「飼育かごか?」
昆虫の観察のために何年か前に購入した飼育かごが離れにあり、今はもぬけのからになっている。
「いや、それでは見づらいのでどこか適当なところに留まらせるのがよいだろう。羽の緑をよく見たい。」
「するとどこだ?玄関の壁とか障子か?カーテンなんかのほうが登りやすそうな気がするが。」
しかし純和風の造りの離れにカーテンはない。
「さて、どうすればよかろう?急がないと私の手のひらの上で羽化の準備に入るかもしれぬ。」
「そりゃまずい。明日の朝まで手を動かせなくなったらことだからな。」
二人が離れに向かおうとしたとき、
「あの、それでしたらオーディオルームはいかがでしょうか。」
話を聞いていた美穂が遠慮がちに声をかけた。
「え?オーディオルーム?」
「あそこでしたら天井までの長いカーテンがありますし、広いので観察も楽かと思います。」
たまに入るその部屋のカーテンは天井から床まで3メートルほどの長さがあり、蝉が羽化の場所を決めるもの簡単そうだ。
「でもオーディオルームの使用時間は21時までのはずだし、それまでに羽化が終わるとは思えないので無理でしょう。」
カミュは難色を示したらが、美穂に言わせればそうでもないようだ。
「辰巳さんに聞いて見なければわかりませんが、音を出すわけでもありませんし、お静かになさっている分には困りませんので大丈夫かと思います。」
美穂の考えでは辰巳が断るとは思えない。黄金聖闘士であるミロとカミュにはこれまでの様々な恩恵を受けており、できるだけのことをしてその恩に報いたいと辰巳が思っている ことは日ごろの言動の端々から窺われる。蝉の観察というしごく穏当な理由で部屋を使いたいという二人の希望を断るとはとても思えなかった。
「あの部屋を使えるんならそれにこしたことはないな。じゃあ、頼んでみるか。」
「うむ、そうしてみよう。」
頷いたカミュが手のひらの中でかさこそと動いている幼虫をフロントにいた辰巳にそっと見せるとすぐに話はまとまった・。
「ほう!それは珍しいものを!ええ、もちろんよろしいですとも。今日は予約も入っておりませんので、どうぞ今からオーディオルームをお使いください。」
「どうもありがとうございます。」
「しかし蝉の幼虫とは懐かしいですな。私も子供のころに見たきりです。父親と一緒に見たのをよく覚えております。あれは感動です。」
にこにこした辰巳が先頭に立ち、オーディオルームの鍵を開けた。この部屋にはグランドピアノが置いてあるので通年空調が施されている。
「空調を切ってもよろしいですか?自然と同じ環境にしないと羽化しない可能性もあるので。」
「ええ、一晩くらい大丈夫です。もともと東京あたりとは違ってこのあたりは涼しいですからね。」
何箇所かの窓を網戸にすると外の空気が入ってくる。
「ああ、これはよい。」
カミュがカーテンの中央部分の床近くのところに幼虫をそっと留まらせた。急な変化に驚いた幼虫が落ちるといけないので手のひらを下に当ててしばらく様子を見ていると、じっ としていた幼虫がそろそろと上に向かって登り始めた。わりと動きが早い。
「天井まで行ったら観察がしにくいな。突き当たったら右か左に進むのか?」
「さて?蝉の考えはわからぬし。」
三人がじっと見ていると美穂が冷たい麦茶を持ってやってきた。
「まあ、登っていますのね!どのくらい時間がたつと始まるのでしょうか?」
「20時ころには始まるケースもあるようだけれども個体によって違うかもしれないのではっきりしたことは言えないですね。」
「ふうん、それじゃ、いま5時半だから念のため食事は交代にした方がいいんじゃないか?二人とも留守の間に始まって、その結果見逃した、なんていったら悔しいからな。」
「その方がよいな。食事の予約時間をずらすことはできますか?」
カミュの求めには辰巳が大丈夫ですと確約をし、観察の準備は整った。
「そうすると電気は消したほうがよろしいでしょうな。」
「ええ、暗くないと羽化を始めないかもしれません。観察のためにいちばん小さい明かりをつけておくことにします。」
それでは、と辰巳がダウンライトの照度を落としてぼんやりとした明るさにした。ときどき止まっていた幼虫はまた登り始めて1メートルくらいの高さまで進んできた。
「そろそろ止まれよ。上すぎると見えないし。このへんでリストリクションをかけたほうがいいかな?」
「それはよせ。」
「安心しろ、冗談だ。」
見つめる四人の思いが届いたのかどうか、蝉の幼虫は1.5メートルほどの高さでぴたりと止まった。この位置で羽化してくれたら理想的だ。
「これは楽しみですな。いい思い出になりますよ。」
うんうんと頷いている辰巳を見たミロがいいことを思いついたのはそのときだ。
「そうだ!一緒に見ませんか?どうせならみんなで楽しめばいい!」
「かまいませんかな?実はうずうずしておりまして。」
「もちろんいいですとも!せっかくの広い部屋だし、見たい人はスタッフでもほかの泊り客でも声をかけてくださっていいですから。」
「それは嬉しいお申し出ですな。よろしいですか?」
「もちろんです。」
そこで辰巳と美穂が手分けして連絡するとなんと希望者が20人以上もいるという。これにはカミュも驚いた。
「そんなにいるのか?」
「泊り客が全員とスタッフもかなりの数が来るらしい。子供を連れて行ってもいいか?との声も多くて、そうとう期待されているようだ。」
「なるほど。子供も蝉の羽化は好きかもしれぬ。」
「俺たちも開始を見逃さないようにしないと責任重大だな。じゃあ、先に食事に行って来てくれ。」
幼虫を見やすい位置に座り心地のよい椅子を置き、腰をすえたミロが手を振った。 気を利かせた厨房の努力もあって食事は順調に進みミロと交代したカミュがオーディオルームにいると三々五々スタッフがやってきて挨拶をする。連れて来られた幼稚園から中学生までの子供たちは初めて会うカミュに驚き、一様にどきどきしたらしいが、親から言い聞かされているのかみな行儀がよかった。親から 
「ご挨拶しなさ い」
と催促されて頭を下げる子もいてカミュをひそかに面白がらせた。 いずれも蝉の羽化を見るのは初めてらしく、持ってきたノートに観察日記を書き始める子供がいるのがカミュには珍しい。さっそくデジカメで刻々の変化を撮りはじめた親もいて 、これまたカミュには新鮮だ。自然観察は好きだが、およそカメラに収めようという発想はない。
「待たせたな。」
ミロがやってきた。今度は金髪のミロに注目が集まり、再びにぎやかに挨拶が交わされる。時刻は19時半でほかの泊り客も誘い合わせてお辞儀をしながら入ってくる。辰巳も顔 をのぞかせ、事務室で仕事をしているから始まったら教えて欲しいと言い残してまた出て行った。 幼虫はじっとしていて動かない。
薄暗がりの中でひそひそ話していると、しげしげと幼虫を見ていた4年生くらいの男の子が、
「おなかのところが伸びてきたみたいだ!」
と親に伝えたのが羽化の始まりだった。息を潜めた大人もかわるがわる近寄って、最初は1センチくらいだった腹部の長さが2センチくらいに伸びているのを確認する。ミロが事務室に 内線をかけて辰巳と美穂に始まりを知らせた。
「いよいよだな。もう少し明るくしてもいいか?これじゃよく見えないが。」
「たしかに羽化が始まったと確認できたらそうしよう。明るさに驚いてやめてしまったらことだ。」
なおも見ていると幼虫の背中がパカッと割れた。もう間違いはない。辰巳と美穂がやってきて仲間に加わった。 立って行ったミロが明かりを半分までつける。ここまできたら羽化をやめるはずもない。全員が息をころして見つめる中で一生懸命に頭と背中を出した蝉は全体に薄緑の濃淡がき れいで背中の一部分が明るい茶色になっている。
「わぁ〜!ほんとに緑色してる!」
びっくりした小さい子が大きな声を出して慌てた親に、
「 静かにしてなさい 」
とたしなめられた。羽はまだ小さくて折りたたまれていたのがやっと少し広がったような感じで、これがピンと伸びるとはとても信じられないくらいのささやかさだ。翡翠のよう な明るい緑色が美しく感嘆の声が次々と上がる。
「う〜ん、ほんとに不思議だな。こういうのって理屈抜きで感心するな。蝉ってやかましく鳴く、とだけしか思っていなかったが、すごく努力して大人になるってよくわかったよ 。蝶や蛾の羽化もすごいが、蝉もたいしたものだ。」
「自然界では羽化の途中で敵に襲われたり、羽化に失敗して羽が伸び切らないまま地に落ちて死ぬものもいる。背中が割れて顔を出したままそこで命が尽きてしまうこともあるそ うだ。私としてはこの蝉がうまく脱皮してくれることを心から願っている。これだけのギャラリーが期待して集まっているのに羽化に失敗されたらつらすぎ るからな。」
「えっ!そうなのか!厳しいんだな。どう見ても蝉の羽化は人生の一大イベントだし、ものすごく体力を使いそうだ。でもたいていはうまくいくんだろ?」
「だと思いたい。」
見ていると背中をぐんと反り返らせた蝉は しばらくじっとしていたが、そろそろと足を伸ばして殻の上部につかまって、それからぐいっと腹部を殻から抜き出した。息をつめて 見ていたギャラリーから感嘆の声が一斉に上がる。まだ全体に薄緑の蝉の羽のふちの緑がとくにきれいでほんとうに翡翠のようだ。
「きれいだな、見てよかったよ。新しい命の誕生だ。」
「このあと体液をどんどん翅脈に送り込んでゆき完全に羽が伸びたら体が乾くまでじっとしていることになる。そのうちに緑から褐色になる。」
「ふうん……不思議だな。昼間にたくさん鳴いてる蝉にもこんなドラマがあるんだな。」
まだ緑色をしている蝉の近くによって珍しげに見ている子供たちの目がきらきらとしていて興奮しているのがわかる。夜間にこんなところにつれてくるくらいだから子供の教育と いうものを考えている親たちなのだろう。 さっきからしきりに携帯で写真を獲っていた親がちょっと咳払いをしてから、
「ええとですね、この蝉の羽化を自分のブログに投稿しましたので、お暇なときにでもどうぞご覧ください。もちろん場所の特定はできないようにしてありますので。」
「えっ!」
周りの大人がいっせいに振り向いて携帯をパチンと開く。
「それはすごいですね!」
「URL は?」
聞くと中学校の理科の教師で以前から理科的な題材を投稿しているのだという。さっそく自分の携帯で検索した画面を人に見せ始めた者もいて人だかりができた。
「そんなこと考えもしなかったな。俺たち、時代に遅れてる?あ、ほんとにここに載ってる。ふうん!」
ミロの携帯に見慣れた模様のカーテンにとまっている薄緑の蝉の写真が写っていて、簡単な説明が添えてある。
「そんなに難しいことでもあるまい。なんなら私も実行してもよいが。」
「えっ?お前もできるのか?」
ミロにとってカミュがブログやサイトを持つなどという観念は斬新に過ぎる。
「私の携帯にもブログに写真を投稿する機能がついている。使う気もなかったが、やってみてもよい。そのくらいのことができないでどうする?」
明かりを落とした部屋の中でもカミュの頬が少し赤いのがわかる。
「お前……もしかして対抗心を燃やしたとか? もっと科学的なサイトを作りたくなったんじゃないのか?」
「そんなことは…」
「いいじゃないか、やってみろよ。オーロラの観察なんか載せたらお前の右に出る者はいない。きっと世界中からアクセスされる人気サイトなるぜ。YOU TUBE  でオーロラの生中継なんかどうだ?俺も誇らしいね。」
「まさか…」
でも少し頬を染めたカミュが満更でもなかったことはミロにはわかる。これだけの知識と行動力を持つカミュが対外的活動をしないのはもったいないと思っていたこともあり、こ の後のミロはカミュをせっついてついには理系のサイトを開設させるに至るのだが、それはまた別の話である。

蝉はじっとしていて動かない。 眠くなった子供を抱えた親たちがお礼を言ってだんだんと部屋を出てゆき、泊り客には朝食の前には蝉を外に放すからと伝えて解散となった。泊り客が全員引き取ったのを確認し た辰巳が
「お疲れ様でした。」
「いえいえい、こちらこそいい経験をさせていただきましたよ。蝉の羽化は東京の城戸邸でまだお小さかった沙織お嬢様にお見せして以来ですな。」
「ほう!アテナに!」
「ええ、ずいぶん感心なさって眺めておられました。」
ミロとカミュにとってはアテナは常に敬愛し尊重されるべき至高の存在だ。しかし辰巳にとっては赤子のときから世話をした大事な主家の令嬢だという事実は変わらない。美穂も 二人に礼を言って宿舎の方に帰っていった。
「それじゃ、俺たちも引き上げるか。」
「うむ、明日の朝 外に逃がしてやろう。」
翡翠色をしていた羽がやや褐色を帯びてきたようだ。
「お休み。」
明かりを消して廊下に出たミロが暗い部屋を覗き込んでそう言った。

次の朝、まだカーテンに止まっていた蝉をうまく外に逃してから食事処に行くと、昨夜知り合いになった泊り客から挨拶をされるのもなかなか楽しいものだ。一匹の蝉が心をつな ぐ。
食事を終えた二人は庭を回って離れに戻ることにした。蝉を見たくなったのだ。すると、玄関を出たすぐのところの敷石の上に蝉の幼虫がいる。
「あれは…抜け殻かな?」
「……いや、羽化していない。地上に出はしたが、ここで力尽きたのだろう。」
「ふうん……もう死んでる?」
「うむ、だめだ。」
黒い瞳が生きているようにも見えて哀れを誘う。
「このままじゃどうにも可哀そうだな。どこかに埋めてやろう。」
「うむ、それがよい。」
裏に回ってスコップを持ってきたミロが手近の木の根元に小さな穴を掘って蝉の幼虫を埋めてやった。
「せっかく地上に出たのに可哀想だな。自分の羽で飛びたかっただろうに。」
「自然は厳しい。蝉の産卵数は数百から 千ともいわれているが、その多くは羽化することなく命を落とす。ほかの生き物の餌となっているのでやむをえぬことだ。食物連鎖とも言うが。」
「すると輪廻転生ってわけね。」
「そうともいえるかも。」
ミロが傍らに咲いていた萩の花を摘んで柔らかい土の上に置いてやった。
「次に生れる時は無事に大人になれよ。」
「それだけ弔ってやれば大丈夫だ。」
「そうであってほしいね。」
すぐそばの木の上から蝉の声がやかましく降ってきた。




       
周期ゼミ → こちら

       セミの羽化の写真 → こち
                      ブログの写真ですからそれほど怖く(?)ないです。
                      よほどの虫嫌いでなければOKかと。
                      羽の緑が神秘的です。