副読本 その40 「 大団円 」


「しかし、長い物語だったな、読みでがあった。」
午後の散策から帰ったミロがコタツの中に足を伸ばしながらそう言ったとき、来客を告げる電話があり、訪問客を迎えるためにカミュが離れを出て行った。

今朝の気温は4℃と この秋一番の冷え込みで、いかに暖房してあるとはいってもなんとはなしに肌寒さを感じさせるものがある。 朝の光に目覚めたときに目の前のカミュの肩が毛布から覗いているのがいかにも寒そうで、そっと掛け直してやりながらもう一度抱きなおして柔肌のぬくもりを楽しんでいたことなどを思い出しながらコタツでぬくぬくとしているのはなかなかどうしていい気分ではないか。

   ほんとにカミュときたら………ふうぅ…今夜が待たれるな♪
   それにしても、客っていったい誰だ?

のんびりとそんなことを考えながらカミュの淹れてくれていた玄米茶をすすっていると、やがて外から低い話し声が近付いてくる気配がして、玄関が開いた音にミロが振り返ってみると、カミュと一緒に入ってきたのはムウである。
「やあ、またご入来か、ムウ。」
「元気そうですね、ミロ。 ところでちょっと頼みがあるのですが。」
ミロは心底ギョッとした。 聖衣の修復なら、つい先日 協力したばかりではないか。
「おいっ、まさか、また血を取るんじゃあるまいな! あれからまだ一ヶ月しか経ってないんだぜ?!」
完全復調してからまだ一週間といったところで、これであと2、3年はないだろうと安心していたミロとしては、つい顔をしかめてしまうのだ。
「いいえ、そのことではありません。 実は、この 『 招涼伝 』 の映画化のことなのですが。」
ミロは心底ゾッとした。

   すっかり忘れていたが、ムウのやつ、本気で芝居、いや、映画にする気なのか?
   そんなのは、昔ながらのギリシャ悲劇で十分だ!
   冗談じゃない、俺は絶対にお断りだからな!

「おい、ムウ! 他の奴らは知らんが、俺は映画なんてものには出んぞ!」
「まあ、話を聞いていただけませんか、ミロ。 映画といっても全編CGで制作されますから、私たちは声優として出るだけなのですよ。 台本を読みますから、台詞を覚える苦労もありませんし。 肝心なのは私たちの声なのです。 それに、そもそも貴方がたが日本に乗馬の習得に来たのも、実際の乗馬シーンからCGを制作するために必要なことだとアテナが判断なさったことなのです。」
「……えっ!」

   アテナの判断……って、ほんとにそうなのか?
   映画を作りたくなったムウが、そうするように仕向けたんじゃないのか?
   いや、それはたしかに、おかげで俺たちは日本で素晴らしい休暇を過ごしてはいるんだが…

   そういったってなぁ………なんでそんなものに出なきゃならないんだ?
   カミュだって、きっと断るんじゃないのか?
   はて? ムウが妙に笑っているようだが、気のせいかな?

「カミュ、声優の話など俺は断るからな。」
カミュを見もせずに、むっつりとしたままでミロが不機嫌そうに言うと、
「困りましたね。 ミロはどうしてもわかってくれないのですよ。」
そう言ったムウが、黙って聞いていたカミュと顔を見合わせて目配せをした。
「ミロ……お前はまだ気付かないのか?」
カミュのその声が、ミロを凍りつかせた。

   俺の耳はどうかしたんじゃないのか?
   あれは……あの声は………
   いや、そんなことがあるはずはない、聞き間違いだ、そうに決まってる!
   あまりに望みすぎて幻聴を聞いたに違いない!

ミロはゆっくりと振り向いた。
そこに立っているのは確かにカミュだ、さっきまでと何も変わってはいない。
しかし、いま聞いた声は確かに……。

「ミロ。」
それだけで十分だった。
それは、長い間、ミロが捜し求めて、望み続けて、それでもどうしても取り戻せなかったあのカミュの声だった。
深く暖かく懐かしいカミュの声が、ミロの身体を包みこみ、魂を震わせた。
ようやく立ち上がってカミュの方へよろめく足を踏み出したが、カミュの名を呼ぼうとしても、唇が震え、喉が締め付けられるようですぐには声が出なかった。
「……ミロ、お前の声が聞きたい……私の名を呼ぶお前の声を聞かせてくれ。」
震える声でカミュが囁いた。

   何を言っているんだ、お前の声を聞きたいのは、この俺のほうなのに……!

ミロは力を振り絞り、声を励ました。
「……カミュ、俺の方こそ……」
その瞬間、ミロは大きく目を見開いた。

   ……今聞こえた声は、俺の声なのか?

自分で自分の声が信じられなかった。
自分の方を見ているカミュの姿が滲んで見えたとき、ミロは初めて自分が泣いていることに気付いたのだった。
「……私のミロの声だ……もう一度、聞かせてくれ。」
立ちすくんでいるミロを、いつの間にかカミュが抱きしめていた。
ミロはカミュの髪に顔を埋め、嗚咽した。 胸に熱いものがあふれ、せきあえぬ涙は止めどなく頬を濡らす。
カミュを失った哀しみや、その後の身を裂かれるような辛い日々。
再び巡り会って、取り戻した安寧の日々。
しかし、すべてが元通りになったようでも、完全であるべき円環の一片が欠けていた。

「カミュ……俺は…言ってはいけないと思っていた。 お前がこの手に戻ってきたのだから、これ以上望むのは我儘だとずっと思っていた……」
カミュの手がミロの髪を撫で、いつくしむ。
「お前と過ごしているときにお前の声を思い出せなくなるのを、どれほど俺が恐れただろう。 そして、そんなことを考えていることを悟られたら、どれほどお前を傷つけるかと思って……カミュ………俺は……俺は………」
「私も同じだ、ミロ………お前の声を望み、そして、望んではいけないことを知っていた。」
顔を伏せていたミロにはカミュが見えなかったが、その声が震え、泣いていることを伝えてきた。

「お取り込み中、申し訳ありませんが…」
ムウの声に、あっと思ったミロが手の甲で涙をぬぐい、振り向いた。
「そうだ、ムウ、お前の声も!」
「ええ、そうです、私もですよ。 まったく気付いてもらえませんでしたね。」
ミロが顔を赤らめた。
「すまん……、しかし、どうして? それに、その……お前の声は……」
「すべてはアテナのおはからいです。 映画化の件をご相談したところ、古い時代の話なのだから、声も以前のままが似つかわしいだろうとのお考えでした。 これは御存知の通り、私達にもかなり嬉しいところです。 それに、」
と、ムウは付け加えた。
「どうやら、聖域以外でもその要望が多いようでしてね。」
ムウは楽しそうに笑うと、玄関の方に向かい、襖に手をかけた。
「あ、そうそう、忘れるところでした。 第一回目の台本の読み合わせは来月早々になりますが、二人とも出てくれるでしょうね?」
目を赤くしたカミュが頷き、ミロは真っ赤になってその返事とした。
「映画になるからには台詞も増えますよ、特に昭王は倍増どころの話ではないようです。 ナレーションは星矢に決まりそうです、彼はいい声をしていますし、物語中には登場しませんのでね。 むろん青銅も、」
珍しいことにムウがウインクをした。
「今ごろは元の声に戻っていますよ。」
そう言うとムウは、玄関を出ていった。

いつしか夕闇が忍び込み、室内は暗くなっている。
明りをつけようとしたカミュの手をミロが引き寄せた。
「互いの声を聞くのに明りは無用だ。 今夜は飽きるまでお前の声を聞かせてもらおう。 飽きるとは思えんが。」
「お前の声もな。」
「望むところだ。」
二人の影が夕闇に溶けていった。

黄金の邂逅、黄金の円環、満ち足りた悠久の時間。


                               ― 完 ―