副読本 その39  「 安寧 」


「貴鬼が昭王にさわれないのに、どうして昭王は飛雲の法でお前のところに来られたんだと思う? ここでは貴鬼が困っているが、結局は昭王を連れてこられたんだぜ?」

五月の声を聞いたとはいえ、北海道の夜はまだ寒い。 日中は十度を越えるような日でも明け方は二、三度にまで冷え込むことが多いのだ。
最近のミロは寝る前の露天風呂を日課にしている。 もともと離れが五つだけのこの宿の露天風呂は混む筈もなく、ましてや客種もいいとくれば、温泉パスポートで場数を踏んだミロに怖れるものは何もないのである。 毎晩通ってみれば、他の客に会うことのほうが少なくて、もっと早くから来ていればよかったと思うこの頃なのだ。
露天風呂から帰ってきてすぐに、寝ているカミュの隣にもぐりこんだミロは、頭の後ろに手を組んだまま天井を見ている。 この離れの天井は実にきれいな木目を見せていて、初めてこの部屋にはいったとき、そんなものを見たこともなかった二人をいたく感嘆させたのである。
「ふうん、あれは板みたいだが、ヨーロッパではペンキを塗るか壁紙を貼るかするのに、日本じゃ、そのままの板を使ってるのか!」
「日本家屋は 『 木と紙でできている 』 と云われることがあるが、たしかにその部分が多い。それに比べれば、十二宮などは、昔ほどではないが、大理石造りだからそもそもの発想が違う。」
日本家屋はミロの目にはあまりにも小作りに過ぎるのだが、それがかえってカミュとの二人きりの暮らしには似つかわしいように思えるのだ。 特に夜を迎えるには、この十畳間くらいの空間の方が濃密な時間を過ごせるというものではないか。

「槐の木の下に昭王を連れてくることについては、私も考えてはみたのだが、あまりいい考えが浮かばぬ。 もっと非論理的な作り話であれば、時間がないから、という理由であの場でムウが貴鬼に何らかの方法で奥義を伝授して、昭王に触れていなくとも飛雲の法を使えるようにするだろうが、そんなその場しのぎの手を使うとは思えない。 そんな簡単なことで奥義を伝えられるものならば、修行などは必要あるまい。我々もそうだが、飛雲の法も魔法ではなく鍛錬の賜物なのだろう。」
「ああ、そんなご都合主義は俺も感心しない。 それに、仮にそんなことがムウにできたとしても、太后や宰相の見ている前でやってほしくはないぜ。 どんな種類のものだろうと、奥義とか究極の技っていうものはそんな安易なものではないからな。」
自分の苛酷だった修行中の時代でも思い出したのだろうか、少し眉を寄せたミロはそう言うと腕を差し出し、少し向きを変えたカミュが慣れた様子で髪を払って頭を載せた。
「ほんとにいい匂いだ………昭王もお前に腕枕をしてやったのかな?」
洗い立ての髪に顔を寄せたミロがなにげなく言うと、
「……聞きたいのか?」
ちょっと考えたカミュが真顔になった。
「……あ、お前は全部知ってるんだったな………いや、いいよ、無礼に当るから♪」

   何時間か一緒にいれば、誰でも腕枕くらいはするだろうさ
   それに、そのほうが抱きやすいし………

「それにしても、お前、ほんとにきれいになったぜ! 聖域でもこれ以上はないというほどきれいだったのに、ここで1年近くも温泉に入って、さらに磨きたてたっていうわけだ♪」
「そんなことを言われても、私は知らぬ……」
「うん、お前はそうかもしれない。 だけど……」
ミロは、ちょっと確かめてみた。
「きれいになったのは、べつに顔だけじゃないんだよ。 サガにはわからなかったろうけれど♪」
「ミロ………」
ほのかな灯りの中で顔を赤らめるのがいとおしく、思わず枕にしていた腕ごと抱きこんでみる。
白い額に口付けたとき、ミロはやっとあることに気がついた。
「あれ?………まてよ? お前が1年間温泉に入り続けて、サガにもわかるほどにきれいになったってことは、もしかして……俺もきれいになっている……ということか…?」
ミロは唖然とした。
「だって………じゃあ、どうしてサガはお前のことだけを言ったんだ?? いや、俺は別にきれいだと言ってもらいたいとは思わないが、なぜお前ばっかり注目されたんだ?……まさかサガのやつ、ほんとにお前に……!」
抱きしめる腕に思わず力が入り、カミュをあえがせた。 いや、あまりの力の強さにあえぐことも難しかったといえよう。
「ミ……ロ…」
苦しさを訴えようにも、どうやら頭に血の上っているミロには聞えぬらしい。 不自由な姿勢の中でようやく手をわずかに動かしミロを押し返す仕草をすると、なんとかミロにも伝わったようだ。
「あ……ごめん!」
慌てて手をゆるめ、今度はそっと包み込むようにする。
「どう思う? なぜお前のことばかり……?」
「……さあ? 私にはよくわからぬが……私の方が色が白いから目立ったのかも?」
「う〜ん、たしかにそれはそうだけど.。 まあ、お前の方が小さいときからきれいで目立ってたのは事実だからな。」
ここでミロはさらに一つの疑問を持った。 あれほど論理的思考をするカミュが、今の今までこのことに気付かなかったということがありうるのだろうか?
「もしかして、お前……俺もきれいになってるってことに気付いてた?」
「あの……それは…」
ミロが黙っているので、どうしようもなくなったらしいカミュがやっと口を開いた。
「重曹泉に浸かっているのは顔ではなく身体なので……だから、あの……顔がきれいになるというよりは………」
ミロは、にやにや笑いながら黙っている。
「その……身体の…皮膚の方がはるかにきれいになるほずで……」
「……で、お前、どう思ったの?」
カミュは観念した。 そう訊かれて、何も思わなかった、などとは云えぬ性格なのだ。
「あの……なめらかでこころよい………と…」
その言葉に、にやにや笑っていたミロが満足の笑みを浮かべる。 ミロが千の言葉でカミュを賛美しても、カミュから褒めてもらうことは千にひとつもないくらいなのだ。
「それ…どのくらい前から気付いてた?」
「あの……半年くらい前から顕著になって……」
「……ふうん……すると、お前、ずっと黙ってひとりで楽しんでたんだ♪」
「そんなっ! そんな言い方をしなくても………私にそんなことが言えるわけがない………それに そんなことを言うならお前だって私を……」
その先が言えなくて口をつぐんでしまったカミュがたまらなくいとおしく思えるミロなのだ。
「うん、俺にとってお前はいつも最高だから、前よりもきれいに艶やかになっただろうか、なんてことを考える必要はないんだよ。 常にお前は美の最高の基準だからな♪ 抱くたびに俺はお前の素晴らしさに目をみはり、感嘆してる! 昨夜と同じだなんて思ったことは今までに一度もない! 最初のときから、日々いやます美しさなんだよ、それが当たり前だから、温泉のせいだなんて思いもしなかった♪」
すらっと言ってのけたミロがまぶしくてカミュは目を閉じた。 その耳にミロの声が響いてくる。
「カミュ……あと一回で招涼伝は終わるのだろう? 俺たちはもう……昭王には会えないのか?」
「いや……たぶん幾つかの番外編が出ることと思う……それに……」
「それに、なに?」
「昭王はお前の中に生きている。 私はいつもそう思っている。」

   俺の中に昭王が………?

「お前は宝瓶宮で昭王に会って話をし、あの槐の木の下でも………でも、俺は暗い中でしばらく見ていただけだ。 昭王は俺のことを知らない。 夢でいいから会えないものかな。」
「会って……どうするのだ?」
腕の中のカミュが微笑んだのが、なんとなくわかる。
「想いは引き継がれた、と………俺はこんなにカミュを愛し続けていると伝える……」
「あ………ミロ……」
「俺と昭王と……二人でお前を愛してやろう……」
長い指がいとおしげになつかしげに艶やかな髪を梳き、耳元に注ぎ込まれる言葉が甘やかな吐息を誘い出す。
「ミロ………受け止めるから……想いのすべてを受け止めるから………ひとかけらも残さずに私に伝えて………」
あとはもう言葉もなく、匂いやかに時が過ぎてゆく。

   ……会えるのか? ……俺は昭王に………

やさしい手に抱かれたミロの心に、様々な思いが去来する。

   俺の愛しかたで昭王は満足してくれるかな?
   ああ、きっと嬉しいに違いない  なんといっても昭王は俺なのだからな
   キスも抱擁も俺流だが、カミュも昭王も満足させる自信があるぜ

「ミロ………なにを考えている?」
「ん? 昭王に会えたら、なんと言おうかと思ってさ♪」
「そんな夢のようなことを………」
「いや、わからんぞ? 昭王の実体がお前に会いに来たことを思えば、夢で会うくらいはなんでもあるまい。」
「ん……そうかもしれぬ………では、もし会えたら伝えておいてもらおうか……私が昭王に愛されて幸せだったことを。 そして今も幸せでいることを。」
「わかった、伝えよう。」
柔らかな溜め息がミロの首筋をくすぐった。

風が出てきたのか、窓の外の熊笹がさらさらと音を立て、それがわけもなくカミュに、暖かいしとねで抱かれている幸せを思わせた。
「ミロ………」
「ん? どうした?」
「……なんでもない…」

   こんな、なんでもない会話が好きなんだよ♪
   意味が無いようでいて、俺たちにはしっかり意味がある

幾つかのキスと抱擁が交わされたあと、やがてカミュに穏やかな眠りが訪れ、それを待っていたかのように目を閉じたミロの耳に聞えてくるのは、いつもの通りやさしい寝息なのだ。
満足の笑みを浮かべたミロもやがて眠りについていった。