その7 アテネ
フィレンツェとローマ、そしてイタリア半島の東側を北上して水の都ベネチアを見たあとアドリア海を南へ戻ったこの船は波穏やかなイオニア海をゆっくりと進んでいる。
夜になって沿岸のところどころに街の灯がきらめいているのが見えるとはいうもののほとんどは真っ暗で、紺碧の空を飾る星々が美しい。
入浴後、部屋のデッキに出て外を見ているカミュにアイオロスが声をかけた。
「疲れたかな?」
「ううん、大丈夫! でも……明日はピレウスに着くんでしょう?」
「そうだよ、明日の10時には到着だ。 ピレウスからアテネまではこの船の人たちと一緒のバスで行こう。
アテネ観光に行く人が大勢いると思うよ。 聖域には夕方までに入ればいいのだから、それまでは少し市内を見て歩いて必要なものを買うつもりだ。」
「必要なものって? 聖域のお店にはないの?」
カミュが不思議そうにする。 これから向かう 聖域には一軒の店もないことなど、むろん想像もつかないのだ。
「アテネでギリシャ語の植物図鑑と昆虫図鑑を買おう。 きっと気に入ると思うよ。」
「わぁっ、どうもありがとう、アイオロス!ぼく、なんにも本を持ってなかったの! 自分の本があるなんて、すごいっ!」
抱きつかれたアイオロスの胸がちくりと痛む。 カミュの私物といえばほんとに何も無くて、洋服も青い靴もアイオロスがパリで買い整えたものだったし、救済院からたった一つ持ってきた小さいカバンに入っていたものはクリスマスのミサでもらったきれいなカードのほかにはコップと歯ブラシだけだったのだ。
「カミュ…」
アイオロスがいきなりカミュを抱き上げた。 なにも持たないこの子供が哀れでならなくて、せめて今だけでも抱いてやりたくなったのだ。
「よく聞いて、カミュ。 今はなにも持っていないかもしれないけれど、そのうちに友だちがたくさんできる。
それはお金では買えない大事な宝物だよ。 聖域でたくさんの友達を作ろう。 きっとみんなもカミュのことを好きになってくれる。 もちろん私もカミュが大好きだ。」
「ぼくもアイオロスが大好き!」
抱かれていたカミュが顔を寄せてきてカモミールの甘い香りが漂ってくる。
「聖域では他の人もいるから、こんなには抱いてあげられない。 甘えてると思われたら困るしね。」
赤くなったカミュがこくりと頷いた。
「………でも、ここなら誰もいないし、見ているものは空の星だけだ。 私はカミュのことをとても大事に思っている。
聖域ではいつも一緒にいるというわけにはいかないけれど、どんなときでもカミュのことを気にかけているよ、そのことを忘れないで。」
「ん………忘れない……」
アイオロスの頬にやわらかい子供の唇が押し当てられた。 そんなことをされた覚えのない身としては、おおいに慌ててしまうのだ。
「さあ、夜風は身体によくない、もう中に入ろう。」
部屋の灯りはとうに落としてあるので、ベッドサイドの小さな灯り一つがとても暖かく見える。
二人には大きすぎるベッドに入ると、カミュがそっと手を握ってきた。
「あの……アイオロス……明日からはもう一緒に寝られないよね。」
「そうだね………でもアイオリアと同じ部屋だと思う。 たぶん他の子も一緒だ。」
「ぼく………仲良くなれるかな?」
「なれるさ! 安心して!」
「うん…」
楽しかった船の暮らしも明日で終わり、知っている人といえばアイオロスだけという未知の暮らしに入っていくことがカミュを不安にさせている。
そのアイオロスでさえたった五日前に知り合った人なのだ。
目的地である聖域のことはすでに説明してあるが、そこでの暮らしが小さい子供にとってかなり厳しいものであることをはっきりとは伝えていない。
大理石の建造物だけは今まで見てきたイタリアの各都市と拮抗する存在感を誇っているが、そのほかには岩山とわずかな草地だけしかないも同然の聖域に馴染むのは一苦労に違いない。
そしてそこでカミュを待ち受けているのは苛酷な訓練と競争の原理なのだ。
こんなに手足も華奢で柔らかいのに………頬もいかにも小さい子供の愛らしさだ
訓練が本格的に始まれば、 かつての私がそうだったように生傷が絶えないだろう
丁寧な言葉を使うものなどほとんどいない 時には罵声が飛ぶことも覚悟しなければならぬ
やわらかい心が傷つかぬように守ってやりたいが そうもいかないだろう
かたわらで眠りについたカミュを待ち受けるものの重さにアイオロスは溜め息をついた。
翌朝の食事は妙に豪勢だった。 これで船を下りるアイオロスとカミュにクルーが別れを惜しんだ結果である。
昨夜の件は夜のうちに船内余すところなく伝わっており、キャプテンを始めとして顔見知りのクルーが入れ替わり立ち替わり挨拶に来て、全員が二人に握手を求めていった。
食事を済ませた帰りにモレル夫妻のところに寄ってリーニャとの飽かぬ別れを済ませると、自室に戻り荷造りをしたあとはデッキで美しい海岸線を眺めて過ごすことにした。 これから船が向うギリシャ南部のアッティカにある港町ピレウスはギリシャ最大の港湾都市で首都アテネまでは10キロほどである。
「これがみんなギリシャ?」
「そうだよ、あれがペロポネソス半島、そして向こうに広がるのがエーゲ海だ。手前に見えるのはミロス島。」
目の前に広がる海のなんと青く美しいことだろう。 手元の地図と見比べながら海風に吹かれるカミュの頬が紅潮し、その表情は真剣になる。 初めて見るこの土地で新しい暮らしが始まることを思うと、どうしてもドキドキしてしまうのだ。
タラップを降りるときにはキャプテン以下、持ち場を離れられるクルーは全員顔を揃え威儀を正して二人を見送った。 この日で船を離れるのは二人だけで、あとの客はさらに旅を続けるのである。
もっともアテネ他のギリシャの都市の観光のためにいったん下船するものはモレル夫妻を含めて数多い。
「またいつか船に乗れるかな?」
「そうだといいね、でもこれからしばらくは聖域でみんなと一緒に頑張ろう!」
「はい!」
船の方を何度も振り返りながらバスに乗り込むカミュには、しばらくという時の長さがわかるはずもない。 たった五日間という短い間だったが、モレル夫妻や親切なクルーとの楽しい思い出を作ってくれた船と別れるのはどんなに寂しいことだろう。
聖域でのつらい修行のあとで黄金の名を冠されて、ついには子供の域を出ない身でシベリアに何年も暮らすことになろうなどとは、むろん知るよしもない。
ギリシャの町や丘を見ながらバスに揺られて着いたのはアテネの街中である。 ほかの乗客たちはみんなこの先のパルテノン神殿まで行くので、誰もが顔見知りになったアイオロスとカミュとの別れを惜しみ、声をかけて握手をしてくれた。 モレル夫人はカミュをぎゅっと抱き締めると涙を浮かべて頬にキスしてくれた。
「それから、これをあなたに。」
「……え?」
モレル夫人がカミュに小さな包みを手渡した。 青いリボンが結ばれたそれは本のようにも思える。
「あとで見てちょうだいな。 あなたのこと、忘れないわ。」
こくりと頷いたカミュを夫人はもう一度抱きしめた。
頬を紅潮させながらアイオロスのあとについて降りたカミュがバスの窓を見上げて手を振っていると、道行く人の耳慣れない言葉が聞こえてきた。
とたんに心臓が縮み上がる。
…ギリシャ語だ!
………どうしよう! ほんとにわからない……!
馴染んでいたフランス語とはあまりに違う響きの洪水が押し寄せてくるようで、カミュは不安と恐怖に襲われた。
少しはアイオロスに習っていたはずなのに一つとして聞き取れる言葉がないのだ。
思わずアイオロスの方を振り向くと、バスの運転手が降ろしてくれた荷物を受け取りながらなにか話しているのがやはりギリシャ語らしい。
今まで友だちだと思っていたアイオロスが急に遠くに行ってしまったような気がしてきた。
バスが動き出す。 手を振っていた人たちも、もう遠くへ行ってしまった。
フランス語……フランス語が聞きたい!
どうしよう………こんなところで暮らせない!
ついさっきまでバスの中でみんなが話していたフランス語にはもう手が届かないのだ。
話し言葉だけでなく、店の看板に書かれている字もまったく読めなくて不安がますます増してくる。
通りすぎる人がみんな自分のほうを見ている気がしてカミュは泣きたくなった。
事実はほんの数人がカミュのきれいさに目をみはって振り向いたりしただけなのだが、そんなことは人慣れないカミュにはわからない。
「待たせたね、さあ、行こう。」
アイオロスが振り向いてくれて、どれほどほっとしたかわからない。
「あの………」
「ん?
どうしたの?」
「ギリシャ語が………わからない……」
言葉の終わりは震えてしまい、涙が出てくるのをこらえようとしたがやっぱりだめだった。 みるみるうちに涙の粒が膨れ上がって透き通った雫が頬を伝って落ちた。
「あ……」
「怖い………とても怖い……ごめんなさい、アイオロス…………泣いて…ごめんなさい…」
それきり泣きじゃくってしまって、もう言葉にもならないのだ。 具合の悪いことに近くの店からギリシャ民謡が流れ始めて、その聞きなれない旋律がますますカミュの涙を誘う結果となった。
困ってしまったアイオロスが抱き上げて、背中をさすってやりながらどれほどなだめたことだろう。 カミュも泣いてはいけないと思ってはいるのだが、都合の悪いことになんとか涙が止まったと思ったとたん、すぐ近くでギリシャ語が聞こえたりするものだから、またしゃくりあげてしまうのだ。
それでも30分ほど経つとやっと落ち着いたらしく、自分から降りると言い出したのにはアイオロスもほっとした。
「もう大丈夫かな?」
「ん……ごめんなさい…」
船での元気はどこへやら、すっかりしおれてしまってアイオロスの手をぎゅっと握ったままうつむいている。
「最初はつらいことも多いかもしれないけれど、そのうちに言葉がわかるようになる。
アイオリアによく言っておくから、私がいないときは頼って欲しい。 言葉がわからなくても、きっと親切にしてくれるから。」
噛んで含めるようにそう言うと、必死に歯を食いしばって頷いたのがなんともいじらしいではないか。
言葉のわからないこの子が修行することを思えば、アイオリアなど どれほど楽か
しれはしない
弟だからと手加減をしていると思われても実に困る!
気が緩まないように、最初から締めてかからねば!
こうしてアイオロスの指導方針が決まった。 みんなに厳しく、そしてアイオリアには特に厳しく!ただし、これほど不安がっているカミュには陰でのサポートが必要に違いない。
「さあ、これから図鑑を買いに行こう! きっといい本が見つかると思うよ。」
「ん………そうする。」
書店を探しに行く途中、カミュが通り過ぎる店の一軒に気を惹かれたようだ。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。」
アイオロスにはそう言ったが、カミュの目はウィンドウの中のフランス語のポスターをしっかりとらえたのだ。 そして店に入ってゆく二人がフランス語を話していたことも。
アイオロスに手を引かれながら、初めての国の初めての通りでその店の場所を心に刻もうとカミュは必死に知恵をめぐらせる。
「聖域はアテネにあるの? またここに来れる?」
「アテネの街からはちょっと離れてる。 慣れたらアテネにも時々は連れてきてあげられると思うよ。」
「そう…」
カミュの足取りは、この子にしてはやや重い。 アイオロスは何とかして気を引き立ててやりたくなった。
そうだ、いいことがある!
「それよりカミュ、聖域に着いたらいいものを見せてあげよう。」
「いいものって、なあに?」
「私の聖衣だ。 サジタリアスの黄金聖衣。 とてもきれいだよ、きっとカミュは好きになってくれると思う。」
「はいっ!」
なんだかわからなかったけれど、きれいなものは大好きなのだ。 沈んでいた心がちょっぴり明るくなった。
「ぼくもモレルさんからもらったものを見せてあげるね!」
「では、あとで見せ合いっこだ!」
にっこり笑ったカミュがぎゅっと手を握ってきた。 やっと笑顔が戻ったことにアイオロスはほっとする。
こうしてカミュの第一日が始まった。
了