「わぁっ! 暖かいっ!」
「ほぅ! まだ火が落ちていなかったとは!」
あとになって思えばそのことに不審を覚えるべきだったのだ。 暖炉にくべた薪がどの程度持つかなどとうの昔に熟知していた筈なのに、外から帰ってきたときの部屋の暖かさにほっとして判断を誤ったのは私のミスとしか言いようがない。
しいて理由を挙げれば、訓練中から明日のミロの来訪の件が頭の隅にあって、いざ帰宅したときにはそのことで頭が一杯で目の前にあるものがなにを意味するかに気付かなかったのだといえよう。
いずれにしても私のミスには違いない。 責められるべきは私なのだ。
そのまま暖炉の前で暖まり夕食の用意をいつも通りに終えてテーブルを囲んでいる間もミロはクレバスの底に身を置いて厳しい寒気に晒されていたのだと思うと申し訳なさに身がすくむ。
「さあ、そろそろ寝なさい。 明日を楽しみに。」
「はぁ〜い!」
私の頬にキスをした二人が出て行き、一日の疲れを覚えた私は椅子に掛けたまま目を閉じた。
今日の訓練のことを思い返して明日のカリキュラムを心の中で確認していると、ミロの来訪でおそらく予定が変わることに思い当たり苦笑する。
ミロが来るとアイザックも氷河もはしゃいでしまってとても訓練にならないのだ。
明日はどうしたものか?
ミロを交えて遠征し、海を見に行くか
それともミロと私の組み手を見せて、自分たちが目指すべき目標を明示すべきか?
あれかこれかと楽しく考えていると突然ドアが開いてアイザックが飛び込んできた。
「先生、すぐ来て下さい! ミロの荷物らしいものがあります!」
咄嗟になにを言われているかわからなかったのだが、客用寝室に行ってみてその意味がわかった。
「たしかにこれはミロの荷物だ。」
「でもどこにいるの?」
「荷物を置いてから帰ったのかな? どうして?」
荷物だけあってミロがいない!
ここに荷物を置いてから何時間たっているだろう?
恐ろしい事実を突きつけられて心臓が縮み、頭の芯が冷えてくる。 膝が震えてくるのをやっとの思いで抑えこむ。
「私たちの留守中にやってきてそれから外に行き……迷ったのかもしれない。」
「えっ!」
「もう夜だよ、凍えちゃうよ!」
小さい彼らにもむろんその意味はわかるのだ。 ミロの明るい笑顔に死の影が差し、生気に満ちた身体が凍りつく。
「私が探しに行ってくる。 二人はここで待っていなさい。」
「僕たちも行っちゃだめですか!」
必死にすがりつく二人は少しでも手を貸したいのだろうが、小宇宙を察知することもテレポートもできないのではミロを探すことはおろか、無事にここに戻ってくることすら覚束ないだろう。
「気持ちはありがたいが遭難者が増えるだけだ。 必ず戻ってくるから暖炉の火を絶やさずに待つように。」
「はいっ!」
こういう危急存亡のときに聞き分けがいいのはありがたい。 一分一秒を争うときに、連れて行くの連れて行けないのという押し問答をしている暇はないからだ。
二人に言い含めて外に出ると満天の星が降るようだが鑑賞している暇はない。
念のためにミロの小宇宙を探ってこの近くにはいないことを確認すると私はミロ探しの旅に出た。
私たちが夕方帰ってきた方角は計算に入れないで残りの方向を見落としのないように逐一探さねばならず、それにはどれほど時間のかかることだろう。 すぐに発見できればいいが、時間が経てば経つほどミロは死に近付いてゆく。
いや、今このときにもミロの命は尽きようとしているかもしれないのだ。 道に迷ったとは思えない。
それならとっくの昔に私に危急を伝えることが出来ている筈だ。 それがないのは意識がないためだと思われた。
クレバスに落ちたに違いない!
過去に同じようなことで命を失った幼い弟子達の顔が脳裏に浮ぶ。 発見したときはすでに遅く、手足を縮めて冷たく凍えた身体を抱き上げたときの張り裂けそうな胸の痛みが再び襲ってきた。
そのときの恐怖と哀惜を忘れることは到底できないのだ。
どこだっ、どこにいる? ミロ!!
きっと生きている!
死なせるものか、ミロを死なせてなるものか!
微弱な小宇宙を見落とさぬよう慎重に、しかし可能な限りの速さで捜したがそれでもミロは見つからない。さすがに焦りの色が濃くなったとき、ついに私は弱々しい小宇宙をつかまえた。
いたっ!!
わずかな口を開けているクレバスを覗き込んだが奥の方は暗くて何も見えぬ。
即座に手を差し伸べて小宇宙を発光させると氷壁が青白く輝き、ほんのわずかな隙間からミロの金髪が見えた。
すぐさま邪魔な氷塊を昇華させミロを地上に救い出す。 ひどく冷たくて血の気がない。
固く目を閉じたミロは私の腕の中で今にも息絶えようとしているのだ。
「あっ、先生!」
「ミロはっ、ミロは大丈夫?!」
いきなり居間にテレポートすると二人の子供が駆け寄ってきた。 この子達もどんなに心配しているだろう。
「大丈夫だ、きっと助けてみせる!」
信念だけで根拠がないというのが我ながら悔しかったが、今はそれだけ言っておいて、ありったけの毛布を持ってこさせて暖炉の前の床に敷き冷たいミロを横たえた。
「小宇宙でミロの身体を温める。 お前たちは暖炉の火を絶やさぬようにしてくれれば良い。 すまぬが交代で起きていて火の番をして欲しい。」
「はいっ、なんでもしますから!」
「俺たちもとても寝てられません!」
食い入るような視線を感じながらミロの傍らに横になり、すぐに腋下と鼠径部に手をかざして小宇宙を送る。
急がずに、しかし着実にミロの血液を温めるのだ。
「私はずっと起きている。 ミロが目覚めるのは早くても明日の朝になるだろう。
そのときには暖かいものを飲ませたいのでそれも頼む。」
「はいっ!」
私の姿勢がつらそうだと気付いたアイザックが枕を持ってきた。
「先生、枕を。」
この子は兄弟子だけあって気が利くのだが、このときにはそんなことも意識になくて機械的に頭を上げた。
「ありがとう。 ミロは動かさぬ方がいいので私だけ使わせてもらおう。」
長い髪をそっと直してもらったときになって、やっとアイザックのしてくれたことだと心を掠めただけだ。
「ミロ………助かるよね?」
「助かるよ、きっと! 先生は絶対にミロを助けるに決まってる! 俺たちが冷たい海に落ちて息が止まりそうになったときも何度も助けてくれたもの! きっと大丈夫だよ!」
「うん!」
二人のささやき声が背後から聞こえたが、もう私はミロの顔から目を離すことが出来ないのだ。
快活に笑っていたミロが今は冷たく凍りつく寸前でいることがたとえようもなくつらい。
思えばギリシャに来たときに右も左もわからなくて困っている私のことをいつも気に掛けてくれたのはミロだ。
サガもアイオリアもやさしく導いてくれたがいつもそばにいてくれることは不可能で、その隙間を埋めてくれたのはミロなのだ。
小さい頃のミロが目に浮ぶ。 私を見つけて駆け寄ってくるミロ。 ギリシャの古い歌を聴かせてくれるミロ。
甘い菓子をもらったから半分に分けようと私を誘ってくれるミロ。
涙が出てきた。 なぜかしら涙が流れて止まらない。 今はそんなことを考えている場合ではなくてミロの体温や呼吸数や脈拍のことを最大洩らさず把握しなければならないのに涙が流れて止まらない。
ミロ………ミロがいなくてはだめだ………………一人ではやっていけない
ミロが私を支え、私はミロに支えられて生きてきたのだ
「大丈夫だよね、絶対に大丈夫だよね………」
「大丈夫だよ、ミロがいなきゃ先生が泣くから………絶対に先生が助けるから……絶対に大丈夫だよ…」
私がすでに泣いていることにも気付かずにいる子供達が声をひそめて話をしているのが聞こえてきた。
明け方近くになるとミロの身体に徐々に温かさが戻ってきた。 まだまだ予断は許さないが、この分なら命を落とすことはないだろう。
ここまでくればまずは安心で、緊張もゆるんでくるというものだ。 一晩中起きていて薪を足してくれた二人もミロの顔色を見て安心したのかとろとろとまどろんでいるらしい。
こんなにミロと身体を寄せて横になっていたことなど初めてで、私は改めてミロの整った顔立ちを間近で眺めることになった。
長いまつげやととのった鼻梁、赤味のさした唇を見ているうちになんだか妙な気分になってきた。 なぜかミロの金髪に触ってみたくなったのである。
子供の頃からミロは羨ましいほど美しく輝く金髪で黒髪の私はどれほど憧れたかわからない。
日の光を浴びて誰よりも輝く金の髪にさわりたかったがそんなことを言う勇気もないままにギリシャとシベリアに別れることになったのだ。
今ならさわれるだろうか………子供達も気付かないだろうし、ミロもまだまだ目覚めない
きっととてもしなやかで艶めいて気持ちが良いに違いない
手を伸ばすのは勇気が要った。 気配を後ろの子供達に気付かれたらどうしよう。 幾つもの言い訳を考えながら何度も何度もためらったのちについに私はそれに触れた。
豊かに流れる金髪の一房をそっとすくい上げさらさらと落としてみた。 思ったよりもしなやかで柔らかくてそれはまるでミロの心のようで。
きれいな金の流れが手から離れたのが惜しくてもう一度手に取った。 そのときどうしたわけか、私はそれに唇を押し当てたくなったのだ。
………え? なぜ?
どうしてそんなことを考えている?
今まで思ったこともなかった衝動に軽い驚きを覚え、少しの間ためらった。 薪のはぜる音を聞きながら理性と感情がせめぎ合い、次の瞬間私の唇は金の流れをとらえていた。
早く決断しなければ再びミロの身体が冷え始めるかもしれぬと不安を覚えたせいだ。
そうだ、そう思ったから私は急がなければならなかったのだ。
いったん口付けてしまうと不思議なほどに心が安らいだ。 ミロの身体には一指も触れていないが、ミロの輝く髪は私のものだという意識が湧いてきた。
そっと頭をもたげてミロの髪を少しばかり敷きこんだ。 頬を乗せるとさらさらとした感触がこころよい。
このくらいなら子供達にも気付かれないだろうと思う。
夜が明ける頃には呼吸も拍動もなにも心配が要らなくなった。 ほんとはもう一人で寝かせておいておいてもいいのだけれど、私はミロと一緒にいることを選んだ。
ほんのわずかの間も離れたくなかったのだ。
実のところは抱き締めたかった。 この手で抱きしめてミロに温かさが戻ったことを確かめたくてしかたがなかったのだが、子供達の目が気になって果せない。
抱き締めたらどんな気がするのだろう?
きっと温かくて………そして、たくましいのかもしれない………ミロは私よりたぶん胸が厚いと思うから
そんなことを考えていたらどきどきとして顔が赤くなったのが自分でもわかる。
ミロにさわりたい気持ちが抑えきれなくて、せめてその代償を求め、枕に敷いた金の髪に私は唇を押し当てていった。
そんなふうにして眠るミロとの時間を十二分に楽しんでいると、ついにその時がやってきた。
ミロが目覚めたのである。
「ミロ……大丈夫か?」
「カミュ……俺………どうして…」
たとえようもなくきれいな青い目が私を見たとたん、アイザックと氷河が駆け寄ってきて毛布の上からミロにしがみついた。
「やった〜〜!!」
「生きてたっ! 先生っ、よかった!!」
このわずかなチャンスを逃してはならない。 私も子供達の真似をしてミロの首に手を回して少し乱れた前髪に口付けたのだ。 昂奮した子供達に気を取られているミロはたいして気がつかなかったことと思う。
みんなが揃った楽しい夕食のあとでミロがたくさんのプレゼントを披露した。
「先生っ、すごいです! ふっかふかだ〜!!寝るのが楽しみ〜♪」
最後にミロが得意げに出して見せたのはメリノ羊の敷き毛布だった。 子供たちが喜ぶのも無理はない。抱きかかえて頬を押し当てるとなんともいえぬこころよい暖かさが身体中にじんわりと沁みてくる気がする逸品だ。
「しまった!惜しいことをした!」
「どうした?」
「だってさ、昨日これを使ってればもっと早く身体が温まってお前の負担も減ったに違いない!
先に教えておけばよかったな!」
「ミロ、それは理屈が…」
そんなことができるくらいならお前は一人で出かけてクレバスに落ちたりしていないだろう、と言いかけたがミロの目が冗談だよと言っているのに気がついた。
「では次にお前が落ちたときにはこれを敷いて待っている。」
「ああ、よろしく頼む! それとお前の添い寝付きね! ダブルケアで最高の目覚めが保障される♪」
添い寝だなどと言われて頬が熱くなる。 そんなつもりではないのに、でも私はミロにさわりたくなっていて、それはとても恥ずかしいことで。
軽度の低体温症なら最初から抱き締められる
もしミロを発見するのがもっと早かったとしたら………
明るい笑い声が響き、私の秘めた思いは誰にも知られずに済んだ。
「誕生日を祝いにきたのにかえって迷惑をかけた。 今後は一人で散歩なんかしないことを誓う。」
「慣れているものでも危険な土地だ。 ここの周辺は毎日見回っているが遠くまではとても目が届かない。」
「ああ、今回は身に滲みたよ、ここの危険性もお前の暖かさもね。」
目くばせをするミロは気軽に冗談を言うが、私は思わずたじろいでしまう。 心の中を見透かされたらミロはあきれてしまうだろう。
「ああ、ほんとに暖かいぜ! こいつはいい! お前も昨日みたいに一緒に寝てみないか?」
ベッドにもぐりこんだミロが羊毛の敷き毛布に感嘆の声を上げた。
カッと頭に血が上る。 こんなふわふわの毛布にミロと一緒に寝たら私は自分が抑えきれないに違いない。
きっと、きっと私は………。
私の頭の中に世にも恥ずかしい光景が浮び、部屋の灯りがほの暗いランプ一つであることにどれほど感謝したかわからない。 やっとの思いで声を抑えて返事ができた。
「それは遠慮する。」
「じゃあ、次に落ちたときね♪」
「それも願い下げだ。」
「冷たいんだな。」
「私は凍気の聖闘士だから。」
そうではない! ミロに冷たいと思われたくない!
私は………私は………………
でも、この私にほかになんと返事ができるだろう?
「明日の朝はイチゴのタルトにしよう。 一日遅れで誕生日を祝ってやるぜ。」
「ああ、楽しみにしている。 ではお休み。」
「お休み。」
子供達が私にするように頬に口付けを受けたら、いったいどんな気持ちがするのだろう。
きっと柔らかくて暖かくて心が浮き立つに違いない。
あるはずのない夢を胸の奥に封じ込めた私はドアを静かに閉めた。
実にこのときにカミュ様の恋は芽生えたのでした。
ミロ様の買った敷き毛布は通○生活のホワイトクラウドだったりして。
4枚も買ったら上得意様ですね。
寒冷地では本気で役に立ちそうです。