていくと、肩の力が少し抜けたようだ。
「貴鬼が思った通りに書いてるんだが、けっして間違いじゃないぜ、俺はそう思う。」
「でも………」
「そろそろ認めろよ……自分のことを第三者の目で見るくらい、お前には難しくないだろうに。」
「私は第三者が私のことをどう思おうと気にしたりはしない。 ただ………」
「ただ………なに?」
カミュが枕に顔を伏せるようにしたので、ミロは幾分身体を寄せて聞き耳を立てた。
「その………お前からは……よく思われたい……」
「カミュ………」
「あ………」
おそらく真っ赤になっているはずのカミュがいとしくて、ミロは後ろから抱きしめる。

   ほんとに可愛いじゃないか♪
   俺が、毎朝毎晩、賛美し続けてもこれだけ初々しいなんて!

「俺も自分なりに蓮のことを調べてみた。 それによると、蓮は泥中より茎を伸ばして清浄な花を咲かせることから、清らかに生きる人間の理想的なあり方とされるのだそうだ。 芙蓉とも呼ばれ、仏教とのかかわりから美と清純の象徴ともなっており、特に若く清らかな花嫁をさすこともある。」
カミュが小さく息を飲んだのはミロの気のせいなのだろうか?
「だから、蓮は恋愛や結婚、子孫繁栄を象徴する吉祥文様とされる。 そして……」
ミロは一段と口を寄せてささやいた。
「インドでは、最高の美女のことをパドミン ( 蓮女 ) というのだそうだ………」
「え………」
その言葉に耳まで赤くしているに違いないカミュを、ミロは想いの限りを込めていつくしむ。
「昭王は蓮にお前を重ねていたに違いない。 お前が蓮を手元に引き寄せるとき、その指先に見とれていたことだろう………」
「ミロ……」
「シャカの数珠の話をしてお前を笑わせながら、この笑顔をもっと見たいと、どれほど思ったことだろう……」
「ああ……ミロ………」
「貴鬼がお前を宮女よりきれいだとほめたとき、昭王はきっと子供のように頬を染めて微笑んだに違いない、俺にはわかる、どれほど嬉しかったことだろう……カミュ………」
やさしい口付けがくりかえされて、そのたびに白い頬が朱に染まってゆく。
「ミロ……一緒に蓮を見よう……夜の蓮も朝の蓮も…」
「雨の雫が葉の中央で銀の粒になるのを、この目で見よう……カミュ…俺のカミュ……」

   つらい記憶は、もう十分だ
   俺のカミュにそんな思いは二度とさせはしない

「このまま俺が極楽浄土に連れて行ってやるよ。 いいだろう?」
「でも、私たちは悟りをひらいていないし、仏教徒でもないのに?」
腕の中のカミュの生真面目な言葉がミロを微笑ませる。
「いいんだよ………俺たちは日本にいるし、蓮が好きなんだから……それにそういう意味じゃない♪」
「…え?」
ミロはそれ以上カミュになにも言わせなかった。
蓮のうてなでは、言葉は無用なのである。