岩佐東一郎 : 作詞     ヘンリー・ギース : 作曲


「これがそうだ。」
「見せて。」
宝瓶宮の居間のキャビネットの奥の奥から取り出されたのは小さな矩形のアルバムだ。 少し色褪せた青いリボンで丁寧に結ばれている水色の表紙のアルバムが俺の手に渡された。
「ふうん………これってすごく貴重だぜ! お前の過去が詰まってる! よくも今まで忘れていたものだな。」
「それを言われると………ギリシャに来た当初は寂しくて時々見ていたのだと思うが、黄金になろうという頃には日々の訓練に忙しく取り出さぬままになり、シベリア時代は思い出すことも稀だった。 今から思うと申し訳ないことだったと思う。」
「訓練といえども命がけだからな。 緊張と疲労でベッドに倒れこむ毎日の連続だったんだからしかたないさ。 で、俺の思うにここに書いてあるのはフランスの住所じゃないのか?」
俺は裏表紙の手描きの文字を指差した。 フランス語は読めなくても青いインクで書かれたいかにも番地らしい幾つかの数字が読み取れる。
「オルレアンの住所だ。 このアルバムを私にくれたモレル夫妻の住所だと思う。」
「じゃあ、決まったな! 明日はオルレアンに出発だ!」
「そんなに早く?」
「人はいつまでも生きてはいない。 俺たちの若さでも明日はどうなるかわからないものだ。 ましてやモレル夫妻はかなりの年配じゃないのか? 思い立ったが吉日だ。」
こうして俺とカミュはフランスはオルレアンへと旅立つことになった。 しかし今回はもう一人同行する人物がいた。

「私は兄の写真を一枚も持っていない。 こんなにありがたいことはない。」
フランスへの旅のあいだ、アイオリアが何度も同じ言葉を繰り返す。 幼いときに別れたアイオロスが小さなアルバムの中からアイオリアを見ているのだ。
「忘れていてすまなかった。 あのころアイオロスにはあんなに世話になったというのに。」
「それは俺も同じだよ。 ほんとに親身になってよくしてもらったと思う。」
先日 俺とカミュが客船に乗って思いがけず昔のことを知っているスタッフに会っていろいろな思い出を聞いたことを話したときのアイオリアの驚きは大変なものだった。 アイオロスが亡くなってから15年近くが経ち、記憶もだんだんおぼろになっていくのが気になっていたときに、ふいに若いときの兄の写真や思い出話がもたらされたのだ。
「今の私よりずいぶん若いのに、とてもしっかりしているように見える。」
「背もずいぶん高そうだぜ、カミュがやたら小さく見えるだろ。 カミュなんか、ギリシャに来る旅の間に抱かれっぱなしだったらしいぜ。」
「また、そんなことを……」
「だって、船の中でそう聞いたじゃないか。 聞かなかったとは言わさんぞ。」
一緒に旅行することなどなかった三人だが、ほんのわずかの写真がきっかけとなり昔の話に花が咲く。
「ともかく兄弟が一緒にいるっていうのが羨ましくてさ! そもそも俺もカミュも兄弟なんかいないんだからな、少しは遠慮しろって思ったよ。」
「いや、それは誤解だ。 兄はともかく厳しくて、私からすれば他の子にはやさしくしているように見えた。 人のいるところでは兄でもなければ弟でもないという感じだったな。」
「公平を期するとそういうことになるのだろう。 弟を贔屓していると思われてはならない、と考えたのではないだろうか。」
「俺の思うに、アイオロスはカノンの存在を知っていたんだろうし、自分が弟と仲良くすればサガがつらい思いをするだろうってこともあったと思うな。」
「なんだか兄に苦労ばかりかけたような気がする。」
「しかたないさ、そういう生まれ合わせだったんだ。 恩に報いるためには、俺達が立派な聖闘士であればいいんだよ。」
「ん………そうだな。」
それぞれに過去のことに思いを馳せているうちに飛行機はシャルル = ドゴール空港に着いた。 ここからオルレアンまでは車で一時間半ほどである。
通り過ぎる車窓は初夏の装いで、どことなくオリエントの香りを持つギリシャの街とは違っていかにもヨーロッパの景観を思わせる。 家々の窓辺を飾るゼラニウムの赤が鮮やかだ。
「カミュはフランスのどのあたりの出身?」
アイオリアがなにげなく聞いた質問が俺をドキッとさせる。 聖域で初めて会ったときからカミュのフランスについての思い出を聞いたことがない。 カミュがそれを避けているようなふしがあり、それを感じたときからその質問は控えたままで今に至っているのだった。
「アイオロスに迎えに来てもらったときはパリにいた。 小さいときのことなのであまりよく覚えていない。」
「花の都パリか! フランスに来るのはこの間 船に乗りに来て以来なのか?」
「離れてからはあの一回きりだ。 今日が二回目の訪問になる。」
いつもと変わらぬ様子で答えるカミュが窓の外に眼をやった。 過ぎてゆくフランス語の看板や標識のひとつひとつがカミュには懐かしく思われるのか、それともあまりに時間が経ってしまったために何の感慨も呼び起こさないのか俺にはわからない。
それにだ、アイオリアは憧れを込めて 『 花の都パリ 』 と言ったがカミュにとってのパリがどんなものであるかを俺は薄々知っている。
カミュがまだシベリアに行っていたある日、教皇庁で調べ物をしていたときに古い書類の束のなかに聖闘士の出自の記録を見つけたのだ。 少し後ろめたさを覚えながらカミュのそれを盗み見たときの衝撃は今も忘れられない。

「 パリ7区 サン・ドミニック街 ジャコバン修道院 救済院 」

   救済院って………それって孤児院かなんかじゃないのか?!

トラキアの村のことをときどき楽しそうに話していた俺のことをカミュはなんと思っただろう?
フランス語の響きを気にいって聞かせて欲しいとせがんだのはカミュにとってつらいことではなかったか?
それ以来、俺の方からフランスのことを話題にしたことはなく、またカミュもなにも言いはしなかった。 俺が一切なにも言わないということをカミュがどう思っているかもわからないが、いつの間にか触れない話題となっていたことなのだ。
「私は当時船に乗っていたわけではないのに突然に訪問して失礼ではないだろうか? 」
幸いなことにアイオリアが話を変えた。
「それは俺も同じだよ。 だが明らかにモレル夫人はカミュとアイオロスのことをずっと懐かしがっていてくれたし、このアルバムに住所が書いてあるのはいつか訪ねて欲しいという気持ちの現われだと思う。 手紙もいいが、直接会うのが一番だろう。 俺たち二人で聖域に来てからのカミュのことなんかを話せばきっと喜んでくれると思うな。 だいいち、カミュだけで来て夫人が喜ぶだけの話ができるかどうかは疑問だぜ。 あらまあ、こんなに大きくなって!とか言われて真っ赤になってあとはあまり口がきけなかったらまずいだろ。 お前、自分からギリシャに着いたときのこととか、うまく話ができると思う?」
「いや、あまり自信がない。」
「だろ、だから俺達がいたほうがいいんだよ。」
「それから兄のことだが、亡くなっていると伝えたほうがいいだろうか?」
「う〜ん、今日はともかく、今後も会いに来ないし手紙も書かないというのも不自然だからな………」
「やはり正直に亡くなったことを伝えたほうがいいのではないだろうか。 自分よりはるかに若いアイオロスがすでにいないことにショックを受けられるだろうが、、こんなに立派な弟がいることがわかれば喜んでくださるとは思うが。」
「では病気で亡くなったということに。」
「それがよい。」
話がまとまった頃には車はオルレアンの街に入っている。 荘厳な大聖堂が古い歴史を感じさせる美しい通りを抜けて郊外に出たところで車が止まった。
「着いたぜ! きれいなところじゃないか!」
よく手入れされた庭に囲まれた住宅が続くこの一帯は富裕層の居住区のようで俺をひそかに安心させた。 なんどもあの豪華客船に乗ったくらいだから裕福なのは間違いないが、その後零落でもされていたら哀しいことこの上ないからだ。
「ところで一般家庭を訪問したことってあるか?」
「いや、ない。 お前の故郷のトラキアだけだ。 」
「私も今日が初めてだ。」
「まったくどうしようもないな。 神話の時代ならいざ知らず、聖闘士って世間から隔絶されすぎてるんじゃないのか? ホームステイなんかやったら大発見の連続だぜ、きっと!」
「ホームステイとはなんだ?」
「ほら、それが問題なんだよ。」
首をかしげるカミュにホームステイの説明をしながら瀟洒な門を開けて玄関の前まで行き、ちょっと緊張しながら呼び鈴を押した。 家の奥でクラシカルなチャイムが響き、やがて誰かがドアを開けた。 小柄な老婦人が俺たちを見上げている。 写真で見たモレル夫人に違いない。
「はじめまして。 突然お邪魔します。 私たちはギリシャから…」
唯一フランス語を話すカミュが挨拶を始めたとき、
「まあ! アイオロス! あなた、アイオロスでしょう! 」
老婦人がアイオリアの手を取って握り締めた。
「あ、あの、私は……」
「なんて嬉しいこと! あなた、あなた、来てちょうだい、アイオロスが来てくれたのよ!」
奥に向って呼びかける夫人の目に涙が滲んでいた。

「そうですか、亡くなっていたとは………」
奥に招じ入れられてあれからのことを差し障りのない程度に話すと、85歳になるというモレル氏が溜め息をついた。 夫人はまだあきらめ切れない様子でアイオリアを見てはしきりに涙をぬぐうのだ。 膝には真っ白い猫を抱いていて、写真に写っていた猫の血を引いているという。
「それにしてもこんなに大きくなって…!」
夫妻にしげしげと見られたカミュは予想通りに顔を赤くして 「 いえ、あの… 」 と口ごもる。

   だから俺達たちがいないと、どうしようもないんだよ
   いい年をして恥じらうなよ  まあ無理もないが

なにしろフランス語のできるのがカミュだけなので、いろいろな思い出話を通訳するのも忙しい。 夫人が持ち出してきた昔のアルバムにはカミュが手渡されたアルバムにはなかった写真がたくさんあって、ますます話が盛り上がった。
「ああ、兄がこんなに笑っている! 」
「ほら、また抱かれてるぜ! これじゃアイオリアが嫉妬するんじゃないか?」
「ほぅ! ほんとに私がプールで泳いでいる!」
「ジェラートを持ってニコニコしてるとこなんかほんとに可愛い子供だな、それだから大人になったらこんなにきれいになるってわけだ。 ほら、照れてないでちゃんと通訳しろよ。」
「そんな恥かしいことが言えるか……」
耳まで真っ赤になるカミュはそれでも嬉しそうで、それを見るモレル夫妻もやはり嬉しそうで。
「アイオロスにはもう会えないけれど、あなたに会えてよかったわ。」
何度も涙ぐむ夫人はアイオリアの中にかつてのアイオロスを見ているのだろう。 写真の中のアイオロスは二十歳の俺たちよりはるかに若い。 俺たちの記憶に残るアイオロスはとても立派な大人に見えたものだが、この写真から当時の若さが偲ばれる。 あの年齢でサガと二人で俺たちを指導し育てていく気苦労はたいへんなものがあったに違いない。
モレル氏は当時アイオロスとギリシャの美術や文化について話したことを懐かしそうに語ってくれてアイオリアを感動させた。 幼かったときのカミュの記憶も曖昧で、俺たち三人とも聖域でのアイオロスしか知ってはいない。 外の世界の人間からアイオロスのことを聞くのはとても珍しい経験だった。
「ここにある写真をコピーして差し上げましょうね。」
夫人が使用人を呼んですぐにコピーをしてくれた。 一般家庭にもコピー機があるらしい。便利なものだ。
辞去する時刻になり名残りを惜しんでいたときに夫人がカミュに渡したものがある。
「いつか会うことがあったら渡そうと思ってたのよ。 受け取ってちょうだいな。」
それは精巧な象嵌細工のオルゴールで、高雅な意匠の素晴らしい品なのだ。
「今すぐ聴かせろよ!」
との俺の求めに応じたカミュが丁寧にねじを巻き、蓋を開けた。 典雅な調べが流れ出す。

   ………アマリリスだ!
   ルイ13世が作曲したとも言われている古いフランスの曲だ!

なんだか涙が出てきた。 生まれ故郷のフランスを離れて遠いギリシャへ行くというカミュの境遇を聞いていた夫人は別れてからもカミュのことをずっと案じていたのに違いない。 カミュもアイオリアも涙を滲ませる。
「またきっとお目にかかります、マダム・モレル……」
カミュが背をかがめて夫人を抱き締めた。
「ありがとう、会いにきてくれてありがとう………」
最後にみんなで写真を撮った。 夫人の求めに応じたカミュが猫を抱き、昔日の写真を思わせる。 パソコンですぐに印刷されてきた写真は驚くほど鮮明で、モレル夫妻を囲む俺たちは三人ともやたら背が高くて目立つのだ。
夫人がギリシャの住所を聞いてきたのでアテネ市内にある教皇庁の事務所の住所を書くことにした。 聖域に郵便配達は来ないが、ここに届いた手紙は確実に手に入る。
こうして俺たちは別れを告げた。 夫妻の三人の子供がそれぞれすぐ近くに住んでいて、そのうちの一人にモレル氏が電話をかけて車を出してくれたのだ。 夫妻は車が角を曲るまでずっと手を振って見送ってくれた。

夫人にもらったオルゴールは今も宝瓶宮の居間の暖炉の上にあり、ときおりやさしい音色を響かせている。





               小さいカミュ様にやさしかったモレル夫妻のことを忘れるわけにはいきません。
               こうしてとても遠かったフランスにカミュ様の知る辺ができました。



  フランスみやげ やさしいその音色よ  ラリラリラリラ 調べはアマリリス  

※ 古典読本 118 「青い眼の人形」 ・ 121 「この道」 を先に読むことをお薦めします。