西條 八十 作詞




ピリリ  ピリリ  ピリリ

離れで寛いでいるとミロの携帯にメールが来た。
「カノンからだ。………ふうん………それならやっぱり桜だな。」
文面を確認したミロが返信を打ち始めた。
「これでよしと。」
「なんだ?」
「カノンが、日本でどこかいい景色のところはないか、って聞いてきたから、京都の桜を勧めておいた。春の日本は初めてだそうだ。」
「うむ、それでよいと思う。」
頷いたカミュがパソコンに向きなおり、ネット碁の盤面に次の石を置いた。


「ほう!たいしたものだ!これが桜か!」
「なかなかのものだな。冥界にはこんな花はあるまい。」
「やはり地上はよいな。闘うよりも平和的手段で来たほうがはるかに得策だ。」
カノンと話しながら川沿いの桜並木の下の散策路を歩いているのは、言わずと知れた冥界の三巨頭の一人ワイバーンのラダマンティスだ。
この二人はあの聖戦以来なぜか気が合って、互いに呼び出しあっては飲み歩いたり物見遊山をしたりする仲になっている。
……え? それ以上の仲ではないのか?って? そんなことはここでは書けない。

古都の桜を堪能してから予約しておいた旅館に向かう。この季節はどこも満室だったが、カノンがかなり探して、一流のガイドブックの三ツ星がついた宿の離れの特別室に一部屋キャンセルが出たのを確保できたのはラッキーだった。ミロが、泊まるなら露天風呂のいいところにしたほうがいいと助言しておいたので、そこのところにはこだわったつもりである。檜の内風呂、大浴場、自然石の露天風呂なら及第点はつけられるだろう。
ところが宿はいいのだが泊り客が悪かった。
「ああ、ここだ。」
ネットで見たとおりの重厚な外観を見て玄関を入ると目の前のフロントが騒がしい。
「まことに申し訳ございません。お客様のお気持にかないませんでしたことを深くお詫び申し上げます。当方ではお客様にお食事どころまでおいでいただくことになっておりましたので。」
支配人らしき風采の男性がしきりと頭を下げていて、その後ろでは若い女性スタッフが何人か固まって泣きじゃくっている。
「あんたらの態度がなってないんだよ!従業員の教育はどうなってるんだ?ああ?」
「ほんとうに申し訳ございませんでした。よく申し聞かせますので。」
「だいたい、客の俺が、部屋で食いたいって言ってるのに、どうして食事処まで行かなきゃあ行けないんだ?サービスはどうした?サービスは!俺は飯を食ったらそのまま寝っころがりたいんだよ!当たり前だろうが!客に足を運ばせるなよ!」
「相済みません。後ほどお部屋にお運びいたしますので。」
「いまさら遅いんだよ!風呂から上がったらすぐに食いたいのに、これから運んできたら何時になるんだ?ああ?ほんとにろくでもない宿だな、ここは!」
客は旅館を選べるが、旅館は客を選べない。普通は一般よりはるかに高い宿泊料金が一定の客層を保つものだが、その枠外の客が来ることも残念ながら有り得るのだ。磨きぬかれた床にメモパッドやパンフレットが散乱しているのは、その客が怒りに任せて投げつけたらしかった。宿にふさわしくない悪質なクレーマーである。
「詫び状を書けよ、詫び状!俺の名前と、それからここの支配人の名前もだ。まったくとんでもない旅館だな!謝罪と賠償はどうした?ああ?客に迷惑をかけてただで済まそうと思ったら大間違いだぞ!賠償金を出したらどうだ?!」
ラダマンティスが太い眉をひそめた。カノンも、せっかくの美しい日本の桜をラダマンティスに見せていい気分だったのに、ろくでもない客のクレームを目撃させられて面白くないことこの上ない。
ほかの客もこの様子を見て息をひそめながら遠回りして玄関を出入りしていて雰囲気は最悪だ。なおも頭を下げ続けるスタッフが気の毒すぎる。
「ちょっと締めてやろうぜ。」
ラダマンティスに合図したカノンがずんずんと近寄っていく。支配人が次に頭を上げたときには二人の背の高い外人が男の前に立っていた。
ただでさえ命懸けの戦場の場数を踏んでいて貫禄があるのに、カノンの身長が188cm、そしてラダマンティスが189cmというのは並大抵の高さではない。これだけの体格の外国人にぐっと近寄られた男はドキッとしたらしい。あいにくなことに男は平均的日本人の身長よりも少々背が低く、ますます二人を見上げる形になった。
「な、なんだよ、あんたらっ……なにか文句でもあるのか?」
顔が蒼ざめて声が上ずっているのが、さっきまでと全然違っていておかしすぎる。
カノンが男に冷静極まりない目を向けた。
「君のクレームは極めて理不尽で不愉快だ。我々はここに宿泊している間に不快な思いをさせられたことに対して君に訴訟を起こす用意がある。ついては訴状を書くために君の住所氏名を知りたい。」
こんなときのカノンはサガの態度の真似をする。いつものくだけた調子は微塵も出さず謹厳実直なサガとそっくりなのがおかしくて、ラダマンティスは笑いをこらえねばならなかった。
「そっ、そんなことっ!俺は関係ない!」
「ほう! 君以外に誰か共同不法行為を働いたものがいるとでも?そいつが主犯か?ではその者の住所氏名も承ろう。」
「知らないっ、そんなことをいう必要がどこにある?だいたいこんなことくらいで、なんで訴訟なんかされるんだっ?俺は悪いことなんか、しちゃいないっ!」
これで反撃に出たつもりかもしれないが、男の主張は甘かった。
「いや、君は悪事を働いている。そのくらいのことがわからないのか?常識がないな。 おい、ラダマンティス、法律はどうなってる?」
話を振られたラダマンティスが携帯を取り出した。手早く操作して日本の法律の条文を調べだす。自慢ではないが、事務処理能力はカノンより上だろう。冥界の執務室で日夜 書類の処理に明け暮れているのは伊達ではない。
「ふむ……該当するのはこれだ。法律なんてどこも似たようなものだな。軽犯罪法 第一条の第13号に、『 公共の場所において多数の人に対して著しく粗野若しくは乱暴な言動で迷惑をかけ、又は威勢を示して汽車、電車、乗合自動車、船舶その他の公共の乗物、演劇その他の催し若しくは割当物資の配給を待ち、若しくはこれらの乗物若しくは催しの切符を買い、若しくは割当物資の配給に関する証票を得るため待つている公衆の列に割り込み、若しくはその列を乱した者 』 は拘留又は科料に処するという条文がある。つまり、」
ラダマンティスが男を見た。本人にしてみれば、ただ視線をやっただけなのだが、見られたほうの男はその目の中に地獄の深淵を見た気になったことだろう。冥界の大立者の迫力は半端ではない。気のせいか、周りの空気の色が変わったような気さえする。
「君の行為は明らかに法に抵触している。反論があれば聞く用意がある。」
びくついた男にカノンがさらに言った。
「そういうことだ。重ねて言うが、訴状に書く必要があるので君の住所氏名を知りたい。」
極めて冷静なカノンに比べて、真っ赤な顔をしてしどろもどろになっている男はどうにも分が悪い。フロントにいるスタッフたちはどうなることかと気を揉んでいるが、なあに、マナーの悪い客に同宿の客が苦情を言っているだけなのだから旅館側にはなんの責任もないのだ。
ラダマンティスが内ポケットから手帳とペンを取り出した。黒い革表紙の手帳は特別仕様のアクアスキュータムで、ペンはルイ カルティエ ゴールドパウダー エフェクト デコール。邦貨で163,800円という代物だ。
むろん、買ったのはカノンで、誕生日にこの二つのステーショナリーをプレゼントされたラダマンティスは価格など知りはしない。ただ、重厚な品だな、と思っただけだ。
「お前だったらこのくらいの品は持つべきだな。」
「そうか?」
素直に受け取り使い始めると、書きやすいことこの上ないこのペンは当然のことながらラダマンティスのお気に入りのアイテムの一つとなっている。
それはさておき、いささかも動じていないラダマンティスの態度に加えて、このペンと手帳の重々しさが粗野な男にも理解できたとみえる。もしかしたらマフィアかなにかと勘違いされたのかもしれないが。
「俺は……関係ないからなっ!」
慌ててその場を離れようとした男が、それでもはっと気付いたらしい。
「おいっ、お前ら! 俺の名前なんか教えるなよっ!」
フロントに向かって捨て台詞を吐いたとき、ラダマンティスが男の言葉を聞きとがめた。
「『 お前ら 』 とは? その粗暴な発言もやはり軽犯罪法の第一条 第13号に該当し…」
「うわっ! 俺は知らないっ!なにも知らないからな!」
するとカノンがカウンターの上の紙片を取り上げた。
「ああ、ちょうどいい。この詫び状に君の名前が書いて…」
「よこせっ!」
駆け戻った男がカノンの手から紙片をひったくるとびりびりに引き裂いた。
「おやおや、せっかくの個人情報が。」
カノンが肩をすくめる。
今度こそ駆け出していった男はすぐに視界から消えてしまった。
緊張していた空気が緩み、トラブルをあっさりと片付けてしまった手際のよさにスタッフ全員が惚れ惚れとため息をつく。
「ありがとうございます。とんだご迷惑をおかけいたしました。」
支配人が深々と頭を下げて礼を言う。
「いいえ、たいしたことではありません。それにしても……いや、地上にはいろいろな人がいるものですな、お疲れ様です。」
ラダマンティスが出番がなくなったペンと手帳をしまうとカノンが宿泊の手続きをする。
「ではお部屋にご案内いたします。」
恭しくお辞儀をした仲居に先導されて二人の背の高い外人が姿を消してしまうと支配人がほうっとため息をついた。
「さあ、みんな、仕事に戻ろう。ただいまのお客様のお部屋にドリンクとフルーツをお届けするように。」
「はい!」
気を取り直した支配人の指示にスタッフがいそいそと用意を始め、泣いていた女性も元気よく働き始めた。

例の男は運の悪いことに、そのあと露天風呂でもカノンとラダマンティスに鉢合わせしてしまい、あまりにも偉丈夫な二人の肉体とおのれの貧弱な体をひきくらべて愕然としたらしい。こそこそと湯から上がると退散してしまった。
「さっきのことが気まずいのだろう。」
「それだけじゃないぜ、俺たちの身体に圧倒されたんだな。」
「そういうものか?」
「そうだよ。男としての自信をなくしたんじゃないか?」
「それなら鍛えればいいだけの話だ。」
「一般人には無理だろう。実戦で鍛えたお前の足元にも及ばんさ。」
「お前もだ。」
「そう言うと思った。」
肩まで浸かっていると湯の温かさが沁みてくる。湯の上に張り出している桜が風に揺れて一斉に花びらを散らし、時ならぬ花吹雪に包まれたラダマンティスにため息をつかせた。
「やはり地上はいい。エリシオンにも咲かないような花を自由に見ることができるのだからな。」
「花が好きならいつでも呼んでやる。ミロのやつなんか、聖域を離れて日本で花の見放題だからな、あいつは贅沢してるよ。」
カノンの脳裏に、現実の花を見ながら腕の中のカミュをめでるミロの姿が浮かんだ。

   この世の春ってやつだな………しかも一年を通して春とはね
   ミロのやつ、贅沢にもほどがある

「両手に花ってやつだ。羨ましいね。」
むろん、こんな言い回しはラダマンティスにはわからない。
「お前も冥界に来い。たいしたものはないが、歓迎する。」
「冥界ねぇ………なにか、いいものはあるか?」
正直言って冥界には いい印象がない。荒涼とした風景は殺伐として見るべきものは何もなく、死と血の匂いしか思い出せない不毛の地だ。
「ふむ………」
ラダマンティスがちょっと考えた。
「何もないが俺がいる。それではだめか?」
「言ってくれるぜ。」
にやりと笑ったカノンがザブリと湯を割って立ち上がる。
「腹が空いた。そろそろ飯の時間だろう。日本食は美味いって話だ。」
「期待している。」
連れ立って更衣室へのガラス戸を開けると日本人の年寄り二人と出会って目を丸くされた。筋骨隆々とした見上げるほどに背の高い外人といきなり遭遇すればでも驚くだろう。
「ふふふ……驚かせたかな。」
「冥界ではそれほど目立たんのだがな。」
自信たっぷりの二人はこのあと浴衣の着方に首をかしげるのだが、それはまた別の話である。





     
    たまにはほかの二人の話を。
         ラダマンティスのことは以前から好きです、たとえ蛙の悪行を見過ごしていたとしても。
         その彼とペアを組ませるのならカノンがいいのではないかと思いまして。
         クレーマーの対処、
         ミロとカミュではちょっと迫力が出せないのですが、この二人なら圧倒的です。




    貴様と俺とは同期の桜