「 匂い 」


来るはずのミロがやってこなくて二日が経った。
たまには静かに読書ができると思っていたカミュだが、結局身が入らずに時は過ぎ、ついに夜更けてから天蠍宮に足を運んでみたのだ。
聖域には珍しく朝から冷たい雨が降り続き、静まり返った十二宮に動く影はない。 通り過ぎるいずれの宮にも雨は分け隔てなく降りそそぎ、石段を下るカミュの髪を裾を湿らせた。

    やはり、いる……

馴染んだ扉を静かに押し開けると、奥でミロの小宇宙が一瞬ざわめき、すぐに沈静化するのが手に取るようにわかる。 カミュを感じているだろうに、迎えることも灯りをつけることもなく、ミロの気配は抑えられたままだ。

    ミロ…………

闇の中にミロがいた。
いつもなら飛び立つようにして迎えるはずなのに目をそらしたのが感じられ、それがカミュをいたたまれぬ気持ちにさせた。 迷わず近づき、そっと抱きしめて安堵の溜め息をつく。 それまでは、もしかしたら触れさせてくれぬのではないかと案じていたカミュだったのだ。
いだかれているミロはなにも言わず、背をなでていたカミュが首筋に唇をそっと押し当てたときになって初めて溜め息をついた。

    ずっと寝ていないのではないのか?

そんな気がしたカミュが無言のまま寝室に導くと、冷たかった手が少し温かみを増した。

「ミロ………なにがあった? 私には話せぬことか?」
ベッドに腰掛けさせても、黙ったままのミロはカミュを見ようとしないのだ。 いつもなら、いかにも自然に肩を抱き、甘い言葉を絶え間なくそそぎながらそのままカミュを横たえてゆくだろうに、今夜のミロは息をひそめたままである。
「今日は………抱いてはくれぬのか?」
すこしためらってから耳元でささやくと、ミロがびくりと身を震わせた。
「俺は………俺の手は血で穢れている………こんな手ではお前を抱けない…」
久しぶりの声がかすれて、カミュに事情を知らしめた。

スカーレットニードルは相手の血を見る技だ。 理屈ではわかっているつもりでも、現実は凄絶だった。
数発も撃てば降伏すると思ったのに敵の予想外の抵抗に遭い、まだ実戦経験の少なかったミロは接近戦に持ち込まれ、動揺のあまりその体勢で真紅の衝撃を続けざまに撃ち込んだ。 あとから思えば、十分な余裕をもってかわせたはずなのに、ほとばしる返り血がミロの聖衣を髪を染め、その瞬間、言いようのない嫌悪感に襲われたのだ。 反射的に血糊をぬぐった手に目をやったミロが戦慄したのは当然だった。
黄金聖衣は瞬時に血をはじきかえし輝きにはなんの変わりもなかったが、髪や皮膚はそうはいかぬ。
吐き気のするような不快感とともに密かに聖域に戻って来たミロは報告もそこそこに急ぎ天蠍宮へと立ち帰り、幾度、髪を、身体を洗ったことか知れはせぬのだ。
それでもまだ血の匂いがまとわりついているような気がして外に出るのもためらわれ、自宮の奥に閉じこもっていたのである。 そんな状態でカミュに会うことなど論外だった。

「ミロ…そんなことはないから………血こそ流さぬが、私も相手を死に至らしめる技を持っている。 同じだから………私もお前と同じだから…」
透き通った涙が伝う頬のままでカミュは唇を寄せた。 無意識に顔をそむけようとするミロを、しかしカミュはのがしはしない。 いとも柔らかな唇の感触がミロの心に忍び入り、この美しい人に触れまいとするミロの固い決心もさながら春の日の氷のように緩みそうになる。 思わず抱き寄せようとする己が手を、わずかに残された理性で引き戻したとき、驚くべき言葉がミロの耳を打った。
「………お前がせぬのなら…今宵は私がお前を抱こう。」
「あ………カミュ…よせ!」
しかしそんな言葉は、なんの役にも立ちはしない。 いささかぎこちなくはあるものの、カミュに横たえられたミロは闇の中で瞠目する。
「ミロ………」
首筋から肩にさらさらと触れてゆく湿り気を帯びた髪がミロの秘められた想いをかきたてて、やさしく押し当てられる花の唇は抑えつけていた焦がれを燃え立たせずにはおかぬというものだ。 それを意図したわけではあるまいが、いつしか攻守はところを変えて、さすがに緩急を心得たミロの手にやわやわと身をまかせ、ついにたまりかねてしのびやかな吐息を洩らすばかりのカミュとなっている。
「……嫌じゃない? 俺、血の匂い……する?」
ひとしきり歓を尽くしたあとでふと我に返ったミロが恐る恐る尋ねると、腕の中のカミュがゆるゆると首を振る。
「いつもと同じ……ミロの………私の大事なミロの匂いだ……」
「……俺の…匂い?」
人知れず頬を染めているのか、ミロの胸にひたと寄り添うカミュの声にはそこはかとなく艶めいたものがある。
「それは…髪の匂い……それから…」
「それから……?」
やさしい口付けが髪に額に絶え間なく降りそそぐ。
「お前の……あの……ああ ミロ………」
「いいから続けて……俺のカミュ…」
続けざまにくだされる甘い仕打ちは、白い指先に力を込めさせた。
「お前のこの肌の……汗の匂いが好きだ………ミロ…」
これ以上我慢できるものではない。
「カミュ、お前を見たい! もうずいぶん長い間お前を見ていない気がする。 少し灯りを点けさせてくれ、お前だって俺を見たいんじゃないのか?」
「あ………」
抱きしめる腕に力が加わり、カミュは息をとめた。
「……どう? 俺のこと、見たくない?」
頃合を見計らい、すっと腕をゆるめて聞いてみる。
「……お前がそれでよいなら………」
腕の中から蚊の鳴くような小さな声が聞えてきて、ミロは満面に笑みを浮かべるのだ。

いつしか雨音も途絶え、柔らかい灯りが二人の姿を照らし出す。
「いい匂いがする………露を含んだ花の匂い……今夜は雨の中を歩かせてすまなかった…」
仄かな灯りの下で見る艶やかな髪が肌がミロの心を魅了して、胸にあふれる想いが解き放たれる。
「冷たくはなかったか? もう寒くない?」
心配そうに覗き込む青い目のまぶしさにカミュは目を閉じる。
「だめ……目を開けて俺を見て………そのために灯りをつけたんだから……なにか言って…カミュ」
「……きれいだ…」
「……え?」
「お前の金の髪も……深い海の青の目も………私には過ぎるほどきれいだ…」
おずおずと語る言葉が天上の音楽にも等しくて、ミロの胸は踊る。
「ねぇ……もう一度愛してもいい?」
「……ん…」
「それで、灯りのことだけど………いい…かな?」
しばらくの沈黙のあと、かすかな頷きが与えられ、やさしい口付けがかわされる。
「お前だけだ……月にも見せぬ」
「都合のいいことに今夜は新月だ。 ゆっくりと楽しませてもらおうか。」

あとはもう、やさしい気配に甘やかな吐息が交じり合うのみである。
それは心許しあう匂いやかな夜のこと。



              ビルダーの中身を見ていたら、記憶にないファイルが。
              「氷雨」……?
              自分でも覚えのない文章で、
              カミュ様がミロ様を寝室に連れてゆくまでが書かれています。
              あらら………このあと、どうなるんでしょ?
              このままにしておくのはもったいない!

              そして、この黄表紙の出来上がりです。
              雨は強調されなかったので、タイトルも変えました。
              闘いの経験値はまだ少なそうですが、
              ミロ様、どうやら愛情経験値は高そうな気配あり。
              しかし 「 氷雨 」 と 「 匂い 」 って艶っぽさに天地ほどの開きがありますね。