番外編 ・「 如月七日 」
この季節にしては陽射しの暖かい午後である。
読書にも倦みつかれて、カミュは膝の上に本を置いた。
此の頃は少し目が疲れるような気がしてあまりページが進まないのだった。
ふと気が付けば、いつの間にか夕闇が忍び込み、室内にはひんやりとした空気が漂っている。
どうやら知らぬ間に寝入っていたらしい。
暖炉の上の時計が五時を指し、ミロが今にもやってくるだろうことを教えてくれている。
「カミュ!」
ミロの声にカミュは目を上げた。
入ってくる気配にも気付かなかったとは、カミュにしては珍しいことだ。
それほど疲れているつもりはないのだが、と軽い疑問を覚えながらミロのほうを見たカミュは息を呑んだ。
ミロ・・・・・・ではない?
髪の色も眼の色も・・・・・それに服装・・・・というよりこの衣裳は?
「やっとそなたに会えた!」
満面に笑みを浮かべた、どうやら東洋風だとカミュが判断した衣裳の人物は確かにそう言ったのだ。
ミロではない、確かに別人だ!
しかし、ミロの声で、ミロの背丈で、ミロの眼差しで私を見ているのは・・・・・・・
それに、この鮮黄色の衣裳を私はよく知っている、見たことはないが手にとるように知っているのだ!
そうだ、ここにいるのは確かに・・・・・しかし、どうして?
私はミロを待っていたのに・・・・・・
なおも混乱しているカミュに近づいた昭王が手を差し出した。
昭王の動きにつれて、なにか軽やかな音が聞こえる。
ようやく立ち上がったカミュは、夢の中にいる心地でその手をおずおずと握った。
初めて触れる燕王の手は、ミロと同じくやはり暖かく感じられた。
「いや、加冠の儀の衣裳は二度と纏うことはない、その日だけのものぞ。」
昭王はカミュとともに長椅子に掛けながら話していた。
背をもたせかけることはせず、背筋を伸ばし浅く腰掛けている。
「では、なぜ?」
聞きたいことがたくさんあるのに、言葉が出てこないのはなぜなのだろう?
「知れたこと、そなたに見せたかったのだ。」
少し照れながらも、昭王は誇らしげにカミュに語りかける。
ああ、ミロと同じだ!
私に屈託なく笑いかけてくる様子はなんら変わることがない。
そうだ、ミロはいったいどこにいるのだろう?
早く昭王に会わせてやりたいのに!
この美しい礼冠と挿頭(かざし)を見たらどれほど喜ぶことか!
「天勝宮で着てみせたくとも、縫殿寮のどこに収められているのかは皆目わからぬ、といって、御衣係を呼べば
『 前例がない 』 と制止されたであろう。それに・・・・・・」
昭王が少し顔を赤らめた。
「あの時は、まだそれほど親しくはなかったゆえ、そなたに見せることを思いつかなかったのだ。」
まだ親しくはなかった・・・?
あの時とは、いったいいつのことだ?
・・・・・・では、なぜ私に会いに来たのだろう?
もっと・・・・・・もっと昭王と話がしたい!
それに、ミロはどこにいるのだろう?
もう外は暗くなってきているというのに、まだ来ないのはなぜなのだろう?
カミュが口を開こうとしたとき、昭王がすっと立ち上がった。
美しく張りのある鮮黄の華やかな衣裳で、夕闇の中でもまことに匂い立つようなあでやかさであった。
なるほど帯から下げられた佩玉が触れ合って軽やかな音を立てている。
初めて知る採蘇羅の涼やかな香りに誘われるようにカミュもつられて立ち上がる。
「そなたに再び会えてかほどに嬉しいことはなかったが、もう帰らねばならぬ。」
ミロが・・・ミロがまだ来ないのに昭王が行ってしまう!
まだほんの少ししか話していないのに、燕のことをもっと知りたいのに・・・・・
それに・・・それに・・・私は・・・・・・・・・
引き止められないだろうか、それともやはり触れてはならぬのだろうか?
そのときカミュは、先ほど昭王と握手をしたのを思い出した。 どうやら、燕を離れれば触れてもよいのかもしれなかった。
カミュが思い切って手を伸ばしたとき、昭王がふところから何か銀色の小さなものを取り出した。
「カミュ、そなたにこれを贈ろう。 いつまでもともにあらんことを願う。」
え? 昭王の手の中にあるものは・・・・あれは・・・・・
・・・・そのためにここにきたのだろうか?
昭王がカミュの髪の一房をいとおしげに手にとった。
「昭王、その前に一つ聞きたいことが。燕での昭王と私は、いったい・・・」
カミュの指先が艶やかな絹に触れる。
その問いに昭王が艶然と微笑んだ。
「そのことならば・・・・」
そのとき、廊下の向こうで扉の開く音がしてミロの声が響いてきた。
「カミュ!遅くなってすまなかった!」
ああ、やっと来てくれた!
これで、昭王にミロを引き会わせられる!
「ミロ! 早くここへ!」
ドアの向こうに呼びかけたとき、昭王がいかにも嬉しげに微笑んだのが、カミュの目に映った。
突然、部屋の明かりがつけられ、ミロがドアを開けて飛び込んできた。
「カミュ! 遅くなってすまん!明りもつけずにどうしたんだ? 待たせてすまなかった、おい、カミュ?カミュ?!」
息を切らせたミロが見たものは、立ちすくんでいるカミュだった。
涙が一筋、二筋、頬を伝ってゆく。
「・・・・・・・・・どうした?」
ミロは持っていた小箱を静かにテーブルに置くと、カミュにそっと近寄り、優しく抱きしめた。
「会いたかった・・・・ずっと会いたかったのに・・・・・・ああ・・・ミロ・・・・・・・やっと会えたのに・・・」
閉じられたまぶたから熱い涙があふれては落ちる。
「行ってしまった・・・・・・・私は・・・何も・・・・・受け取ってやれなかった・・・・・」
ミロの腕の中でカミュが身を震わせた。
「カミュ・・・いったい何があった?」
わけのわからない不安に駆られたミロがカミュを抱く腕に力を込めると、
しなやかな手がミロの背中にまわされた。
カミュが熱を帯びた唇を寄せてくる。
驚きを抑えて、それに応えていったミロは、意識の隅でなにかしら涼やかな香りを感じていた。
「なるほど、そういうことか。 わかったような気がするぜ。」
長椅子で途切れ途切れにカミュが語る話に耳を傾けていたミロは、頷くと抱いていた手を離して、忘れられていた形の小箱をとりあげ、カミュに手渡した。
「開けてくれ、誕生日の贈り物だ。」
それは見事な作りの銀の櫛だった。
櫛の歯は細く繊細な作りで、胴の部分の片側は向かい合った二羽の水鳥が、もう片側には見たことのない花が浮き彫りにされていた。
背には水の流れを彫り込んだ鮮やかな緑の石が嵌め込まれている。
「骨董屋の主人が専門外なのではっきりしたことはわからなかったが、東洋、たぶん紀元前の中国のものだということだ。
その鳥はおしどりで、花は蓮、緑の石は極上の翡翠だそうだが、どうだ、似ているか?」
カミュは銀の櫛を見つめた。
どうだっただろう・・・・・・あのとき私はよく見てはいなかったのだ。
せっかく昭王が私のために持ってきてくれたのに・・・・・・
きっと似合うと思って選んだのに違いない・・・・
それなのに・・・・私は・・・・私は・・・・・・
「・・・わからない・・・・・・似ているような気もするし、そうでないような気もする。
暗くなっていてよく見えなかったのだ‥‥。 昭王は私の髪を梳こうとしていたのに、私はそれをさせなかった‥‥。」
カミュはミロの肩に顔を伏せた。
かすかに震えるカミュの肩を暖かい手が包み、暖炉の炎だけが二人の姿を浮かび上がらせる。
さっきまで昭王がここに座っていたのだ・・・・・・・その同じ場所に今はミロがいて・・・・
昭王と同じだ・・・ミロの手もやはり暖かい・・・・・ミロ・・・・・ミロ・・・・・・・・
「昭王は・・・・昭王は、明りがつくことなど知るはずもなかったのだ、夜は暗いものなのだから・・・。
今の時代がどれほど遠く隔たっているか知っていたはずがない。 この部屋と私だけを見たのだ・・・・ただ、私に会えたことをあんなに喜んでくれて・・・・私に衣裳を見せられたことにとても満足していたのだ・・・・あのままもう少しいるつもりだったに違いないのに・・・・・」
ミロはカミュを強く抱きしめた。
そうするよりほかに、できることはないような気がした。
「ミロ・・・昭王は私になんと言おうとしたのだろう? あのとき私が、明りをつけないで入ってきてくれ、とさえ言っていれば、きっと昭王は・・・・・・・・・ああ、ミロ・・・・・・」
ミロは考えていた。
だいぶ落ち着いてきたとはいえ、まだ動揺の続いているカミュになんと言えばよいだろう?
カミュは昭王がこの部屋に現われたことについては、なんの疑念もいだいてはいない。
カミュを惑乱させているのは、昭王が差し出した櫛を受け取らなかったことと、最後の言葉をきけなかったことなのだった。
どうすれば、カミュを安心させられる?
「カミュ、俺が昭王の立場だったら『そのうちわかる』って言ってただろうな。
そうじゃないのか?ほかに言いようはあるまい。 この俺が言うんだから間違いはない。
気に病むことはない。」
言葉の合間に優しいキスを繰り返し、目のふちの涙をぬぐってやった。
浅い呼吸がだんだんと落ち着いてくるのがわかる。
もう少しだ、もう少し・・・・
まてよ? もしかすると・・・・・
「カミュ、昭王が何時ごろここへ来たかわかるか?」
カミュが顔をあげて少し首をかしげる。
あれは何時だったろうか・・・・そうだ 時計を見た覚えがある
「・・・・・・確か・・・・五時だと思う。お前との約束が五時だったので、お前が来たと思って声のするほうを見たのだ。」
「それでわかったよ。」
ミロは安堵の溜め息をついた。
「お前にふさわしい品を見つけようと、ここ半月ばかりずっと探していたんだが、今日になってもまだ見つからない。
時間が迫ってきて焦っていたときに、古い小路に小さい骨董屋があるのを思い出したんだ。
すぐに行ってあれこれ見てみたが、気に入ったものがなくて、諦めて店を出ようとしたとき、棚の奥のほうに古い小箱があるのに気が付いた。
しいていえば、蓋には竜の模様がついていた。 なんとなく気になって蓋を開けてみたら、中に入っていたのがこれだ。」
暖炉にくべられた薪がはぜる音がした。
カミュの手の中で、銀の櫛は炎の色を受けて鈍く輝いている。
ミロはカミュが持っていた櫛を手に取った。
「これを買ったのは五時だ、店の置時計が鳴ったからよく覚えている。 俺がこの櫛を手に入れたとき、昭王がお前のもとに現れたとすれば平仄は合っていると思うがな。」
ミロの手が艶やかな髪を梳いていた。
糸をよりかけたような髪がやわらかく肩をおおい、少し乱れていた前髪がととのえられてゆく。
「その昔、昭王がこれをお前のために作らせたのか、それとも王室に収められている品の中から選んだのかはわからんし、実際にお前に渡すことができたかどうかも謎だ。
しかし、この櫛も昭王も二千三百年の間、今日のこの日を待っていたんじゃないのか?
俺がこの櫛を手に入れたのがきっかけになり、昭王がお前のもとを訪れたんだ。」
カミュが櫛を手に取った。
昭王が選んだ櫛・・・・・・昔の・・・私のために・・・・・?
それを、今、ミロが見つけて・・・・・昭王が私のもとにやって来たというのか・・・・
昭王の想いが潮の満ちるようにカミュの胸に迫ってくる。
「そして、昭王が届けようとした櫛は、俺がこうしてここに持ってきた。うまく繋がってると思うぜ。
昭王は俺なんだからな、それでいいじゃないか。」
ミロはカミュを自分のほうに向かせてみた。
「そのままでいろよ、動くなよ。」
ミロはちょっと考えていたが、両手をカミュの肩の後ろに伸ばすと、豊かな髪を一つに束ねてゆるくねじりあげた。
ふくらみをもたせたままふんわりと左手で抑えておいて、カミュの手から櫛を取ると良さそうな位置に挿してみる。
「あ・・・・・・・・」
「似合うぜ。」
ミロが満足げに笑った。
「昭王は挿頭(かざし)をつけていたんだろ? 見たかった気もするが、お前が見たなら俺が見たのと同じことだ。
そして今、俺の目を通して昭王もお前を見ている。その櫛を挿したお前はほんとうにきれいだ。」
きれいと言われて嬉しかったことは一度もないのに、このときばかりは違っていたらしい。
うつむいたカミュの耳朶が真っ赤に染まり、ミロを密かに喜ばせたものだ。
「この櫛がお前の挿頭だ。残念ながら礼冠までは用意できなかったが 」
言葉を切ったミロが抱き寄せると、束ねられていた髪が渦を巻いてカミュの背を流れ落ちる。
とどまりきれずに滑り落ちた銀の櫛が、カミュの膝の上で止まった。
「今夜は、カミュ・・・・・お前の加冠の儀だ。」
暖炉の薪がまた一つはぜた。