翌朝の目覚めは早かった。
肩先がフトンから出ていたミロが大きなくしゃみをし、それが目覚まし代わりとなったのだ。
空はようやく白みゆくところで、目を覚ましたとたんに何度もキスをされたカミュは、朝の散歩を提案することにした。
これ以上フトンにいても組み敷かれるのは目に見えている、と考えたカミュの提案をミロが二つ返事で承諾したというわけではむろんなく、フトンから脱け出すまでにはそれなりの経緯があったことは事実だが。

「ほう!」
玄関を出ようとした二人は思わず声を上げた。
そこは別世界だったのだ。 朝霧が白く立ち込め、目の前の木々をぼんやりと浮かび上がらせている。
高い梢の辺りは霧に隠れて、緑の葉はしっとりと露に濡れていた。
標高700mほどのこの辺りは、宿から一歩出れば深山の趣きがあり、地中海の降りそそぐ日差しに慣れた二人をことに楽しませる。
玄関から左手の方には、霧の中へと散策の小径が伸びているのが見えた。
「これは、すごいな!」
「湿度の低い聖域ではお目にかかれぬ風景だ。 朝日が当たったら、それこそ雲散霧消するのであろう。よいときにめぐり合った
 ものだ!」
霧の中に続く小径を辿ってゆくと、やがて道は下り坂となり足元に乳白色の霧が渦を巻く。
慣れぬ下駄の足元に注意しながら不定形の石を並べた階段を下りてゆくと渓流沿いの散策路につながった。
どうやらそこは狭い渓谷になっているらしく、宿のあたりよりも一層霧が濃い。
「どうにも大変なものだ! 2、3m先さえぼんやりして見えるとはな!」
せんだってシベリアに貴鬼を連れて行ったときの霧は、カミュが人為的に発生させたものなので不思議にも思わなかったが、この霧の素晴らしさはどうだろう!
初めての経験にミロは感心せずにはいられない。
「霧というのは、気象用語で 『 視界が1km未満 』 の場合をさし、それ以上の場合は靄 ( もや ) というのだ。 地上付近にできた雲だといっても間違いではない。」
「雲? 俺たちは雲の中を歩いているってわけか?」
「そういうことだ。 霧は、気温の低下により空気中の飽和水蒸気量が変化することによって発生する。
 たとえば、空気1立方m中に含みうる最大水蒸気量は、30℃で30グラム、20℃で約17グラム、10℃で約9グラムだ。
 湿度100%で気温20℃の空気が10℃に冷えると、1立方mあたり8グラムの水蒸気が余分となり、小さな水滴になって空気中を
 漂う。空気中の水滴が多くなると、大気は白くなって見通しが悪くなる。それが霧だ。」

   ふうん、水と氷の魔術師といっても、きっちりした科学の裏づけがあるってことか!
   しかし、カミュと雲の中にいるって設定は、ちょっといいじゃないか♪

通り過ぎる道沿いの太い木の幹には蔦が絡みつき、早くも葉を紅く染めている。 湿気を含んだ冷涼な山の空気が、ミロを震わせた。
「寒いのか?」
「お前ほど寒さに慣れてはいないからな。 我慢できないって言ったら、暖めてくれる?」
「お前の考えは、すぐそれだ。」
「しかたないだろ? お前のことが好きなんだから。」
ぱっと頬を染めたカミュの肩をとらえたミロが唇を重ねてゆくと、初めはためらいの色を見せていたカミュの手がやがてミロの背に回され、朝霧の中に二人の影が溶けてゆく。 湿り気を帯びた髪の匂いがまるで湯上りのように感じられ、しっとりと露を含んだなよやかな身体がしなだれかかってくるのがミロにはたまらぬのだ。
霧が音を吸い込むのだろうか、さらさらと流れる渓流の音だけが耳に響き、ときおり小鳥の声がするだけの冷涼な世界がそこにはあった。
「もしかして…………霧、濃くしなかった? 昨夜のことを思い出したわけ?」
「……そんなことは……私は知らぬ」
名残惜しげに唇を離したミロに問われて、慌てて歩き出したカミュの背中が 「 わかっていることを聞くな 」 と言っているようで、笑いを噛み殺すミロである。

渓流沿いに下っていた小径はやがて流れから離れて上り坂となった。 どうやら宿へと戻ってゆくらしい。
「そうそう、昨夜の時代考証で言い忘れていたことがあった。」
「ふうん、几帳面なお前にしては珍しいな!」
「お前に言ってもらいたくはない。 続きを言おうと思ったとたんに、私を抱いたのはいったい誰だというのだ?」
「あ! もちろん、俺 ♪」
くすくす笑うミロにはなんの恥じらいもないのが、カミュにしては少し悔しいのだ。
「………まあ、それはよい。言い忘れたのは、仏教のことだ。
 中国に仏教が伝来したのは、紀元前後であって、中国最初の仏教寺院 「白馬寺 」 が河南省洛陽市に建立されたのは西暦68年
 のことだ。よって、それより300年以上さかのぼった時代の燕に仏教があったとは、思われぬ。」
坂を上りながら息も切らさずに一息で説明すると、カミュは 「さあ、どうする?」 というようにミロを見た。
「……え? 仏教はまだ伝来してないのか?」
ミロは考えてみた。
仏教がなかったとすると、シャカの燕における存在はどうなるか。
そして十二神将とカミュの関係を疑った昭王の立場もなくなることになり、輪廻の観念も存在しなくなるはずだ。
「それは困るっ!」
「うむ、私も困っている。 どうも招涼伝には、この手の誤謬が目立つようだ。」
そう言いながら歩みを止めずに先に進むカミュの手を、ミロが捕まえた。
「カミュ………お前、このことを忘れろよ!」
「……なに?!」
「お前さえ忘れれば、誰もなにも言いはしないだろう。 なあ、そうしろよ、いや、そうしてくれ!」
青い目にまっすぐに見詰められたカミュが困惑したようだ。
「しかし……仮に私が忘れても、シャカはすぐに気付くだろう。」
「あいつは悟りを開いてるから俗世間の細かいことは気にしないだろうよ。 それに………」
言葉を切ったミロは、ちょっと考えた。
「仏教がないとするとシャカの役どころは変更になる。
 仏教伝来以前の原始宗教の継嗣者かもしれんぞ、と囁いてやるのはどうだ?。 そういうのは嫌だろうから納得するさ!」
「そういうものだろうか?」
「いいんだよ、それで……俺が決めたんだから……」
カミュを引寄せてしっとりとした唇を重ねれば、ふたたび濃い霧が渦を巻き二人を包んでゆくのだ。白い頬が紅に染められてゆくのがミロの心をくすぐった。

   魚心あれば水心か………この反応の良さもお前の美質だよ ♪

今朝の冷え込みに金木犀も一斉に花を落とし、地面を橙色に染めている。
秋の主役の座は、鮮やかな紅葉に移ろうとしていた。