思ったよりも夜露は冷たく  二人の声もふるえていました
「僕は君を」と言いかけた時  街の灯が消えました
 もう星は帰ろうとしてる  帰れない二人を残して
            
「帰れない二人」より   作詞 : 井上陽水・忌野清志郎     

「それなら海を見に行こう!」
そう言い出したのはミロだった。
「カミュは船に乗ってここに来たんだから、海はフランスにつながってる! だから海を見に行こう!」
「え? 海に…?」
「今すぐ行けば、明るいうちに帰ってこられるよ! さあ、早く!」
せかされたカミュは、ちょっと迷ったものの、すぐにミロのあとを追っていった。

発端は些細なことだった。
聖域に来てからようやく一ヶ月がたち、毎日の暮らしにも慣れてくると互いのことに興味を持ち始めるものだ。
ギリシャ北部出身のミロが葡萄の収穫祭の楽しさや村の暮らしのあれこれについて話すのを黙って聞いていたカミュが不意に淋しそうな顔をした。
「どうしたの? カミュ。」
「あの……ミロがうらやましいと思って……」
「え? なんで?」
「そんな楽しい話……なにもできないから…」
「ギリシャ語がまだあんまりうまく話せないから?」
「それもそうだけど……」
ミロにはカミュの言っていることがよくわからない。 しかし、わからないなりに、半日もかければ村に帰れる自分とは違って、カミュには遠いフランスにすぐには帰れないことが淋しいのかもしれないと考えたのだ。
そういえばカミュから家族の話を聞いたことがないし、暮していた家や街のことを聞いた覚えもないのだった。 きっと、思い出して悲しくなってしまうのだろう。 いつもそんなことをしゃべっている自分は、知らぬ間に自慢していたのかもしれなかった。
カミュは淋しいのに違いない。
ミロがカミュを海に誘ったのはそういうわけだった。

聖域に来てから、海に連れてきてもらったのはまだ一度だけだ。 聖域近郊の地理を教えるためにアイオロスに連れられてきたときは、十二宮の南に広がる森を抜け、1時間ほど歩いたろうか。 岩肌の露出した聖域の風景を見慣れている目には、緑の森も青い波が打ち寄せる海も実に美しく見えたものだ。
そのときのことを思い出しながらカミュと連れ立って前に通った道を辿りながら行くのは、なんだか秘密の冒険のようで胸がわくわくするではないか。 自分達だけで聖域の外に出たのは初めてで、このあたりの地理に詳しくないのはどちらも同じなのだが、地元のギリシャ出身というささやかな、しかしミロにとっては重大な事実がミロを大胆にさせていた。
「黙って出てきたけど、怒られないかな?」
「大丈夫だよ、夕方までには帰れるもの♪」
午前中は訓練、午後の語学は早目に切り上げられた今日は珍しく自由な時間がある日なのだ。
頭上の高い木の上から降ってくる名も知らぬ鳥の賑やかな声は十二宮では聞けないもので、二人の首を傾げさせる。
「カミュ、あれ、なんの鳥かわかる?」
「ううん、全然……でも、そのうちに覚える♪」
「俺も覚える!」
そのうちにとても高い木の下にやってきた。
「これって、この間アイオロスが森で一番高い木だって教えてくれたやつだろ?」
「たぶんそうみたい。」
「登ってみたら遠くが見えて気持ちいいだろうな♪」
「そうだけど、一番下の枝にも届かないし……」
「大きくなって黄金聖闘士になったら登れるかな?」
「大人が木登りするかな?」
カミュは首をかしげてしまう。 例えば、サガやアイオロスが木登りなんかするだろうか?
「う〜ん、わかんない。 でも、俺は絶対に登りたいな♪」
「あんな高いところから落ちたら死んじゃうからだめだよ!」
「大丈夫だよ、登るときには黄金聖闘士になってるんだから!」
自信ありげに言うところをみると、ミロが黄金聖闘士になって第一番にすることは木登りかもしれない、とこっそり思うカミュなのだ。

森を抜け海まで出ると、汐の匂いと打ち寄せる波の音が二人を夢中にさせた。 磯にはきれいな桃色の貝殻や宝貝が散らばっていていつまで集めていても飽きなかったし、、岩場の蟹はデスマスクを思い出させて二人を面白がらせた。
「もし私が蟹座だったら、ミロの蠍座と似ているから、もっと仲良くなれるかな?」
「え〜〜っ、だめだよ、そんなの!カミュには水瓶座が一番似合うんだから!蟹座じゃだめっ!」
「そうかな?」
「そうだよ!カミュは水瓶座の黄金聖闘士になって、俺は蠍座の黄金聖闘士になる! そう決まってるんだから、蟹座になっちゃだめっ!」
「ミロがそう言うのなら、水瓶座でいい…」
ちょっと頬を紅くしたカミュがもう一匹の蟹に気がついて岩場の端から身を乗り出したときだ。 重心をかけていた足元の岩が欠け落ちて、支えるもののなかったカミュの身体が前のめりに倒れた。
「あっ!!カミュっ!」
一瞬のことでやっと岩場に手をつき、頭を打つのはなんとかまぬがれたが、右膝にひどい痛みが走った。 慌てたミロに助けられながらそっと痛い膝を見てみると、運悪くぎざぎざの岩角にぶつけたらしく、子供の目にも傷が深くて血が流れ出しているのだ。
「たいへんっっ!どうしよう、こんなに血が出てっ!わっ、手のひらも怪我してる!」
痛みをこらえて歯を食いしばっているカミュの横で、さすがにミロが蒼ざめた。 目をそむけたくなるのを我慢して傷口をよく見てみると、奥の方に細かい岩のかけらが入り込んでいるのがわかるのだ。それもすぐに滲み出てくる血に隠されて見えなくなった。 ドキドキして思わず黙り込むと、カミュが小さな声で言った。
「海の水で洗ってみる…。」
「え? それ……沁みるかもしれないよ……」
「でも、こんなに血だらけだし、たぶん塩が消毒してくれるかも……。」
そっと助け起こして低い岩に腰掛けさせると、カミュがまず両手を伸ばして手首まで海につけた。
「……っ!」
「やっぱり沁みる?」
「うん、ちょっとだけ…でも、大丈夫だから。」
眉をひそめたカミュも、ミロが膝の傷にそっと海水をかけたときはそれだけではすまなかった。
「あっ……」
声を出すまいとしたのだろうが、あまりの痛さに思わずこぶしを握りしめてしまい、手のひらにまた血が滲む。
「カミュ、カミュ………ごめん……俺が海に誘わなきゃ、こんな怪我なんかしなかったのに……」
気が遠くなりそうな痛みを耐えさせたのは、隣で支えてくれるミロの手の暖かさだったかもしれない。
「そんなことない………ミロのせいじゃないから…こんな傷くらい平気だから…」
気丈に言ってはみるものの、ただでさえ白い頬がますます血の気をなくしているのは帰り道のことを考えたのかもしれない。 そして帰ってこない二人を案じるサガとアイオロスのことも。

西の空が夕焼けの色に染まり始めると、いつもはきれいだと思うその赤さが、まるで血の色に見えてきてミロにはつらいのだ。
「……歩けるかな?」
「ん……やってみる…」
ミロがシャツを脱いで膝にぐるぐると巻きつけて袖を縛って固定できたのは、小さい子供としては上出来だったろう。
カミュを支えながらなんとか立ち上がると、海岸の先に黒々と色をなくした森が見え、その先にある聖域の遠さが身に沁みてきた。
「俺に寄りかかっていいからね、休み休み行けばいいから!」
「ありがとう……がんばってみるから。」
一歩踏み出すごとに襲う痛みはカミュには初めて経験するもので、頭の芯に響くようだった。 耐えられない気がしてミロに声をかけようとしたときだ。
「ごめん…カミュ……ごめん………」
必死になってカミュを支えているミロの震える声が耳元で聞こえ、それがなんだか涙声のようでカミュをドキッとさせた。

   ミロ………ミロが泣いてる……?

「心配かけてごめん……こんなことになって、ミロに迷惑かけてごめん……」
二人して声を掛け合いながら森のふちまで来たところで、カミュが一歩も歩けなくなった。
「ちょっと痛くて……あの………休んだほうがいいと思う……」
たとえカミュが歩くと言っても、すでに夜の色に沈んだ森はとても子供の歩ける場所ではないのだった。
「そうだね……もう暗くなったから、この木の下で朝まで休んでいようか…」
手をかしてカミュを木の幹にもたれかからせながら隣に座るミロの声にも、いつもの元気はないのだ。 幸い暖かい季節でなんとか夜を過ごせそうだが今までの緊張がほぐれてみると、自分たちの置かれた状況がひしひしと身に迫ってくる。
「きっとサガとアイオロスが、俺たちのいないのに気付いて探しに来てくれるよ、それまで我慢できる?」
カミュをそっと覗き込むと、もう顔色も定かではないが、いつもの静かな声で、
「大丈夫。 だんだん痛くなくなってきたから。」
と答えが返ってきた。
それきり黙り小さい肩を寄せ合っていると、突然近くの木で鋭い鳥の鳴き声がした。
「あ…あれ、なんの声だろ?」
「さあ……わからない…」
潮騒の音がやけに大きくなって、それも二人をどきどきさせる。
「怒られるかな……みんなに心配かけて…」
「怒られるのは俺の役目だからね、俺が海に誘ったんだから!」
「でも、私も海を見たかったから。 だから一緒に怒られるから……」
「うん……」
「夜の森って初めてだよ、なんだか冒険してるみたいでどきどきするね。」
「うん……」
「一人だったら少し怖いかもしれないけど、ミロがいてくれるから大丈夫!」
「うん……」
「ミロ……元気出して…大丈夫だから」
「でも……カミュの怪我………きっと痕が残るよ…………そんなひどい怪我して……どうしよう…」
ミロは泣きたくなった。 今日までは傷一つなかったカミュにとんでもないことをしてしまったのだ。

   カミュ………こんなにこんなにきれいなのに……
   守ってやらなきゃいけなかったのに!

「たぶん大丈夫だよ。」
「……え?」
「聖域には、傷をきれいに治せる小宇宙をもつ聖闘士もいるってアフロディーテから聞いたことがあるもの。 きっと治るから、泣かないで、ミロ……」
「なっ、泣いてなんかいないもんっ!」
暗い中でミロがそっと涙をぬぐったようだった。

「ねえ………カミュはフランスに帰りたいの…?」
「そんな………そんなことはないけど……フランス語が聞きたい…」
聖域に来てからは慣れないギリシャ語を聞き取るのに気を使う毎日が続いている。 かなりわかってきたとはいえ、小さいカミュには緊張することなのだ。
「俺はギリシャ人だから楽してる………ごめんね、カミュ」
「ミロがあやまることなんかない。 アルデバランだっておんなじだもの。」
同年齢のシャカとムウは、カミュの目から見ても言葉にはそれほど苦労している様子はない。 この二人が生まれ持ったテレパシーの助けを借りて易々とコミュニケーションをとっていることまでは、今のカミュには知るよしもないのだ。
「大丈夫?寒くない?」
傷を巻くためにシャツを提供したミロのことが気にかかるのだろう。 カミュが声をかけると、肌着だけのミロが胸を張ったようだ。
「平気さ、男だからね!今日は俺がカミュを守らなきゃいけないんだから、寒くなんかないよ!」
「……守ってもらってるかな、やっぱり?」
「だって、怪我してるもの! 元気な俺が怪我したカミュを守るのは当り前!」
「ん……ありがとう…」
それきり話は途絶え、やがてカミュが先に眠りに落ちた。

   カミュの髪っていい匂い…♪
   こんなに近くに寄ったのは初めてだ

思わぬ事故と夜の森の気配がなかなかミロを眠らせてはくれないのだ。 こんなに近くで人と寄り添っているということも、ミロを興奮させていたのだろう。
やがて降りてきた夜露が、寄りかかっている木の幹や下草だけでなく、二人の髪を服を湿らせる頃にはミロも重いまぶたを閉じているのだった。

「こんなところにいた!」
教皇庁の会議が長引き、幼いものたちの安全確認をするのが普段より遅れたサガとアイオロスが二人の不在に気付いたのは夜中に近かった。
十二宮の中に二人の小宇宙が感じられないことがわかると、捜索の手は当然のことながら森を越えて海岸まで伸ばされたのである。
「おやおや、これは……!」
「なんとも可愛いものだ、引き離すのが可哀そうな気さえする」
「そんなことを言っている場合ではない。膝に怪我をしているようだ、かなり血が滲んでいるな。それで戻ってこられなかったのだろう。」
「そこで、ミロがカミュを守っているということか。」
微笑んで見下ろしていた二人の聖闘士は、そっと一人ずつを抱き上げると、一瞬で姿を消した。
ポケットからこぼれ落ちた幾つかの桜貝が夜露に濡れていった。



                  
ころんで怪我をして、森でお泊り。

                  たったこれでだけなのですが、長めになりました。
                  ミロ様が、丁寧に書いて欲しかったみたいです。

                  「俺たちの最初の触れ合いだからな、当然のことだ♪」
                  「触れ合いといっても年が小さすぎないか?」
                  「でも俺に萌芽はあるぜ!お前の方はよくわからんが。」
                  「膝が痛かったのはよく覚えている。」
                  「俺のことも覚えてて欲しいね、ほんとに心配したんだからな!」
                  「それはわかっている。」
                  「ところで…」
                  「え?」
                  「膝の傷跡、残ったりしてないだろうな?」
                  「なにをいまさら。 あの時に完全に……あ………ミロ!」
                  「物事は確認が大事だからな、ちょっと見せてもらおうか♪」
                  「しかし、そこは膝では……ミロ……あ…」
                  「いいからいいから♪♪」