第三夜  ムウ


その日、訪問客があったことを知らなかったのは、俺の一生の不覚だった。

この時期の北海道にしては珍しくいい陽気で、少し汗ばんだ俺は露天風呂に行く気になった。 まだ午後も早いので泊り客は誰もおらず、のんびりと楽しめそうなのだ。
「この時刻なら泊り客はまだ来ないだろうが、お前はどうする?」
「遠慮しておこう。 到着が早まった客が入浴を思いつくかも知れぬし、風邪も治りたてゆえ、湯は寝る前につかわせてもらう。」
そこで俺はカミュを離れに残して露天風呂へと出かけたのだ。
案の定誰もおらず、俺はゆったりと湯に浸かりながら昨夜のことなどを思い返していた。 風邪のせいでカミュを抱くのは4日ぶりになり、どうにも新鮮でならなかったのだ。

   病み上がりのせいかこころもちやせたようで、抱きしめた感触がちょっと違っていたな……
   それに、俺があんなことを言ったせいで少し泣かせてしまったが、雨降って地固まる、だ。
   結果としてはよかったじゃないか、今夜はなんと言ってくれるだろう?

いい気分で湯から上がり、少し早めだったが浴衣を着て浴室をあとにした。 6月になったので、浴衣の柄も、なにやら日本的な花に雨が降っているデザインのものに変わっている。昨日の朝、美穂が新しい浴衣を離れに届けてくれたのだが、夏にほとんど雨の降らないギリシャの感覚では、6月に雨のデザインというのも妙なものだ。俺は去年のことを思い出していた。

「おい、どうして6月が雨の模様なんだ?」
「日本の降水量は、ギリシャに比べてはるかに多い。 ギリシャの年間降水量は約430ミリだが、日本では年間約1700ミリ、我々のいる北海道では1200ミリほどだが、北陸・南九州では2500ミリを記録する。特に6、7月は梅雨といって気象学的に雨の多い季節だ。 北海道には梅雨がないと言われるが、それでも日本人全体としては6月には雨のイメージがあるので、この柄を選んだのだろう。」
「ふうん、そんなに雨が多いから緑がこんなに豊かなんだな。 聖域なんか、夏には一滴の雨も降らん。アフロが苦労するのももっともだ。 お前が手伝ってやらなけりゃ、枯れるんじゃないのか?」
「うむ、アフロディーテがバラを植えるようになったのは、私が自由に水を操れるようになってからだ。 小さいときに頼まれて、わけもわからずに、うん、と言ったのが始まりだった。」
「きっとお前が大きくなるのを手ぐすね引いて待ってたんだよ。 もっとも、俺は違った意味で待ってたけど♪」
俺の言葉の意味を悟ったカミュが頬を染めたところで、そのままキスに持ち込んだのだった。

そんなことを考えてにやにやしていた俺はホールに入る前に表情を引き締めた。 なんといっても美穂たちの前では真面目な顔をしていなければならないのだ。
ホールを行きすぎようとしたとき、美穂が俺を呼び止めた。 お辞儀をして、手に持った紙切れを渡してくれる。

  『 すまぬがちょっと聖域まで行ってくる。 夕食までには戻れると思う。』

俺は首をかしげた。 さっきまではなにも言っていなかったのだから、俺が入浴している間に何かの連絡が来たのに違いないが、もう少し詳しく書いてくれればいいものを、これではさっぱり分からない。
すると、俺の様子を見ていた美穂がフロントへ俺を引っ張って行き、紙になにやら書き始めた。

   なんだ? 英語を書かれても俺にはわからんが。
   ふうん……人の顔か? なるほど、似顔絵のようだ……
   カミュを訪ねて来たやつの顔かもしれん、ちょっとした推理ものだな
   髪が長いが、女なのか?
   おいおい、こんなに目の大きい人間はいないぜ……非現実的な絵だな、論理性がない
   カミュが見たらなんていうか聞きたいもんだぜ
   あれっ、髪の色が!
   すると、これはアテナかっ????
   アテナがここに来たのかっっ????

いるはずもないのに、ついあたりを見回してしまう。
俺が唖然としていると、美穂は、そうそう思い出した、という顔でさらに決定的な箇所に手を加えた。

   な、なにぃ〜〜〜っ!!こ、この眉はっっ!!
   アテナじゃないっ、これはムウじゃないか!
   どうしてムウの奴がここに???!!!

得々としてアリエスのムウを描き終えた美穂は、その紙をかざしながら玄関の外を指差して、カミュ様、カミュ様と繰り返したのだ。

   
拉致だっ、カミュが拉致された〜〜っっ!!!!

俺はその場にへたり込むのをやっとの思いでこらえたのだった。


夕食までの時間がこんなに長かったことはない。
ムウがなんのつもりでカミュを連れていったかは分かりきっている。 通常ならそれほど気にはしなかったろうが、カミュは風邪が治ったばかりで、本調子ではないはずだ。 いや、それはたしかに昨日は本復祝いをして、久しぶりにカミュを抱いた。 抱いたけれども、病み上がりということを考慮していつもより控え目にしたのだった。 この俺がそこまで気を使っていたというのに、ムウのやつがカミュをっっっ!!おのれ〜〜っ!!

イライラしている様子は見せられないので離れにいることにしたが、我慢できなくなり、暇そうな顔をして玄関ホールまで行ってみた。 カミュとムウが出かけるときは、 「ちょっとそこまで 」 のような顔をして出てゆき、人目のないところまで行ってから聖域にテレポートしたのだろう。 やがてカミュは徒歩で玄関先に現れるに違いないのだ。 俺は玄関が見通せる娯楽室の椅子に陣取り、写真雑誌をめくりながらカミュの帰りを待つことにした。
日が落ちて、ほとんどの泊り客が食事処に向かった後で、やっとカミュが帰ってきた。 俺のイライラと不安は頂点に達していたが、そんな様子はかけらも見せずに立ち上がる。
「ああ、ミロ、待たせてすまぬ。」
「そっちこそ疲れたろう。 食事の前に部屋に戻るか?」
「………いや、このまま食事にする方がよいだろう。」
ちょっと考えたカミュがそう決めたのは、余分に歩くのがつらいからに違いなかった。 できるものなら支えてやりたいくらいだが、そうもできないのが歯痒くてならないのだ。

献立は、病み上がりのカミュが本調子でないから、という理由をつけて、栄養のあるものに替えてもらっている。 そんな簡単なことは、主人にメモを渡せば簡単に解決するし、 今日のカミュは、のんびりと酢の物やトーフを食べている場合ではないのだ。
いつもの席で乾杯をする。
「しかし、どうして俺のいないときに来なきゃいけないんだ? 俺がいたら、お前を行かせはしなかったのに!」
「しかたあるまい、ムウの話では、私達が日本にいる間に他の黄金が聖衣修復に協力している。 順番がまわってきて当然だ。」
もともと色白なのに、今日はことさらに血の気がなくて俺をはらはらさせるのだ。
「とはいっても、この間、熱を出したばかりだからな。 待ってる間、気が気じゃなかったぜ。」
「ほんとに心配をかけた。 血を提供したあと白羊宮でしばらく休んでから帰ってきたのでいつもより時間がかかってしまった。ムウも私がふらついているのを見て、修復の手を止めて、宿の近くまで一緒にテレポートしてくれたのだ。」
話を聞くと、血を取る前にカミュの体調がいまひとつ完全でないことに気付いたムウが 「 ミロと替わったほうがいいのでは 」 と言ってくれたのだが、カミュは 「 せっかく来たのだから 」 とそのまま押し切ったのだという。
「テレポートすればあっという間なんだから、無理しなくていいんだよ、そんなときは俺に頼って欲しいな。」
言ってしまってからはっとした。 頼るという言葉にカミュが過敏に反応するような気がしたのだ。

たしかに、カミュは俺より虚弱でもなければ、聖闘士として力量が劣るというわけでもないのだが、俺の気分としてはどうしても 「 守りたい 」 し、「 かばいたい 」 のである。 どうしてかというと………まあ、そんなことはいいのだが、ともかく俺がそういう気持ちになりがちなのに反して、カミュの方は 「 守る 」・「 かばう 」・「 助ける 」・「 頼る 」 系の言葉には敏感で、俺が不用意に使うと手厳しくやりこめられることが多い。
   「私はお前に守られる必要はない。」
   「だからさ、そういう意味じゃなくて…」
   「では、どういう意味だ?」
   「どういうって……」
   「では、聞こう。 お前は私に守ってもらいたいと思うか?」
   「いや、そんなことは………ない。」
   「では、私も同じだ。 ともかく今後一切、そのような発言は慎んでもらおう!」
論理で勝てる筈はないし、実際にカミュの言っていることは正しい。 正しいが、やっぱり守りたいものは守りたいのだからしょうがないではないか。 それ以来俺は、陰ながら守る、ということを座右の銘にしているのだ。

幸い今日のカミュは人の言葉尻をとらえるようなことはせず、ちょっと困った顔をしただけで、運ばれてきた黒毛和牛すね肉のシチューに箸を伸ばしてくれた。 たんぱく質がありそうだから、体内の血液不足が、俺の台詞に反発させるよりも、本能的にそっちに食指を動かさせたんじゃないのか?
「なんなら俺の分もやろうか?」
「気持ちは有難いが、人目もあることだし遠慮する。 それに……」
一口食べたカミュが満足そうに溜め息をついた。
「とてもよい味だから、ぜひミロにも食べて欲しい。」

   いい台詞じゃないか!
   『 愛し合う同士が一緒に食事を楽しむと、いっそう美味しいし、愛も深まる 』
   とか、ものの本に書いてあったが、あれは本当だな♪

こんな調子でゆっくりと食事を楽しんだあと、カミュの歩調に合わせてゆっくりと離れに戻っていった。
さっと湯を浴びたカミュが浴衣を着込んだところを見計らって髪を乾かしてやる。
「大丈夫か? めまいなんかしなかった?」
血の量の足りないせいで倒れるんじゃないかと気になった俺は、一緒に入ろうか、と声をかけたのだが案の定断られて、露天風呂に行かずにカミュの上がるのを待っていたのだ。
「ぬるめの湯にしたので案ずるほどのこともなかった。 だが、すこし……」
「すこし?」
「自分の身体が頼りなげな気がする。」
それはそうだろう、傷ついた聖衣の修復のために体内の血を半分近くも提供したのだから、普通の人間だったら命を落としているところなのだ。髪を乾かすのをやめて、カミュの左手首をそっと手に取ってみた。 つけられた傷から必要なだけの血を抜いた痕跡は、ムウによってきれいに消されていて跡形もない。 傷など残りはしないが、失われた血液を戻すことはムウには出来ないのだ。 ひたすら時間をかけて体力の回復を待つしか道はない。
力なく預けられた手に俺はそっと口付けていった。

今日二回目の露天風呂から戻ってくると、カミュは既に寝入っていた。 待っている、とは言ったものの、やはり疲れが出たのだろう。 いつも俺が寝る側に向いて身体を丸めているのがいとおしくて、 そっと横に滑り込み、起こさないようにと注意しながら艶やかな髪に口付ける。
これであと半月はカミュを抱けないだろう。 失われた血液を身体が作り出すには、それほど時間がかかるのだ。

   やれやれ……ムウが泊まったわけでもないのに、こんなにカミュを抱けないとはね
   まあ、聖衣修復のためならしかたがないが……

かなり以前に俺たちが親密な関係になって間もないころ、俺が出かけている間に急に呼ばれたカミュが血を提供したことがある。 夜遅く戻って来た俺は、そんなこととは知らずに眠っているカミュを抱き、体力の落ちていたカミュは感極まって人事不省に陥ったことがあるのだ。

   あれには参ったな………
   俺も早く気付けばよかったものを、
   頼りなげなカミュを、はかなげで恥じらいを含んでいると思い込んで舞い上がったんだからどうしようもない
   経験値が低いっていうのは困ったもんだ

今度は同じ轍は踏まない。 ゆっくり休養させて、元通りになるまで大事に大事に包んでおこう。
柔らかい寝息を聞きながら俺も目を閉じていった。



              傷ついた聖衣の修復、
              これが出来るのはムウ様だけで、それには大量の血液を使います。
              この初期設定のおかげで、黄金聖闘士はみんな苦労するんですね…。
              一般的には血液の30〜40%を失うと生死にかかわる危険な状態といわれていますから、
              そもそも体内の血液の半分、なんていう設定が大間違いです、非科学的です。
              でもまあ、しょうがない、そういうことになってるんですから。

              さて、うちのムウ様はかなり親切です。
              今回、修復に使う血液量が半分だったか三分の一だったか思い出せなくて、
              手っ取り早く検索に走りました。
              すると、量をはっきり書いてなくて、探せども探せども、ムウシャカサイトが出てきます。
              と、どちらもムウ様の性格がかなり際立ってまして………え?ムウ様ってこんな人だっけ?
              その反動で、うちのムウ様は親切です、招涼伝でもいい人だったし♪

                  
「俺が血を提供したら、いたわってくれる?」
                  「むろんだ、お前が私にしてくれたように、
                   食事に気をつかって、髪を乾かしてやって、そっと抱いて寝てやろう。」
                  「ふう〜ん、嬉しいね♪ かえってドキドキして眠れないかも?」
                  「それでは回復が遅れるが、よいのか?」
                  「………よくない……」
                  「では、いたわらないほうがよいのかもしれぬ。」
                  「そんなぁ〜〜!」