其の弐拾七  絵巻


正月七日に執り行われる白馬の節会 ( あおうまのせちえ ) とは、天皇が内裏の紫宸殿で白馬 ( あおうま ) を見る行事である。 馬を陽とし、青を春と結びつける陰陽五行説により、この日に白馬を見ると一年の邪気を払うといわれているのだ。

今は凛々しい美丈夫で都人の耳目を一身に集める少将であるが、誰しも幼いときはある。
ようやく物心ついて初めて迎えた年の暮れ、屋敷内で盛んに白馬の節会の話が出るのに幼いミロは興味を持った。
「あおうまのせちえ、ってなんのこと?」
周囲の女房にきいてまわると大体のことは教えてくれるのだが、誰一人として実際に見たものはいないので、今ひとつほんとのことがわからない。
「北の方様がお分かりかもしれませぬ。」
そう言われて喜び勇んで母の元へ行くと、なんと見たことがあるというではないか。
「すご〜い、ほんとに?ほんとに?!」
「はい、ミロ様のお父上と結婚するまえに中宮様のおそばに尚侍 ( ないしのかみ ) として上がっておりましたので、その折に。 一番初めに主上が紫宸殿で白馬をご覧になられ、そのあとで行列が後宮の殿舎にも回ってきますので、中宮様はじめおそばに仕えるわたくしどもも端近まで寄りましてめでたく拝見いたしましたのよ。 命が延びる思いがいたしましたわ、それはそれはきれいな真っ白い馬がたくさん通って、ほんとに見事で!」
母のムウが宮廷に仕えていたことを初めて知って、そのことにも驚いたのだが、ミロを驚かせたのはそれだけではなかった。
「えっ? 青い馬じゃないの?」
「まあ、ミロ様は青い馬だとお思いに? いいえ、白馬の節会では昔から白い馬を引いてまいるのですが、そういえばなぜ、あおうま、というのかしら?」
むろん、周りの女房たちも首をかしげるばかりで、わかるものは一人としていない。
「まもなくお父上がお戻りになられますゆえ、お伺いしてみましょう。」
「うんっ、そうする!」
「ミロ様、はい、と仰せられませ。」
「はい…」
頬を染めて恥ずかしそうに小さな声でいう若君の愛らしさに一同は笑みこぼれるのだ。

やがて宮中から紫苑が戻って来た。
待ちきれないミロが中門廊の車寄せのあたりにいると、ぎいぎいと車の軋む音がして大きな黒牛が牛車を引いてのっそりと入ってくる。廂の下にえいえいと車を引き入れて牛飼い童が牛をはずして連れて行ってしまうと中から紫苑が降りてきた。
「父上、お帰りなされませ!」
「うむ、いま戻った。」
衣冠束帯の正装の紫苑は子供の目にも立派過ぎていささか近付きがたくはあるのだが、白馬のことを聞きたいミロは紫苑が寝殿へ行く間もまとわり付いて離れようとはしない。
「父上、節会のあおうまはなぜ白いのですか? 母上も誰も知りませぬゆえ、教えて下されませ!」
「ほぅ! 白馬のことか!よしよし、よきものがある。そちにもそろそろ見せてもよかろう。」
女房の手を借りて肩の張る束帯から直衣に着替えた紫苑はミロを膝に乗せると、かたわらの厨子から巻物を取り出させてさっそく広げ始めた。
「よいか、ミロ、これは宮中の決まりごとを書き記したものだ。 春夏秋冬のさまざまな行事のおりの人の動きや物のしつらえなど詳しくわかるようになっている。 新しいお役目に付いたときなどは、これを見てあらかじめ覚えておけば困ることはない。 細かいことは去年のお役目のものに聞くにしても、なにもわからぬというのでは話にならぬからな。 我が家の宝として子々孫々にまで伝えねばならぬ大事なものだ。」
それはたいそう美しい絵巻で、いままでミロが眺めていた鬼退治やら宝物探しの絵巻とはわけが違うのは子供でもわかるのだ。 ミロがまだ見たことのない宮中の殿舎の屋根も柱も精緻な描きぶりが素晴らしく、馬も人も生き生きとしてまるで今にも動き出さんばかりに見える。 桜の花や木々の緑が色鮮やかで、群青で色濃く描かれた雲さえ今のミロには自然に見えるのは不思議なものだ。 絵が描かれた次には細かい字で色々な覚書が書き込まれているのだが、今のミロにはそんなものは目にも入らない。
紫苑の膝の上でどきどきしながら巻き解いていく先に目をやると、白い馬が何匹も出てきたではないか。
「あっ!」
「これが白馬の節会の様子だ。 畏れ多くもこの奥におわすのが主上、黄櫨染 ( こうろぜん ) の御袍 ( ごほう ) をお召しになっておられる。 その手前が大臣たちぞ。 この階 ( きざはし ) の下の左右に控えているのが左右の近衛中将以下になる。 馬は左右の馬寮から十匹ずつと、毎年交代で一匹ずつを出し、合わせて二十一匹がこのように紫宸殿の前庭を通り抜けるのだ。」
「父上は?父上はこの中にいるの?」
夢中になったミロが聞いているところへ北の方のムウがやってきた。
「まあ、むずかしいことを。 早すぎはしませぬか?」
「なに、ミロもいずれは節会に参列するのだ。 興味を持ったときに話してやるのが良かろう。」
「ねぇ、父上はどこ??」
「よしよし、父はここぞ。 今年はこの階の下の一番奥であったが、来春にはここだ。」
指差す先は階の上の殿上で、主上と向かい合う席である。
「まだ参議ゆえ末席だが、なに、いずれは…」
「紫苑様、そのようなお話は早すぎましょうに。」
ムウにやさしく睨まれた紫苑が話を変える。
「そういえば白馬のことを話しておらぬ。 灰色がかった毛並みの馬のことを青馬というのはミロも知っていよう。 遠い以前は青が縁起の良い色というので青馬をご覧に入れていたのだが、いつしか白い馬の方が尊いということになり、節会で主上がご覧になる馬も白い馬になったのだ。 それでも呼び方だけは昔ながらに、あおうま、のままで残っている。」
「ふうん……よくわかんないけど面白〜い♪」
「まあ、ミロ様! こんなに丁寧に教えていただいて、そのお返事は……!」
「よいよい、そのくらいで叱っていては器が小さくなるというものだ。 よいか、ミロ、あと何年かのちにはそちも童殿上 ( わらわてんじょう ) ぞ。  しっかりと勤め上げて宮中の決まりごとなどを覚えたのちは、六位を賜わり出仕することになる。 その折にはこの父が取りはからって近衛府に入れてやろう。 さすれば、いずれは白馬の節会にも参列できようというものだ、その目でしかと白馬を見るがよい。」
「はい、父上!」
童殿上とは元服前の貴族の子弟が行儀見習いのために宮中に上がるもので、それを経てのちに正式に出仕となるのが通例である。
あまりよくわからないままに童殿上のことをいい聞かされて来たのだが、いずれは自分もこのような絵巻の中の人になるのかと思うと急にどきどきするミロである。
この頃の紫苑はまだ参議で、大納言の今ほど貫禄はないかわりにもう少し細身の花の貴公子で、宮中では  「御子がおありとは、口惜しい!」  「いえ、そんなことはかまいませぬ、紫苑様にお声さえかけていただければ魂さえ天に昇りまする!」  といった調子で女房たちの視線を一身に集めていたのだが、そんなことを幼いミロが知るはずもない。 ただひたすらに立派な父を見上げて誇りに思って慕っているのだった。
そこへ女房の一人が緋色の紐を飾り結びにした文箱を捧げもってやってきた。
「父はこれから文を書かねばならぬゆえ、母上のところへ参って遊んでくるがよい。 」
膝に乗せていたミロを立たせてムウのほうに押しやると、
「ミロ様、父上様はなにやら大事なご用事がおありの様子。さ、こちらへいらせられませ、わたくしどもがいてはきっとお邪魔になりまする。 アイオリアを呼んで一緒に双六でもいたしましょう。」
にっこりと笑ったムウの言葉に、なにやらひっかかるるものがないでもない。
「おい、なにか誤解しているのではないか? これは六条の伯母上からの文で…」
「まあ、さようでございますか。 いえ、わたくしはなにも誤解など……それともなにか私が誤解せねばならぬようなことがありましょうか?」
ほほと打ち笑ったムウがミロの手を引いて出てゆき、苦笑いした紫苑は紅梅色に薄紅の薄様を重ねた文を読み始めた。

「父上が白馬の節会に出ておられたことを母上は知っていた?」
「ええ、もちろんですとも。 私が出仕して初めての節会のときに、父上は近衛府の白馬を先導するお役目でいらしてたいそう凛々しくておいでになりましたのよ。 中宮様のお住まいの麗景殿の御簾内からそっとさし覗いていましたら、出し衣 ( いだしぎぬ ) が美しいと、その夜、お文をくださいまして。」
つい、なれ初めを話してしまい、ムウはぽっと頬を赤らめるのだが、ミロにはそのあたりの機微はわからない。
「わぁっ、父上が馬を! すご〜い! 私もやりたいっ! ねえ、いつできるの?」
「ミロ様がもっと大きくおなりあそばして、立派な公達になられましたらきっと!」
「うんっ、頑張る!!あっ、アイオリア! 白馬の節会って、知ってる??」
母の手を離して、こちらに来るアイオリアに駆け寄ったミロがたいへんな勢いで節会のことをしゃべり始め、いきなりのことにアイオリアはなにがなんだかわからないのだ。
「あの……若君、馬がなんと?」
「だからね、すごい絵巻があるんだよ、今度父上に頼んでアイオリアにも見せてあげる!」
手をぶんぶんと振り回して馬を引く真似をしながら自分の将来を力説するミロを高欄に残してムウが部屋に入った。
「二人に水菓子を。」
心得た女房が立ってゆき、ムウはほっと溜め息をつく。

   いつかミロ様にも心効いた女人が現れるにちがいないけれど、いったいいつのことかしら………
   あまり早くても寂しいし、いつまでもお一人でもよくないし………紫苑様に似るのかしら?

そんなことを考えながらムウが傍らの手文庫から双六を取り出した頃には、高杯にとりどりに載せた水菓子も届いている。
「さ、こちらへ。」
わっ、と歓声を上げたミロがアイオリアの手を引っ張って入ってきた。
白馬の節会まであと半月ばかりのことであった。


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