「ビターショコラ」    その3

ラダマンティスが携帯を取り出したのがバレンタインには意外だった。

   なぜ携帯が鳴る?
   ここでも通じているのか? いつの間に?

バレンタインが持ち帰ってきたものと酷似しているところを見るとやはり聖域から貸与されたものだろう。ただしバレンタインの持っているのは銀色で、いまラダマンティスが取り出したのは艶やかな漆黒だ。
慣れない手つきで携帯をパチリと開いて画面を見たラダマンティスが横を向いて話を始めた。
「俺だ………ああ、それで大丈夫だ………………わかった。待っている。………いや、今はだめだ、会ったときにしよう………………それじゃ。」
見ないように聞かないようにと思っても、どうしてもバレンタインの注意はそちらに向いてしまう。この冥界で携帯を使う場面は初めて見るが、それよりも気になるのは相手が誰かということだ。口調からして対等の立場で、しかもややくだけた感触はかなり親しい関係だろうと推測される。しかもあの謹厳なラダマンティスにしては珍しく頬に血の色を上らせて笑みが浮かんでいるようだ。目の前にバレンタインがいることに照れているようでもあり、こんな上司を見るのは初めてで驚かされる。自分の知らなかったラダマンティスがそこにいた。

   ………はて?
   お相手はミーノス様かアイアコス様だろうか?
   しかし、お二人とも執務室においでのはずだ
   わざわざ携帯で話をなさる必要がおありなのか?

話はすぐに終わり、ラダマンティスが携帯を閉じた。
「途中ですまなかった。」
「ここで携帯が通じるとは知りませんでした。」
「うむ、お前が聖域に赴いている間に通信システムが構築された。徐々に利用も広がるだろう。それに冥界だけではないぞ。地上とも話ができる。」
「えっ!そうなのですか!では今の電話も…」
そこまで言ってからバレンタインがあわてて口を閉ざした。上司の通信の秘密に口を挟むなどもってのほかだ。忠実な部下にあるまじき僭越な振る舞いは厳に慎まなければならない。
「おっと、せっかくの紅茶が冷める。お前のケーキをもう一切れもらおうか。」
「はい。ただいまお持ちします。」
「そう、堅苦しくなるな。ここは聖域ではない。寛ぐがいい。」
「はっ。」
「それが固いというのだ。」
「は…」
久しぶりのお茶の時間がバレンタインには嬉しかった。

その翌日、バレンタインが執務室に顔を出すとすでにラダマンティスが書類と取り組んでいた。聖戦が終わってからというもの、戦時体制下で捨て置かれていたありとあらゆる雑事の処理が山のように押し寄せてきて、実務に長けた人材が相当数欠けた現状では三巨頭の一人といえどもなかなかに忙しい。が、それにしても執務に就くのが早すぎる。
「今日はお早いのですね。」
「うむ、ちょっと来客があるのでな。先に片付けておいたほうがよい。」
「ご来客ですか。」
客とはいったい誰だろう? この冥界で客と名のつく者などいるはずもない。みな、部下か同僚で、たまにやってくるパンドラもけっして客ではない。
「うむ、聖域からだ。」
「聖域ですか。なにか会議で抜け落ちていることでもあったのでしょうか?」
完璧を期したつもりだが、なにか遺漏でもあったのだろうか。バレンタインとしては心が騒ぐ。
「いや、そうではない。単なる私用だ。昼過ぎに来るはずだ。」
「ではそのときにはお茶でよろしいですか?」
「ああ、頼む。」
「おいでになるのはお一人でしょうか?」
「そうだ。いや、たいした用事ではないのだが。うむ、そんなに気にしなくていい。」
聖域から来客とは珍しいこともあるものだとラダマンティスを見ると、心なしか顔が赤いように見える。バレンタインは首をかしげながら書類の整理に取りかかった。

簡単な昼食をすませてしばらくすると来訪者の知らせがあった。
「外界からだそうです。きっと聖域からの使者でしょう。」
勝手に使者だと解釈したバレンタインがドアを開けて出て行った。デスクの上に散らばっていた書類をきちんとまとめたラダマンティスが壁の鏡にちらと目をやって襟元が曲がっていないか確認をしたようだ。
「やあ、久しぶりだな。邪魔をするぞ。」
「これはジェミニのサガ、会議ではお世話になりました。」
下吏に案内されてきたのはバレンタインもよく知る長身の聖闘士だ。聖域の重鎮、黄金聖闘士のサガが来るとは、やはりなにか重大な用件なのだろう。バレンタインの顔に緊張が走る。そのサガの私用となれば、公にはできない極秘裏の訪問と考えていいだろう。
「いや、違う違う。俺はカノンだ。」
「え?」
まじまじと見ると、そういえばどこかが違う。顔立ちも背格好もそっくりだが、どことなく洒脱な雰囲気があり、口調も重みのあるサガとは異なっているようだ。
「双子だから兄貴とよく間違えられるんだ。いい迷惑だな。で、ラダマンティスはいるか?」
「あ……これは失礼をいたしました。ご案内します。」
聖域での会議はシオンとサガが中心となって取り仕切っていたので、バレンタインはカノンと一度も顔を合わせていない。そのためサガが双子だという認識も薄かった。しかし、こうして面と向かってみると、実によく似ている。これでは間違えるのも無理はない。
「ラダマンティス様、ご来客です。」
そう告げると、ラダマンティスが立ち上がりカノンを迎え入れた。
「よく来てくれた。」
「やっと来たぜ、なかなか居心地がよさそうじゃないか。」
「なにもないが寛いでくれ。バレンタイン、茶を頼む。」
「はい。」
それっきりラダマンティスはカノンと話をしていてバレンタインのほうを見もしない。カノンもいやにリラックスしていて、いくら聖戦が終ったとはいえもう少し緊張していてもいいのではないかと傍目にも思う。
紅茶を出すとカノンが、
「そうだ、こいつを持ってきたんだ。」
と言いながら懐から出した包みを見てバレンタインは驚いた。

   あれは私が買っておいたものと同じように見えるが?

あのとき吟味に吟味を重ねて選んだ青い包み紙と金のリボンでラッピングされた四角い箱が目の前にある。地上から大事に持ち返ってきたものと寸分違わない。
「ほう!なんだ?」
「アテネで一番の店で選んだんだぜ。ここじゃ、手に入らんだろう。お前に食べさせたくて持ってきた。」
「さすがに地上にはよいものがあるのだな。」
和気藹々とした二人の様子になんとはなしに居心地が悪くなったバレンタインは、
「ではわたくしはこれで失礼いたします。」
と退室することにした。金のリボンを丁寧に解いていたラダマンティスが、
「うむ、ご苦労だった。」
と短く言った。

今日は地上でいえば2月14日、バレンタインデーだ。
今回の会議に出向く日程を知ったバレンタインが、日頃から尊敬してやまない上司のラダマンティスに贈るチョコレートをアテネで選ぼうと思いついたのは当然だったろう。
知っての通り、冥界にはそういうときに贈れるような気の利いたものは何もない。文字通りの不毛の地だ。
以前のような臨戦態勢の時にはそんな悠長なことを考える暇も余裕もなかったが、こうして平時になってみると忠誠心の捧げようがない。闘っていたからこそ存分に忠誠心を発揮できたが、書類の整理をしているだけの日々はバレンタインにとってあまりにも凡庸に過ぎた。
そうしたときにバレンタインデーがやってきたのだ。これを逃す手はないだろう。
ラダマンティスのために最高の店で最高の品を選ぶことができる喜びにバレンタインの胸は高鳴った。久しく忘れていた人としての心のやわらかさを取り戻せる機会がやってきた。
けれども、心を込めて選んだ品とそっくりのものを嬉しそうに手にしたラダマンティスの笑顔は聖域のカノンに向けられていた。
いつの間にあんなに親しくなっていたものか、バレンタインにはわからない。

   いつから携帯で連絡を取り合うような仲になっていたのだろう?
   カノンは今日がバレンタインデーだと知っていて、あの店でチョコレートを
   買ったのか?

そしてようやくバレンタインは気がついたのだ。あのとき店で見かけた聖闘士がサガではなくカノンだったということに。

  ああ……

寂しさが胸の中を一陣の風になって吹き抜けた。ほろ苦い思いがこみ上げる。
「どうしようか……」
部屋に戻ったバレンタインが引き出しを開けた。夕食の前にラダマンティスに渡そうと思っていた青い包みがそこにある。いまさらカノンと同じ品を渡すことなどできはしない。
「自分で食べてみようか…」
ため息をついて包みを開けた。綺麗に並んだ粒選りのチョコレートが顔を出す。花の形のひとつをつまんで口に入れたときポケットの中で携帯が鳴った。
『もしもし………聞こえますか?』
カミュの声だった。少し小さくて安定しないが聖域から聞こえる人の声。
『あ…よく聞こえます。バレンタインです。』
『よかった。昨日は出られなくてすみません。手元から離していて気がつかなくて。』
ラダマンティスが携帯を使っているのに驚いたバレンタインはそのあとどきどきしながらカミュに掛けてみたのだった。残念ながら応答はなくてちょっと落胆し、その後はラダマンティスにチョコレートを渡すという楽しい計画に心が向いていたのだった。
ちょうどそのとき、カミュはミロと親密な時間を過ごしている最中でとても電話に出られる状態にはなく、携帯の無粋な呼び出し音に眉をひそめたミロが手を伸ばして消音モードにしたことなどバレンタインは知るよしもない。
『これからはいつでも話ができますね。便利になったものです。』
口の中のチョコレートが溶けかけてちょっと話しにくい。
『どうぞまた聖域においでください。冥界の自然環境についてゆっくりお伺いできればと思います。アテネもご案内できますし。』
『ありがとうございます。そのときにはぜひ。』
『次にお目にかかる日を楽しみにしています。ではこれで失礼します。』
『ええ、どうもありがとうございます。』
通話を終えて携帯を閉じる。現在時刻を示すグリーンのライトがしばらく点滅してからふっと消えた。
口の中のビターショコラが妙に甘く感じられた。




 
    初めての冥界ものはバレンタインの淡い恋の挿話です。
     設定としてはラダカノですが、はっきりとは見えてきません。
     友人以上、親友未満。
     そのうち恋人未満になって、やがては………
     でもバレンタインも応援したいです。