エ オ リ ア ン ハ ー プ

                                  ショパン作曲 : エチュード 作品 25−1 「エオリアンハープ」


聖域に来てから半年も経つと、カミュもようやく周りで話されるギリシャ語の意味をなんとか汲み取れるようになってきた。 そうなればなったで、今度はミロたちが故郷のちょっとしたことを自慢げに話しているのがわかってきてカミュは淋しくなってしまうのだ。 しかし、それを知っている者が一人いた。
「訓練が終わったら私のところにおいで。 カミュに見せるものがある。」
午後に闘技場に現れたアイオロスにそう言われたカミュは、夕陽の沈みかけるころ、子供の足には段の高い石段を登って麓から数えて九番目の人馬宮にやってきた。
まだ黄金聖闘士になっていないので宝瓶宮にも立ち入ることは許されておらず、カミュが入ったことのある宮は、アフロディーテの双魚宮と、この人馬宮だけだ。 巨蟹宮にはデスマスク本人から大きくなるまで入ることを禁じられていて、それがなぜだかはわからないのだが、素直なカミュはなんの疑問も持たずに言うことをきいていた。
背伸びをしてもやっと届くか届かないかというノッカーに一生懸命に手を伸ばしていると、中から足音がしてアイオロスが扉を開けてくれた。
「よく来たね。 さあ、おはいり。」
「はい!」
夕闇が迫る広いホールを通り抜けていくと右手に私室スペースへの背の高い扉がある。 カミュがこの先に入るのは三回目で、聖域に来てフランス語しかわからなくて立ち往生していたカミュを見るに見かねたアイオロスが、人目につかぬようこっそりと呼んでくれて甘いお茶をもらって慰められたことがあるのだった。
でも、今日、案内されたのは今までに入ったことのない部屋だ。 廊下の奥の突き当たりの扉を開けるとそこは天井の高い窓のない小ホールで、カミュはまだ知らぬことだったが、イオニア式の柱頭を持つ飾り柱が何本も壁を飾っている立派な造りなのだ。
アイオリアは持っていた燭台を傍らの小卓に置くと、カミュを差し招いた。
「覚えているかな? 初めてギリシャに来てアテネの街でバスを降りたとき、私の黄金聖衣を見せてあげると言ったことを。」
「はい、覚えています。」
「時間がなくて今になってしまったけれど、今日は見せてあげられる。」
思わぬことにどきどきして顔を赤くしているカミュに少し離れているように言うと、アイオロスが正面の壁際の一段高くなったところに置いてある金色の四角い櫃のそばに歩み寄った。 息を詰めて目を凝らしているカミュの方を半ば向いて、少し両手を広げたアイオロスが目を閉じて小宇宙を高めてゆくと淡い金色の光が立ち昇り、やがてそれはきらめく光の渦となってカミュの目をくらませた。
櫃がひとりでに開いて中から黄金に輝く美しい形が見えたと思ったとたん、眩しさに耐え切れなくなったカミュが小さく叫んで目をおおった。
「もういいよ。」
声がかかってからそっと目を開けたカミュが見たものは、きらきらと輝く金色の鎧を身に着けたアイオロスだった。
「あっ…」

   これが………これが黄金聖衣………こんなにきれいでまぶしくて…………

それはとても美しくて、ギリシャに来るまでにあちこちの美術館で見てきた彫刻のどの鎧とも違う素晴らしさなのが小さいカミュにもはっきりとわかる。 鏡のように艶々とした金色の表面には華麗な唐草模様が施され、頭につけた冠は今までに見たことのない優雅な形で、美しいものが大好きなカミュを惚れ惚れとさせた。 
だがしかし、カミュをいちばんうっとりとさせたのは背中についた黄金の翼だった。 半ばたたまれている双翼は驚くほど長く大きくて、広げれば何メートルもあったろう。 黄金の羽の一枚一枚の重なりが蝋燭の炎にきらめいて神々しい光を放つさまはカミュを陶然とさせるに十分だった。
「カミュ?」
「あ…」
気がつくとカミュは涙を流していて、アイオロスに顔を覗き込まれているのだった。
「大丈夫かな?」
「はい………なんだか、胸が痛くて……泣きたくなって……」

   黄金の小宇宙がこの子に働きかけて、まだ内に眠る小宇宙が共鳴したのだろう
   まだ幼いとはいえ、類まれなる資質の萌芽が見えているのだ

「大丈夫だよ、すぐにおさまるから。」
「はい…………あの、アイオロス……」
「なにかな?」
「ほんとにきれい………とてもまぶしくて立派で……あの……さわってみてもいいですか?」
「いいとも。」
白い指をおずおずと伸ばしたカミュが黄金聖衣に触れる。 冷たい滑らかな表面は曇り一つなく、柔らかい指の接触を厳かに許した。 わずかに触れた指先から透き通った小宇宙のさざなみが身体の中に流れ込んできてカミュの心を震わせる。
「あぁ…」
そっとため息をついたカミュが目を細めてアイオロスを見上げる。
「あの………水瓶座の聖衣も……こんなふうなの?」
どきどきする幼い胸の鼓動がアイオロスに伝わるようだ。
「私も見たことがないけれど、十二の星座の聖衣はそれぞれ形が違うのだという。 私が見たことがあるのは、双子座、魚座、蟹座、山羊座の聖衣だけだ。 どれもみな美しいよ。」
「ん………」
「水瓶座の聖衣も君に見てもらう日を待っている。 その日まで頑張れるね。」
「はいっ!」
頷いたアイオロスが櫃のほうに向きを変えたとき、黄金の翼が触れ合ってきらめく風のような澄んだ音を立てた。 カミュがアイオロスの黄金聖衣を見たのはこのときが最初で最後になった。

それからひと月ほどしてアフロディーテの薔薇園の手伝いを終えたカミュが石段を降りてゆくと、人馬宮の裏手にアイオロスの姿が見えた。 カミュを認めたアイオロスに手招きされて駆け寄っていくと、なにやら大工用具を広げて作業の真っ最中だ。
「何を作っているの?」
「楽器だよ。 エオリアンハープだ。」
「ハープ?」
本で見たことのあるハープは優雅な形をしているのに、アイオロスの手元にあるのはまっすぐな木の板でカミュは首をかしげる。
「これは人が手で弾くのではない。 自然の風が鳴らすのだよ。 私の名前はアイオロスという風の神から採った名前なので、それにちなんだこの楽器を作ってみようと思ってね。 出来上がったらきっときれいな音がするから、楽しみにしているといい。」
「はい!」
風が鳴らすハープの音を想像しながらカミュは風の神の名を持つ聖闘士に別れを告げて石段を降りていった。
その一週間後にアイオロスの姿は聖域から消えた。



「そういうことがあったのだ。」
「ふうん………エオリアンハープか。」
「私もその話は聞いたことがないな。」
ミロとアイオリアを誘って人馬宮にやってきたカミュが扉を開けて私的スペースの方に足を踏み入れた。 もう長い間誰も入っていなかったので、長い廊下には微細な埃が積もり、三人の足跡をくっきりと残す。
「あった……」
次々と覗いてゆく部屋の中でカミュがそれを見つけた。 あの日アイオロスが作ろうとしていたエオリアンハープだ。
「完成してるのかな?」
「あとは………弦を張るだけだ。 ほとんどできている。」
高さ二メートルほどの磨き上げたチーク材でできたその楽器は、長い年月の間も変わりなくここに立っていたのだった。
ミロとアイオリアが覗き込んでいるそばで、カミュが弦を張り金具を締めあげる。 ときどき指で弾きながら八本の弦の調弦を済ませると、
「これでよい。」
そう言って頷いた。

良材の楽器はずっしりと重く、麓を望むベランダに三人がかりでやっと運び出すことができた。
「うまく鳴るかな?」
「風に対してこの面が45度になれば隙間を通り抜ける風が弦を振動させて共鳴が始まる。 風車と同じことで、自然とその角度になるように設計されている。」
まもなく夕刻になり風が麓から吹き上げてくる時刻だ。 しばらく待っていると、震えるような低い響きが始まった。
「あ…」
ふしぎな単音にやがて微妙な音階が加わってゆき、風が強くなるにしたがって震えるような玄妙な音楽が静かに広がってゆく。
「これがエオリアンハープ………」
「兄の遺した音だ……風の神の声だ………」
夕陽に照らされたベランダで、三人はいつまでも風の奏でる琴の音を聴いていた。
黄金の翼を広げて微笑むアイオロスの姿が見えるような気がした。




       

        
ひろみさんからいただいた70000ヒットのキリリクは、なんとエオリアンハープ。
        音楽に造詣の深いひろみさんは、私が想像もしなかった射手座のアイオロスにちなんだ楽器をご存知でした。

        標題にあるとおり、「エオリアンハープ」 というのはショパンのピアノ曲の通称です。
        ショパンが名づけたのではありませんが、この曲を聴いたシューマンが、
        「エオリアンハープのような響きだ」 といったことからこの名がつきました。

        時はおりしも、射手座月間。
        慎んで高潔な英雄、サジタリアスのアイオロスに捧げます。

        ひろみさん、素晴らしいリクエストをどうもありがとうございました。

                エオリアンハープ ⇒ こちら と こちら
                音が聴けます ⇒ こちら  ページ中ほどのマークをクリックしてみてください。
                            GRAND HARPと書いてありますが、エオリアンハープだと思います。
                そしてこちらでも音が聴けます ⇒ こちら  こちらは九州の話、とてもよくわかります

                ショパンの 「エオリアンハープ」 ⇒ こちら
                                        ひろみさんのサイトです。
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                射手座の黄金聖衣 ⇒ こちら