ふるさとの訛りなつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく |
石川啄木 「
一握の砂 」 より
カミュが聖域に来てから三ヶ月が経ち、最初はギリシャ語で話しかけられても黙り込むしかなかったのだが今では簡単な会話ならなんとか理解できるようになってきた。 それでも、自分から人に話しかけることは滅多になくて話の輪に加わることはないのだった。 カミュがギリシャ語が出来なくて困っていることを兄から懇々と言い聞かされたアイオリアは何かといえばカミュを誘ってくれるし、カミュと同じ日に聖域に着いたミロはそのアイオリアに負けまいとしきりとカミュに話しかけてギリシャ語を理解させようと躍起になっているようだ。
「うまくいっているかな?」
日に一度はアイオロスが若い彼らの様子を覗きに来て、なにか困ったことはないかと聞いて歩くのだが、そんなある日、カミュがそっと追いかけてきた。
「ん?どうしたんだい?」
背をかがめて訊くと、
「あの………ぼく…」
「なにかな?」
「あの………フランス語で話したいです……」
はっとして見ると青い目に涙がいっぱいにたまっている。
「いつもいつもギリシャ語ばかりで………ぼく……」
たどたどしいギリシャ語さえそれきり出なくなり、そっと涙をぬぐい始めた。
近くに人がいるのでマントで包むようにして石段を登って行き、脇道にそれてから二人で腰を下ろす。
「ここなら誰もいないからフランス語を使ってもいいよ。」
「ん……」
聖域ではギリシャ語が公用語だ。 わからないからといって、いつまでも母国語を使っていては覚えるものも覚えないとのサガの方針で、カミュも表向きはフランス語を使わないことになっている。
とはいっても、聖域に到着した当初のいろいろな規則や毎日の予定などの説明はフランス語で行われたのだが、1週間たったころには禁止令がでた。
習うより慣れろ、というのは本当で、ごく簡単なことはなんとなくわかるようになってきたカミュだが、それでも毎日の緊張は大変なものなのだ。
「フランス語で話したい………フランス語のできる友だちが欲しい………アイオロス……ぼく………」
「ときどき私と話すだけじゃ、足りないかな?」
泣きじゃくり始めたカミュをマントで隠すようにしてなだめるのだが、我慢に我慢を重ねた末についに出てきた涙は容易なことでは止まらない。
「どうすればいいかわからない………ぼく、頑張らなきゃいけないのに………泣いちゃいけないのに……」
「カミュ……」
「アイオリアもミロも親切にしてくれるけど、なにを言っているのかわからないときがあって……でも、わからないって言えなくて…」
たとえ、わからないといっても、それに対していったいどうすることが出来るだろう。
聖域の暮らしには 身振り手振りでは伝えられないことも多いのだ。 言葉のわからないカミュに親切心で何回もギリシャ語を繰り返すのは、聞かされるほうにとってはかなりのプレッシャーになっているのに違いない。
雑兵の中にはフランス語圏出身者もいることはいる。 しかし、いくら小さい子供といっても最初から立場が違うのだ。 未来の黄金聖闘士と雑兵では、出発点も到達点もかけ離れていて接点は全くないといってよい。 この聖域でカミュと対等に話が出来るのは黄金聖闘士とそれを目指す幼い者達だけなのだった。 そしてその中でフランス語のできるものはサガとアイオロスだけである。
「大丈夫だよ、みんな君のことが好きだから。 カミュが早く話せるようにって気に掛けてくれるんだから、わからないときはわからないって伝えていいんだよ。 そのうちにわかる日がきっと来る。
そうしたら今日の涙もきっと忘れられる。」
そう慰めながらアイオロスにもよくわかっているのだ、いつになるかわからないそんな遠い日のことよりも、今日の孤独の方がずっと重要だと。
「ごめんなさい………泣いたりしてごめんなさい………」
いつまでも泣き止まないカミュをかかえたままアイオロスは夕闇を見つめていた。
何日かしてアイオロスが聖域を留守にすることになった。
「あと半月は戻ってこられないと思う。 サガや年上の者の言うことをよくきいて、みんなでしっかりやるように。」
出発前にはカミュを呼んで心配ないからとよく言い聞かせ、ミロとアイオリアにはよく面倒を見るようにと噛んで含めるように言い、サガには時々は話しかけてやってくれと頼み、アイオロスとしては万全を尽くしたといえる。
十日ほどはなにごともなかった。
そして、十一日目には月に一度の外出日がやってきた。 希望者はアテネに連れて行ってもらえることになっている日だ。
珍しいことに、今までは聖域に残って本を読んでいたカミュが一緒に行くと言い出した。
「まだ一緒にアテネに行ったことないよね、すっごく楽しいよ!」
「うん!」
ミロに声をかけられたカミュが頬を赤らめて頷いた。
聖域は一般人が入り込まぬよう厳重な結界を敷いている。 サガに連れられてそれを通り抜けアテネの街中まで来ると二時間の自由行動となるのがいつものことだ。
「私は用事があるのでいったん聖域に戻るが、午後3時にはこの場所に迎えに来る。 一人だけでは行動しないこと、決められた範囲以外には出ないこと、この二つを守ることを忘れないように。」
そう言い置いてサガは聖域に戻り、あとは自由な時間となった。
「どこに行こうか?」
ミロがアイオリアとカミュに声をかけた。
「この間 行ったところでアイスクリームが食べたい!」
アイオリアの希望に反対するものはなく、渡されている現金のほとんどを使ってアイスクリームを食べることにした。 なにしろ聖域では絶対にお目にかかれない素晴らしい味なのだ。
「ねっ、カミュも来てよかったよね、アイスクリームっておいしいんだから!」
カミュもこのくらいの意味はわかるらしく、大事そうにゆっくりとアイスクリームを楽しんでいるらしかった。
それも舐め終わると元気な子供のことだからじっとしてはいられない。 一人で行動しないということは頭ではわかっているのだが見たいものはそれぞれに別々で、「
この広場の周りから離れないようにしよう!」 とアイオリアが言った言葉に頷きはしたものの、いつの間にか三人はバラバラに離れていった。
だいぶ時間が経ったころミロとアイオリアが同じ店のウィンドウで一緒になった。
「何時ころかな?」
「ええと………」
アイオリアが店の中を覗き込む。
「もう2時半過ぎてる。 カミュはどこだろう?」
さして大きい広場でもないのだが、二人が右と左に分かれて探してもカミュの姿は見つからない。
「こっちにはいなかったよ!」
「俺の方にも!」
二人はさすがに蒼ざめた。 サガが迎えに来る場所はここから5分くらい離れた広場で、3時までにはあと15分もないのだ。
「先にあの広場に戻ってたりして!」
「行ってみよう!」
息せき切って駆け戻ってみたが、カミュの姿はない。 一緒に来ていたデスマスクとシュラとアフロディーテが、どうしたのかという様子でこちらを見ているばかりなのだ。 通りの向こうからはシャカとムウとアルデバランがこっちへやってくる。
「どうしよう! みんないるのにカミュだけいない!」
「相談したほうがいいよっ!」
年長のシュラに駆け寄り事情を話すと、すぐにギリシャ語のできるものはカミュを探しに行って、あとのものはここに残ってサガを待つということを決めてくれたのにほっとする。
それから探し回ること30分。 ついにカミュを見つけたのはミロだった。
そこは三人が遊んでいた広場から角を五つほど南に進んだところで、カミュは一軒の店のショーウィンドウの中をじっと見ていた。
「いたっ!」
ミロが走りより、
「やっと見つけたっ! どうしたのっ? みんな心配して探してるよ!!」
もうどこにも行かないようにと手をつかまえると、はっと驚いて振り向いたその顔が涙で濡れている。
………え?
「あの………ぼく…」
どうしてカミュが泣いているのかわからなくてミロが戸惑っていると、店の中から人が出てきた。
小さい子供が泣いているのを見てなにか話しかけてくるのだが、ミロにはさっぱりわからない。
「カミュ、帰ろう! ねっ、帰ろうよ!」
ドキドキしてきて、こぶしで目をぬぐっているカミュの手を引っ張って歩かせようとしていると、店に入ろうとしてやってきた大人たちが二人を取り囲んでなにか言い始めた。
これ、ギリシャ語じゃないぞっ! いったいどこの言葉?
気を動転させたミロが立ちすくんだとき、カミュが涙をぬぐいながらなにか言って、ミロの知らない言葉で周りの大人たちと話し始めたではないか。 それも不思議なことに、ミロの耳にはまるで音楽のようにきれいに聞こえるのだ。
………あれ? ということはこれってフランス語?
言葉の波に取り囲まれて茫然としていると、一人の男の人がミロの肩をやさしくたたいて今度はギリシャ語で、
「友だちに心配かけて悪かった、もう遅れないようにするって言ってるよ。 気をつけて帰りなさい。
道はわかるかな?」
と言ってくれたのだ。
「あ………大丈夫です。 ちゃんと帰れます!」
「それならよかった! Au revoir !」
「Merci ,Au revoir !」
カミュがきれいな発音でなにか言い、周りの大人に手を振った。
「サガも今ごろ探してるよ、いったいどうしてこんなところまで来たの?」
来た道を戻る途中も、ミロはカミュの手をぎゅっと握ったままだ。 きっと、手を離すとカミュがどこかに行ってしまうのではないかと心配しているのに違いない。
「あの………フランス語を話す人がいて………嬉しくてあとをついていったの………それで…」
あとはちょうどいい言葉が見つからないらしく、黙ってしまうのだ。 それでもミロには事情がわかったような気がした。
きっとカミュは自分の国の言葉を聞いて、懐かしさのあまり夢中でついていったのだろう。 そして辿り着いた先はフランス人がたくさん集まる店だったのに違いない。
ショーウィンドウにはフランスのお菓子や本やポスターがあって、カミュは眼を奪われたのだ。
嬉しくて懐かしくて離れることができなくて時間を忘れたのだろう。
「カミュ………フランスに帰りたいの?」
「え………」
うつむいたカミュがふるふると首を振った。
「帰るところがないし………それに黄金聖闘士になるんだから帰っちゃいけない………」
そう言いながら涙はこぼれてしまうのだ。 トラキアに家がある自分と比べて、帰るところがないというカミュの哀しさがミロの胸を打った。
「帰っちゃだめ! 俺、カミュにここにいて欲しい! ずっと一緒にいよう、一緒に黄金聖闘士になろう!」
簡単な言葉を選んでゆっくりとカミュの眼を覗き込みながら言ったミロの気持ちはカミュにも伝わった。
「ん………ありがとう………ミロ…」
「泣いちゃだめ! ほら、あそこにみんながいる。 俺がみんなにわけを話すから、もう泣かないで。」
「ん………わかった。」
握りしめていた手はしっとりと汗で濡れている。
「見つけたよ〜っ!」
手を振ったミロがカミュを引っ張りながら駆けていった。
「そのときミロは、カミュがギリシャ語が読めなくて道に迷ったと言い張ったが、おそらくカミュはフランス人の集まる店に行ったのだろうと思う。 あの通りを南に行ったところに一軒あるじゃないか。」
「私の留守にそんなことがあったとは……!」
「今回は無事でよかったが、今は幼いカミュもやがてアテナを守る大事な聖闘士になる身の上だ。 時間に遅れて他のみんなにも迷惑をかけている。
そこで、二度とこのようなことがあっては困るので、あの三人には固い約束をさせた。」
アイオロスの胸がちくりと痛んだ。
カミュはサガになにも言っていないらしいが、フランス語に餓えている毎日をやっと送っている。
初めて見つけたフランス語との接点も断ち切られるほかないのだ。
「今後アテネに出たときはカミュの行きたい所に一緒に行き、けっして離れてはならぬと申し渡した。」
「……え?」
顔を上げたアイオロスにサガが笑う。
「人には息抜きが必要だ。 アテネに出かけるのはそのためだろう。 ミロとアイオリアも、この世にはギリシャ語を使わない世界もあるのだと知っておいたほうが良い。
そうは思わないか? そうとなればカミュも、ミロとアイオリアがフランス語がわからないのだから長居をすることもないだろう。
両者にとって良いことだ。」
「まったく! 我々もたまには言葉の通じない国に行って立往生してみるのもいいかもしれないな。」
「さて? 二人合わせるとかなりの国がフリーパスだが、いったいどこに?」
「そうだな………たとえば日本は?」
「日本?」
「日本人は英語もあまり得意ではないと聞く。 二人で日本に行って困ってみるのもいいかもしれない。」
「なるほどね、考えておこう。」
サガが書類に手を伸ばし、アイオロスは報告書にペンを走らせ始めた。
あまりにも有名な啄木のこの歌は、ずっと前から頭の中にありました。
ここはどうしても幼いカミュ様のことを考えずにはいられません。
言葉がわからない、これは恐怖です。
それをいつの間にか克服し対等に話ができるようになるまでには言い知れぬ苦労があったことでしょう。
今では日本語にも堪能なカミュ様にも、こんな時代があったのです。