西條 八十 作詞      「金糸雀」 より


   ………カミュが凍気を出せなくなったらしい

五日ぶりに戻って来た聖域で、そんな噂を俺に耳打ちしてくれたのはデスマスクだった。
血相を変えた俺は、すぐさま宝瓶宮へと駆け上がっていった。 重い扉を押すときに誰かの視線を感じたのは、きっとアフロディーテのものだったに違いない。 すぐ上の宮に住むこの魚座の聖闘士は、カミュが聖域に来たときからなにかと世話を焼いているのだ。 おそらく今度の変調にも心を痛めているのだろう。 もうあたりは暗くなってきていたが、自宮のベランダから視線を注いでいるらしかった。
そんなことが胸をかすめはしたが、ひんやりとした宮の空気を吸う頃には俺の頭の中はカミュの心配でいっぱいだった。

   どこだ? どこにいる……?

息をひそめているらしい微弱な小宇宙をたずねあぐねて、俺はしばらくホールに立っていた。 やがてかすかな気配をとらえて歩き出すと、高い天井に響く靴音が、妙に耳障りに感じられた。

   ……ここだ!

そっと寝室の扉を開けた。 ベッドには……いない。 灯りのついていない部屋は物の形もおぼろだったが、すぐに部屋の隅にうずくまる人影をとらえることができた。
「カミュ…」
心を波立たせないようにそっと呼びかけながら、近付いた。
膝をきつくかかえて顔を伏せているカミュの前に膝をつき、静かに髪に触れてみた。
「………どうした? 俺にも言えないことか?」
艶やかな髪に覆われた肩が小さく震え、重い吐息が漏れる。
「私は………」
低く抑えた声が聞き取りにくく、腰をかがめて耳を寄せた。
「……人殺し…」

   …え?

「そう云われたのだ…………人殺し…と……」
思わぬ言葉に、俺の心も凍りついた気がした。


カミュの遂行した任務については何も聞いてはいない。 親しくとも、洩らすべきでないことは互いによく知り尽くしている。
しかし、カミュの漏らしたその一言から俺はおおよその事情を理解した。
聖闘士ならば、好むと好まざるとに関わらず人の命を奪うことがある。 カミュにしてもそれは同じことで、俺のような血を見る技でないにしても、闘いにおいて生殺与奪の権を握っていることは間違いがない。
アテナのために、この地上を守るためにおのれの持てる力を使うことになれば、それもまたやむを得ぬ。 だが、心の底ではその行為を畏怖し、目を逸らしていたいのだ。 いったい誰が好んで人の命を奪うだろうか。
それがために、 俺たちは相手を 「 倒す 」 のだ。 「 殺す 」 などという殺伐とした言葉を使う者など、いはしない。 言葉で事実を糊塗している、と言われればその通りだが、そうでもしなければ心の平安は得られない。 俺たち聖闘士は、皆そうやっておのれを救っているとも云えるのだ。

闘いの場に身を置く者ならば、たとえ最後の瞬間になっても 「 人殺し 」 などという言葉を吐くものではない。 相手の力がまさっていた、ただそれだけのことなのだから。 「 殺される 」 のではない。 「 負けた 」 のだ。
おそらく、今度の場合は、まったくの第三者、一般の人間がどうした弾みかその瞬間を目撃し、恐怖に戦慄しながら叫んだのではなかったろうか?
その叫びに含まれていた剥き出しの恐怖と嫌悪感がそのままカミュの心を突き刺して、平常心を失わせたのではないのか?
理性と論理の具現者そのもののようなカミュも、おのれの生命を賭けた瀬戸際では生存本能と闘争本能に全てをゆだねるものだ。 敵を倒した刹那に耳に入った思いがけない言葉が外部からの巧まざる心理攻撃となり、理性と本能との境で危ういバランスを保っていた心の間隙を衝いたのに違いない。

「で………凍気が出せなくなったのか?」
顔を伏せたままのカミュが頷いた。
「もう三日になる……どうやっても…できない……」
「そんなはずはない! アクエリアスの凍気がお前を見放すはずはないのだ! 休めば、きっと凍気は戻る!」
肩を揺すぶり、膝をついた窮屈な姿勢で抱きしめた。 冷え切った身体がいとおしく、涙が滲む。
「こんなことで自分を追い込むんじゃない、カミュ………俺の大事なカミュ……」
手を引いて立ち上がらせ、ベッドに連れて行った。 カミュらしからぬ蹌踉とした足取りが痛ましく、俺の心臓もキリキリと締め付けられるようなのだ。 人形のように意思の感じられない身体をそっと横たえて、わななく唇に口付けた。
「カミュ………俺がわかる? お前をこよなくいとしいと思っている俺の心がわかる?」
絶え間なく呼びかけながら、これ以上はないというほどやさしく抱いたのに、カミュの反応は消えなんばかりに淡く、いつもにまして言葉数が少ないのだった。

夜が白々と明け初めるときカミュがポツリと呟いた。
「私はもう………黄金聖闘士の資格がない……」
「馬鹿を言うなっ! お前はいつでも最高の黄金だ、自信を持て!」
血相を変える俺に、カミュはゆるゆると首を振る。
「凍気の出せない私は、黄金どころか、ここでは無用の存在だ……もう十二宮には…聖域にはいられない。」
「早まるなっ! 俺と一緒に黄金聖闘士になって、アテナとともにこの地上を守ると言っただろう、あのときのお前はどこに行った?!」
はらはらとこぼれる涙を吸い取り、あらん限りの想いを込めて震える身体を抱きしめた。
「私も……ミロ………お前と一緒にいたい………この命の尽きるまで共にありたい……」
「それなら俺から離れるな! お前がいなくては生きていけない!!」
「でも……どうしておめおめとここにいられよう……生き恥をさらすようなものだ……」
血を吐くような言葉が耳を打つ。
たしかに、聖域に誉れ高き黄金聖衣をまとって十二宮の主となった身が、その立場を失ってここにとどまれようはずがない。

   黄金の誇りを失って、いったいどうして生きてゆけというのだ?
   もしも………もしも 俺がその立場だったら……
   最悪だ! 力を失って黄金の名を返上するなど、屈辱以外の何物でもない!
   そのくらいなら、闘いの中で命を落とすほうを選ぶだろう、生きながら別れるくらいならいっそのこと…!

「言うな、カミュ! 俺にそんな言葉を聞かせるな!俺たちは誇り高い黄金なのだ!」
恐ろしい予感に胸がつぶれる思いで、俺はカミュをかきいだく。 いつもならしなやかに俺を抱き返してくれる手が、力なく抱かれるままになっているのが俺の不安を助長する。
「この宝瓶宮も、私のものではなくなってゆく……もう、ミロとも過ごせない……」
呟くような声がいかにも淋しげで、今にもカミュが手の中から消えてしまいそうな気がした俺は、ぎりぎりと唇を噛んだ。
「しかし……ここを出ていったいどこに行くというんだ!」
聞いてはいけなかったかもしれなかった。
フランスに行く当てがあるはずはない。 今まで一度として、カミュが もといたフランスのことを懐かしそうに話したことはないのだ。
蒼ざめてうつむいているカミュに俺は夢中で叫んだ。
「それなら、トラキアに、俺の村に行け! 俺から従兄弟達に頼むから! 毎晩、逢いに行くから!」
そんなことをカミュが承諾するはずもないのに、ましてや、カミュが黄金でなくなることを認める気などさらさらないのに、行く先のないカミュがいとおしくてそんなことを俺は口走っていた。
「カミュ……カミュ………頼む、黄金でいてくれ!俺のためにも、あのアクエリアスの 冴えわたる凍気を取り戻せ!」
気がついたときには泣いていた。 腕の中にいるカミュがいとしくて、震える身体が切なくて、俺はやさしく 激しくカミュを抱いた。
「ミロ、ミロ………どうしてよいのかわからない………ミロ………私を…助けて………」
俺が来るまで、宝瓶宮の闇の中で三日三晩独りで過ごしたカミュは、そのとき初めて涙を流して嗚咽した。
身も世もなく嘆き悲しむカミュが哀れでならず、俺は狂ったように口付けていった。


泣き疲れて眠りに落ちたカミュを抱きながら俺は一つの決意を固めていた。 いつまでも嘆いてばかりはいられない。 今必要なのは、行動することなのだ。
そのまま腕の中のカミュが目覚めるのを待ち、やっと身じろいだところで、やさしく額に口付ける。
「用意して。 これからシベリアに行く。」
「……え? なぜ、シベリアに?」
「お前を探しに行くんだよ。」
それ以上はなにも言わずに手早く身支度を整えると、小宇宙の不安定なカミュをかかえて一気にシベリアに飛ぶ。
強烈な寒気に身を包まれ、一気に肺に乾いた冷気が流れ込む。 真夜中の氷の大地は青白い月の光を受けて冴え冴えとした色を見せていた。
「ここがお前を育てた土地だ。 アクエリアスのカミュの原点はここにある。」
俺の目的がわからなくていぶかしげなカミュの手を引きながら氷の大地を北に向かうと、紺青の海が見えてきた。 ゆったりとうねる海面は足元の凍てついた大地を音もなく洗い、ときおり銀の光を反射する。
5メートルほど下の暗い海面を見下ろすぎりぎりのふちに立ち、戸惑うカミュを抱き寄せた。
「俺のこと、愛してる?」
「なにを今さら分かりきったことを……」
「もう一度、聞こう。 俺のことを愛してる…?」
「もちろんだ、お前を愛している。」
再度の問いかけに答えながらなにか言おうとしたカミュを軽く制して、花の唇にキスを贈る。冷たい唇は、しかし、甘くやさしい感触で俺を迎えてくれた。
「では、俺を救ってくれ。」
「……え?」
抱きしめていたカミュを離した俺は、ジャケットを脱ぎ捨てると暗い海面に横ざまに身を躍らせた。 カミュが大きく目を見開き、俺の名を叫ぶのが聞こえた。

転瞬、あたりが鮮烈な銀白色に輝いた。 身体に触れるはずの海面が大きく左右に割れて後退し、垂直の表面が見る間に氷結してゆくのを、俺は頭から落ちながら不思議なものを見る思いで眺めていたのを覚えている。 青味を帯びた白い氷の壁がピシピシと鋭い音を立ててその厚さを増してゆき、差し込む月の光に照らされたその光景に瞬時見惚れた俺を掴んだのはカミュの手だった。 俺が身を躍らせたとき、間髪を入れず凍てついた大地を蹴ったカミュは、海を割り裂き、恐るべき速度でそれを凍結させながら俺を抱きかかえると、二人ながら奈落の底へと落ちていったのだ。

   お前と一緒なら どこまででも落ちていこう……

カミュにひしと抱かれながら、氷の裂け目から見える暗い夜空に輝く月がちらと目に映った瞬間、俺たちは地上に移動していた。 テレポートの衝撃でしたたかに肩を打ち、思わず低く呻いた俺の顔をカミュが覗き込む。
「ミロ、無事か?」
「ああ………軽い打ち身だけで…」
みなまで言わぬうちにカミュが口付けてきた。 むさぼるように俺の唇を吸い、両手を俺の髪lに差し入れて切なげに金の流れを指で梳く。 氷の褥の冷たさも厭わずに身を揉み込むようにすがりついてくるカミュを抱きしめていったとき、視界の隅になおも凄まじい速度で氷結してゆく海が見えた。
こうして、アクエリアスのカミュは鮮烈な復活を果したのだ。





              
「それでも私が凍気を出すことができなければ、北極海に落ちて数秒で心臓が止まっていただろう。
               あまりに危険すぎる!」
              「でも、お前は凍気を発してくれたし、ちゃんと俺を助けてくれた。 なんの問題もないね。」
              「もしあの時お前が逝ってしまったら、残された私がどれほど苦しむか考えなかったのか?」
              「そんなことは考えなかった。」
              「なに……?!」
              「アクエリアスのカミュは必ず俺を助けてくれる。 そう信じていたから、そんなことは思わなかったのさ。」
              「ミロ……」
              「さあ、そんなことはいいから、こっちに来て、早く俺に抱かれてくれ!
               氷の褥も悪くはないが、やはり宝瓶宮の寝室が好みだな♪」
              「ミロ……」
              頬を染め、嬉しい予感に身を震わせながらカミュはいとしい者の胸にいだかれる。
              「俺たちは黄金であり続けよう……地上のために、お互いのために………
               カミュ………こんなに、こんなに愛してる……」
              歓びの口付けが交わされ、耐えかねて漏れる吐息はどこまでも甘いのだ。

              ほんの一瞬 部屋に薔薇の香りが立ち込めたように思ったミロが、ふっとアフロディーテのことを思ったのは
              包んでも包みきれずに、わずかに洩れた気配が隣宮へも伝わったせいかもしれぬ。
              高ぶった気のせいだったのか、それとも、アフロディーテからの贈り物だったのか………
              判然とせぬまま、ミロは再びカミュを抱きしめていった。


唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は  後ろの山に棄てましょか  
いえいえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は  象牙の船に銀の櫂(かい)
月夜の海に浮かべれば  忘れた唄を思い出す