世の中に絶えて桜のなかりせば  春の心はのどけからまし

                       在原業平  古今和歌集 


         【歌の大意】       世の中にもしも桜がなかったならば、
                         花がいつ咲くのだろう、いつ散ってしまうのだろう、
                         とやきもきすることもなかったろうになあ。

「日本では、桜の木の下には屍体が埋まっている、と云われることがあるそうだ。」
「なんだそりゃ?せっかくの素晴らしい花に、なんでそんな事を言わなきゃいけない?」
ミロが不愉快そうなのを見た私は後悔してすぐに話を変えた。
その夜更けにもっと後悔することになろうとは、そのときは思いもしなかったのだ。


「カミュ………」
呟くようなミロの声が私を目覚めさせたのは、日付が変わってしばらくしたころだったろう。
京・北白川にあるこの宿は、80年ほど前の大正時代に建てられた古い数寄屋造りに手を入れたもので、落ち着いた街並みの小さな川沿いの桜並木に面している。 二階の窓を開ければ、すぐそこに咲き初めた桜が見えるのだ。
私たちの泊まっている櫻の間は古い意匠が好ましく、夜間の常夜灯には櫻文様のセードを持った一時代前のランプが使われている。
乳白色のガラス越しの灯りが照らす室内は、春宵独特の柔和な暖かさに満ちていた。ただ一人、私の横に寝ているミロを除いては、である。
名を呼ばれてなにげなくミロを見た私の眼に映ったものは、そう、ミロの涙だった。

   ………涙?……なぜ?
   ……ミロ……泣いているのか?

目を見開いて天井を見つめている青い瞳からはらはらと流れる涙が灯りを受けて鈍く光り、つきつめたような表情が私に声をかけるのをためらわせる。いったいなにが起こったのかまったくわからず、私は当惑するばかりだった。

花灯路の散策から戻ってきたミロは終始上機嫌で、湯からあがったあと、さっそく私を抱いた。見てきた桜の話をし、私と桜を比べてどちらが美しいかをミロなりの論拠で証明しようとし、ついには、私の口から 「 ミロは美しい 」 という言質を引き出そうとして、あの手この手の努力をしたものだ。そして、私がなかなか言わなかったものだから、「言わなきゃ、可愛がってやらない!」 などと子供じみたことを言い出して私を困らせた。 いや、別に、その、私は、ほんとに、全然困りなどはしないのだが、ともかくミロの駄々っ子ぶりには手を焼いたのだ。
紆余曲折の末、私から思う結果を引き出したミロは、自信たっぷりに再び私を抱きしめて、「お前はほんとに桜の精みたいにきれいだ。」 とか「 桜の花びらを敷き詰めた上でお前を愛したい。」 とか 「 心配するな、桜にしか見せない。」 などと顔から火が出るようなことを散々私に聞かせて私を 『 可愛がった 』 挙句、本人いわく 「 幸福の絶頂 」 の中で眠りについたはずだった。
そのミロが、なぜ真剣な顔で涙まで流して泣いている?
さっきまでのお前はどこに行ったのだ?

「ミロ……」
そっと呼んでみたが、まるで私の声が聞こえないようで表情はなんら変わることがない。
理由はわからないが、ミロの内面の秘密を覗き見しているようで、私はいたたまれなくなってきた。
やはりしっかり声をかけて覚醒させようと思ったときだ、ミロの言葉が私に冷水を浴びせかけたのだ。

「カミュ………俺を残してなぜ死んだ…」

   私は生きている……! ここに生きているのに!
   ミロ、いったいどうしたのだ? 夢を見ているのか?!

肩に手をかけて揺すぶったが、一向に気が付く気配はない。 宙を見ていたまぶたが閉じられて、蒼ざめた唇から低い呟きが聞こえた。
「お前がいない世界で俺は生きられない……カミュ……カミュ…俺も一緒に連れて行け……」
震える手が顔をおおい、低い嗚咽が漏れる。 とめどなくあふれる涙が頬を伝い、見ている私の胸を締め付けた。
「ミロ! 目を醒ませ! 私は無事だ、お前のそばにいるっ!」
とても見ていられずに起き上がり、胸に抱き寄せるが、それでもミロは目覚めないのだ。
「カミュ……なぜ氷河と逝った……なぜ俺とともに生きなかった……」
それを聞いて私はわかったのだ。 ミロの心は宝瓶宮戦のあとで私の死を知ったときに戻っていた。 理由は知れぬが一種のトランス状態に入り込んでいるに違いない。
「どこを捜してもお前はいない……もう生きていたくない……なぜ…俺に冷たい骸を見せたのだ……」
「ミロ………私はここにいるのに………こんなにしっかりとお前を抱きしめているのに……」
涙で頬に張り付いた幾筋かの金髪をかきやり、濡れた頬に口付けた。 出来る限りの暖かい小宇宙で身体全体を包んでやりながら背をさすってもみた。
それでもミロは目覚めない。 熱い涙が私の胸をも濡らし、震える身体がたとえようもない哀しみを伝えてくる。途切れ途切れに私の名を呼びながら、虚ろに見開いた目は現実にここにいる私をとらえてはいない。 過去の、冷たい骸になった私を見ていたのだ。
「ミロ……頼むから……目覚めて、私を見てくれ……私のミロ……」
もはや原因を考えている余裕はなかった。 私はそっとミロを横たえると、ありったけの灯りをともして部屋を明るくし、隣の部屋の戸棚からウィスキーの小瓶を探し出してきた。 一口含んで、ミロを上向かせると口移しに流し込んでやる。うまく嚥下してくれなくて、何度も口からあふれて胸元を濡らしてしまったが、小瓶が空になるころにはなんとか飲み込ませることに成功したのだ。 ウィスキーをストレートで含んだのは初めてだったが、そんなことを考慮している場合ではなかった。 かならず目覚めさせる。 ミロは目覚めなければいけないのだ。
無理矢理飲ませたウィスキーが功を奏して、ミロは身体を折り曲げてひどく咳き込み、やがて私に抱かれていることに気が付いてくれた。
「カミュ………俺、どうしたのかな……これ…ウィスキーか?」
「ああ……もう少し飲みたくなったようだな……もう遅い、眠れそうか?」
「ん……どうしてこんなに明かりが? …眩しすぎて……そのせいか目が痛い……」
私はそっと立って、全ての明かりを消してきた。 最後に残った桜のランプを見て、少し考える。

   なんら根拠はないが、桜がミロに死のイメージを想起させたのかもしれぬ……
   ランプに罪はないが、念を入れるにこしたことはあるまい

隣にランプを持っていき、そこで灯を消して戻ってくると、すでにミロの寝息が聞こえている。 心からほっとして、ミロの隣にもぐりこみ、毛布の下で抱きしめた。 ミロの暖かさが私の心を満たし、髪の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。 いとしくてせつなくて、朝までも夜までもこうして抱いていたいのだ。

思えば、私がアテナの恩寵によりこの世に生還してきたとき、ミロは満面の笑顔で私を出迎えてくれた。 涙を流してはいたけれど、それは喜びの涙で、私はミロが悲しんでいた様子を見てはいないのだった。
むろん、私が逝ったあとでミロが悲嘆に暮れたことは知っている。 それについてはミロの口からは 「お前が死んだときは悲しかったぜ 」 と聞いたくらいだが、ほかの者から、ミロが一度も笑わなかったことや、私の名を一切口に出さなかったことを後でこっそり教えてもらったのだ。 もちろんミロは、他の誰にも涙を見せることをしなかったので、ミロの哀しみの本当の姿は、この私も含め誰も知ってはいなかった。 ミロの戦士としての矜持が、他の者に哀しみの姿を見せることを潔しとしなかったのだ。
しかし、図らずも今夜のミロは私にあの時の哀しみを露呈した。 本来知るはずのなかったミロの悲痛な想いは私の胸を打ち、私に過去や現在、そして未来を考えさせる。

ミロと一緒に、私もウィスキーをだいぶ飲んだような気がするのだが、さすがに目が冴えて、なかなか眠れない。 ミロの寝息を聞きながら、今あることの幸せをしみじみと思い、いとおしさがこみ上げてくる。もしかすると、ミロも毎晩こんなことを思って私を見ているのかもしれず、それに思い至った私は闇の中で一人顔赤らめないわけにはいかぬのだ。 たいていの場合、私の方が先に眠るし、ミロは向こうを向いたりせずに私を見ているのだから、論理的にいってミロに寝顔を眺められているのは間違いない。

   それなら今夜は、私がミロを見ていよう
   私のミロを、大事なミロを、心ゆくまで見ていよう
   二度とお前を失わぬように
   いつまでもお前に愛をそそげるように

いとおしさがこみ上げてきて、眠るミロに口付けた。 そういえば、ミロが気付いてから初めての口付けだ。
明らかに眠っているミロが私の背に手を回し抱き寄せてくれたのが、たとえようもなく嬉しかった。

   朝になって目覚めたら、私の方から口付けよう
   ミロが驚いてなにか言う前に もう一度唇を重ねよう
   そうして 「 もしよければ…」 と、せがんでみてもよい
   ミロ…ミロ……お前をこんなに愛している

ミロの髪の匂いが、暖かさが、私を包む。
私はミロを抱いて、そしてミロに抱かれて、夜の匂いを吸い込んでいった。





           「あ………カミ………ん……」
           「おはよう、ミロ…」
           「ああ……おはようっていうか、珍しいな、お前の方からなんて。」
           「たまにはそういうこともある。 それで、あのぅ…もし……もし、よければ……」
           「ん? なに?」
           「あの…お前がそうしたかったら、そうしてくれても私はよいのだが……」 (←絶句 )
           「じゃあ、シャワーを俺が先に浴びてもいい? どうにも昨夜のウィスキーの匂いがして。」
           「え……あの…そういうことなら……」
           「あれ?お前もウィスキー、飲んだのか?珍しいな!」
           「ほんの少し……ミロ………覚えていないのか?」
           「う〜ん、お前にキスされたような気がするんだが。そんなに飲んだのかな?」
           「そうでもなかったような気がする。 あの……かなりこぼれたから…」
           「……ふうん……お前、顔が赤いぜ。 今朝はどうしたんだ?」
           「いや、別になにも。」
           「そうかな?………ねぇ、カミュ……シャワーのあとで抱いてもいい?」
           「ん…」

               なんだ? どうしたんだ?
               あのカミュがうつむいて赤くなってる!
               いつもなら、「 朝からお前はすぐそれだ!」 とか、
               「 私は困ると言っているのだ!」 とか言って、突っぱねるのに?
               まあ、悩むことはない、今朝は春爛漫のカミュを楽しませてもらおうか

           「それじゃ、今日は格別に可愛がってやるよ。」
           「……私も………」
           「……え?」
           「…なんでもない……」
           恥じらうばかりのカミュが、ミロにはとても可愛く思えたのだった。





      
 冒頭のカミュ様の台詞は、梶井基次郎の 「 桜の樹の下には 」 という短篇に出てきます。
       これはかなり有名で、いろいろなところに引用され、漫画でも幾つも読んだことがありますね。
       「 花は桜木 人は武士 」 とか、散る桜の潔さとかもそのイメージの増幅に絡んでいるのかも。
       私は読んだことなかったのですけれど、今回は検索で全文を見つけて読みました。
       それにしてもカミュ様のおかげで、また新しい知識が!

   「知識もいいが、今回はかなりハードだったな。読んでてドキドキしたぜ。」
   「咄嗟の判断だったが、あの場合はウィスキーでよかったのだろうか?」
   「さあ? 俺も経験ないからわからんな?なんにしても覚醒したんだからいいんじゃないのか。」
   「もう二度とは御免だ。」
   「わかってるよ、カミュ……もう俺から離れるなよ、そういうことだろ。」
   「あ………」