恋人よ そばにいて  こごえる私のそばにいてよ
       そしてひとこと この別れ話が冗談だよと笑ってほしい

                                            作詞作曲 : 五輪 まゆみ   「 恋人よ 」 より


「あれ?」
凄まじい寒気と横なぐりの雪の真っ只中に降り立った瞬間 息を止め、目の前に見えた小さな住居に駆け込んだミロが拍子抜けした声を上げた。
カミュの気配もなければアイザックと氷河もいはしない。 ここに比べれば穏やかといっていいギリシャから瞬時に跳んできた身にはシベリアの気候はきつすぎて、小宇宙を探る暇もなくドアを開けて飛び込んだのだ。
「訓練中かな。」
もうじき夕方になる頃を狙ってやって来たのだが少し早すぎたらしい。 とはいえカミュたちの訓練が十数キロ離れたところまで遠征して行われることさえあるのを知っているのであえて迎えに行こうとは思わない。 だいいちそれだけの遠距離では小宇宙をさぐることさえ不可能で方向すらつかめないのだ。
当初の予定では明日のカミュの誕生日に来る筈だったのだが、ちょっとした悪戯心を起こして前日に突然やってきたのだから三人がいなくてもこれはしかたがない。 自分のための部屋を覗くと明日の到着に備えてすっかり整えられているのがよくわかり、カミュの気持ちが感じられるのも嬉しいものだ。
山のように持ってきた荷物を部屋の隅に置いてから居間に戻ると暖炉の火が今にも消えそうになっている。 じきに帰ってくるに違いない三人の喜ぶ顔を思い浮かべたミロは消えかけていた暖炉に薪を足すと十分に炎を上げるのを見届けてから外に出た。
さっきまでの雪が嘘のようにやんでいて、空の半ばには早くも星が輝き始め、きりきりとした寒さがミロを包む。 あまりに空気が乾燥しているので吐いた息に含まれている水蒸気があっという間に凍りつきごく小さな氷の粒の集合体となって空中に浮ぶ。 それが弱まった風に乗って風下に運ばれていくのは珍しい光景だ。
「こいつは面白い! ちょっと試してみるか!」
少し間隔をあけながら 「カミュ 」 「カミュ 」 と次々と息を吐いていくとまるでミロの思いが形になって連なり首飾りのように長くなって浮んでいるようでなんとも愉快なのだ。
「声が形になるとしたらこれがそうかもしれないな。」
くすくす笑ったミロがあたりを見回した。 目が痛くなるほど純白の世界で、色のあるものといえばいま出てきたばかりの住まいだけである。
「迷子になったら終わりだな。 まあ、あの住まいが見えている限りは問題あるまい。」
滅多に経験できない白い世界を楽しみたくなったミロが歩き始めた 。 積ったばかりの雪が早くも凍り始めていてサクサクとしたその感触はこの土地では珍しい。 振り返ると自分のつけた足跡が真っ直ぐに続いている。 
「これなら帰るのも簡単だ。」
頷いたミロがどんどん歩き出だした。

「わぁっ! 暖かいっ!」
「ほぅ! まだ火が落ちていなかったとは!」
カミュたちが帰ってきたのはそれからまもなくのことだ。 氷のような、いや、氷より冷たい外気にかじかんだ手を暖炉にかざして暖めるのはなによりのご馳走だ。
「先生、明日はお客様が来るんでしょ!」
「お土産たくさん持ってきてくれるんですよね!」
目を輝かせたアイザックと氷河がカミュを取り囲む。
「ああ、そうだ。 それに備えて明日は朝から大掃除をする。 」
「もうすっかり終わってるのに?」
「仕上げにもう一度だ。」
「念には念を入れ、ってことですね。」
年上のアイザックが心得たように頷いた。
身体が温まったところで遅めの夕食を用意して明日の楽しみを話しながら三人で食卓を囲む。
「チョコレートもあるかな? 去年 お願いしたけれど。」
「きっと大丈夫だよ。 ケーキも飴もクッキーも!」
「歯ブラシと練り歯磨きは私が頼んでおいた。」
笑い声が弾み賑やかな夕食が終わると後片付けだ。 三人で手分けすれば何でも早い。
「さあ、そろそろ寝なさい。 明日を楽しみに。」
「はぁ〜い!」
カミュの頬にキスをした二人が出て行った。

「ねえ、お客様の部屋に行ってみよう!」
提案したのは氷河だ。 ミロが来る予定が知らされてすぐに寝室を整えた二人はその日が待ち遠しくて日に何度も何度も覗いてはミロの来訪を心待ちにしているのだ。
「ここじゃ花は手に入らないけど、きっとミロが持ってきてくれるからそれを花瓶に飾ればこの部屋は完璧だな。」
得意そうにいったアイザックがドアを開けた。 暖房こそしていなくて室温は零度に近いが明日には暖炉に火をいれる。
中に入って嬉しそうに見回した氷河が 「あれっ?」 と言ったのはそのときだ。
「どうしてここに荷物があるんだろう?」
「え?」
アイザックが振り向くとたしかに部屋の隅に一抱えもある荷物の山があり、きれいな花束やいかにもお菓子の包みとしか思えない色鮮やかな箱が目に飛び込んできた。
「これって……もしかしてミロの荷物?」
「だってどこにもいないのに?」
「先生を呼んでくる!」
アイザックが駆け出した。

「たしかにこれはミロの荷物だ。」
「でもどこにいるの?」
「荷物を置いてから帰ったのかな? どうして?」
小さい弟子をまといつかせながらカミュの胸に不安が湧き上がる。
「私たちの留守中にやってきてそれから外に行き……迷ったのかもしれない。」
「えっ!」
「もう夜だよ、凍えちゃうよ!」
この土地の夜の寒さは想像を絶する。 あらかじめ寒さを想定している夜間訓練ならまだしも、戻ってくるつもりのミロが姿を見せないということはなにかアクシデントがあったということで、それはすなわち生命の危機に直結する。
「私が探しに行ってくる。 二人はここで待っていなさい。」
「僕たちも行っちゃだめですか!」
「気持ちはありがたいが遭難者が増えるだけだ。 必ず戻ってくるから暖炉の火を絶やさずに待つように。」
「はいっ!」
そうしてカミュが出て行った。
「大丈夫かな、黄金聖闘士でも道に迷うのかな……」
「ブリザードになると1メートル先も見えやしない。 そうなったら方向なんてまったくわからないもの……」
暖炉の炎の色が二人の頬を照らす。
「もし………もし見つからなかったら先生 泣いちゃうよ……」
「だめだよ、そんなこと言うなよ!………俺だって……泣きたくなるじゃないか!」
そう言ったそばから言葉が震えあとは二人して流れる涙をぬぐうしか出来ないのだ。 薪のはぜる音が響いた。

降り出していた雪が足跡を隠してしまい、ミロが向った方向はわからない。 誰もいないところで待っているのも退屈だと外歩きに出かけたのだとすると、そんなに遠くには行かない筈だ。

   この寒さではそう長く外にいられるはずもないが、帰ってこなかったということは………

道に迷うといってもそれほどこの土地に慣れていないミロがそんなに遠くまで行く筈もなく、もっともありそうなのはクレバスに落ち込むことだ。
見えているクレバスに落ちるものはいない。 危険なのは裂け目の狭いクレバスに雪がかぶさって一見したところ普通の氷原と区別がつかなくなっている場合だ。 
気温はマイナス40度を下回る。 いくら防寒着を着ていてもそれは普通に活動しているときのためのものだ。 動けない状態で一晩そんな寒気に晒されたらとても無事ではすまないだろう。
効率を上げるためにカミュはテレポートを繰り返しながら捜索の範囲を広げていった。 生きてさえいれば微弱とはいえ必ず小宇宙をとらえることが出来る筈なのだ。

   どこだっ、どこにいる? ミロ!!

思いがけず遠くまで来て焦りの色が濃くなったとき、ついにカミュは弱々しい小宇宙をつかまえた。

   いたっ!!

そこは人一人がやっと通れるようなわずかな口を開けているクレバスで積もった雪が早くも裂け目を閉ざそうとしているのだ。 中を覗き込んだがなにも見えはしない。 手を差し伸べて小宇宙を発光させると氷壁が青白く光を吸い込んで鈍く輝いた。 目をこらしてみると、5メートルほど下の隙間にわずかに金髪が見えてカミュをぞっとさせた。 裂け目がカーブを描いていてミロの体勢はわからない。 何時間もこの状態でいるミロに呼びかけても返事のあるはずもなくカミュはもっとも即効性のある手段を取ることにした。 両手をかざしクレバスの上辺の氷を昇華させ始めるのはカミュにとってさして難しいことではない。 固体からいきなり気体と化した水分は厳しい寒気により即座に雪に変わるが降ろうとするそばから拳圧で横に撥ね飛ばしていくと一分もしないうちにミロの姿がクレバスの底に見えて来た。 手足を投げ出して横たわるミロのすぐそばにはさらに深い裂け目があり、よくも落ちなかったものだとカミュをぞくっとさせた。 唯一露出している顔は幸いなことに氷に触れてはいなかったがとても安心できる状況ではない。
「ミロっ!!」
即座にその場までテレポートしこれ以上はないというほど冷えた身体を抱きかかえると、瞬間的に元の地表に戻る。 たしかに生きてはいるがひどく体温が下がっているのがカミュを恐怖させた。

「あっ、先生!」
「ミロはっ、ミロは大丈夫?!」
いきなり居間にテレポートしてきたカミュが抱えているミロの顔色が紙のように白く、二人を怖れさせた。
「大丈夫だ、きっと助けてみせる!」
ありったけの毛布を持ってこさせ、そのうちの数枚を床に敷かせると二人に手伝わせてそっとジャケットを脱がせてから冷たい身体を横たえた。 ブーツを脱がせ衣服を緩める間もミロは身動き一つしない。
「小宇宙でミロの身体を温める。 お前たちは暖炉の火を絶やさぬようにしてくれれば良い。 すまぬが交代で起きていて火の番をして欲しい。」
「はいっ、なんでもしますから!」
「俺たちもとても寝てられません!」
息を飲んで見守る中でカミュがミロの横で添い寝の形をとり毛布をかけた。
軽度の低体温症ならどんな温め方をしてもいいが、発見が遅れたミロの場合はそうはいかぬ。 ちょっとした刺激で不整脈を起こす可能性があり身体を動かすこともできないし、抱きしめて温めることも厳禁だ。 急激に体表面を温めると体表面の血管が最初に拡張し再加温ショックが起こりやすく、また抹消血管内の冷たい血液が身体の中枢に流れ込むためかえって深部の体温が下がってしまうことになる。
ゆえにカミュ自身はミロの身体に触れてはいない。 これからミロの四肢の付け根に手をかざして小宇宙を送り込み、静脈の血を温めてゆっくりと身体の中から体温を上げていかねばならぬのだ。
「私はずっと起きている。 ミロが目覚めるのは早くても明日の朝になるだろう。 そのときには暖かいものを飲ませたいのでそれも頼む。」
「はいっ!」
すでに小宇宙を使い始めているカミュの姿勢がつらそうだと気付いたアイザックが枕を持ってきた。
「ありがとう。 ミロは動かさぬ方がいいので私だけ使わせてもらおう。」
カミュが頭を持上げたすきに枕を差し入れて長い髪をそっと直してやると、あとは小さい二人にはなにもやることがない。
二人して残った毛布にくるまってじっとカミュとミロを見ているしかないのだ。
「ミロ………助かるよね?」
「助かるよ、きっと! 先生は絶対にミロを助けるに決まってる! 俺たちが冷たい海に落ちて息が止まりそうになったときも何度も助けてくれたもの! きっと大丈夫だよ!」
「うん!」
青白い顔をわずかにカミュのほうに向けたミロは生気がなくて暖炉の火が明るい色を投げかけるときだけ頬が薔薇色に染まったように見える。 炎の色が加わってさらに鮮やかに輝く金髪だけが以前通りのミロを思わせた。 カミュはそのミロを見つめたままで視線をそらすことがない。 死の縁からミロを取り戻そうとしているカミュの必死な姿が小さい二人の心に響く。
「大丈夫だよね、絶対に大丈夫だよね………」
「大丈夫だよ、ミロがいなきゃ先生が泣くから………絶対に先生が助けるから……絶対に大丈夫だよ…」
いつしか二人の手が毛布の下で握り合わされた。
長い長い夜が始まった。


ミロが目覚めたのは翌日の昼近くだ。
あんなに冷え切っていた身体もすっかり温まり、すぐそばに寄り添って目覚めるのをじっと待っていたカミュはミロのまぶたが動くのを見た。
胸の詰まる思いがしてかすれた声で名を呼ぶとうっすらと目を開けてカミュを見たのだ。 ミロの青い目がこれほどきれいだと思ったことはない。
「ミロ……大丈夫か?」
「カミュ……俺………どうして…」
そのとたんアイザックと氷河が駆け寄ってきて毛布の上からミロにしがみついた。
「やった〜〜!!」
「生きてたっ! 先生っ、よかった!!」
泣き笑いしている子供の声と重さに唖然としながらミロが見たカミュも涙を流して笑っていた。

その日は暖かいスープとパン粥がミロのご馳走で、せっかくのカミュの誕生日だというのに全員が同じ献立を食べることになった。
「俺にはかまわずもっと美味いものを食べてくれないか。 これではカミュの誕生日が台無しだ。」
「ミロが元気になったのが何よりのご馳走だ。 そんなことを気にすることはない。」
ニコニコしているアイザックと氷河もパン粥のおかわりをしてちっとも不満そうではないのだ。
まだ本調子ではないということでソファーで寝たり起きたりを繰り返すことになったが文句を言う筋合いではない。
アイザックと氷河は飽きることなくミロの顔を見に来ては嬉しそうにしてなにくれとなく世話をしたがった。
「ほんとにもう大丈夫だから。」
ミロがいくら言っても、
「だめです。 まだまだ安静が必要だって先生が言ってましたから。 」
これだけは譲れないという二人にはミロも苦笑するしかないのだ。 カミュはそんなミロを見て笑うばかりだ。
「しょうがないな。 それじゃ俺の部屋から荷物を持ってきてくれるか?」
「はい!」
そうして二人が抱えてきた中からミロが取り出したのは様々な菓子類やケーキや本だ。 どれもみな子供が喜びそうなものばかりで、楽しみにしていた二人の期待に応えるのに十分だった。
「それから、ずいぶん遅くなったがこれがお前の誕生日のプレゼントだ。 といっても全員分あるんだが。 きっとあったかいぜ!」
かさばった包みを開けるとそれはふわふわの白い毛皮のような敷き毛布だ。 子供達からわっと歓声が上がる。
「ニュージーランド産のメリノ羊一頭半の毛を使ってある。 羊に添い寝されてるみたいに暖かいっていう話だ。 きっと役に立つだろう。 」
3センチはあろうかという毛足のそれは柔らかくて暖かい。
「ほんとにこれはよい!」
「先生っ、すごいです! ふっかふかだ〜!!寝るのが楽しみ〜♪」
抱きかかえて頬を押し当てるとなんともいえぬこころよい暖かさが身体中にじんわりと沁みてくる気がするのだ。
「しまった!惜しいことをした!」
「どうした?」
「だってさ、昨日これを使ってればもっと早く身体が温まってお前の負担も減ったに違いない! 先に教えておけばよかったな!」
「ミロ、それは理屈が…」
そんなことができるくらいならお前は一人で出かけてクレバスに落ちたりしていないだろう、と言いかけたカミュだがミロの目が冗談だよと言っているのに気がついた。
「では次にお前が落ちたときにはこれを敷いて待っている。」
「ああ、よろしく頼む! それとお前の添い寝付きね! ダブルケアで最高の目覚めが保障される♪」
明るい笑い声が響き、誕生日の夜はまことに楽しいのだった。

「誕生日を祝いにきたのにかえって迷惑をかけた。 今後は一人で散歩なんかしないことを誓う。」
「慣れているものでも危険な土地だ。 ここの周辺は毎日見回っているが遠くまではとても目が届かない。」
「ああ、今回は身に滲みたよ、ここの危険性もお前の暖かさもね。」
部屋まで送ってくれたカミュに冗談に紛らわせた本音はどこまで通じるのだろうか。
「ああ、ほんとに暖かいぜ! こいつはいい! お前も昨日みたいに一緒に寝てみないか?」
ベッドにもぐりこんだミロが羊毛の敷き毛布に感嘆の声を上げた。
「それは遠慮する。」
「じゃあ、次に落ちたときね♪」
「それも願い下げだ。」
「冷たいんだな。」
「私は凍気の聖闘士だから。」
真面目に答えるカミュの目がそれでも笑っていてミロを満足させた。
「明日の朝はイチゴのタルトにしよう。 一日遅れで誕生日を祝ってやるぜ。」
「ああ、楽しみにしている。 ではお休み。」
「お休み。」
静かにドアが閉まった。 メリノ羊のぬくもりがじわりと身体を包み込む。
冷たい眠りから目覚めたときに目の前に見えたカミュの瞳の美しさを思いながらミロも目を閉じていった。




        
低体温症の対処はほんとはこんなことで済むはずはありません。
        しかし、

        ・ 長距離のテレポートは身体に大きい負担がかかり、状態のよくないミロには耐えられないので
          医療機関への搬送は不可能
        ・ 小宇宙の万能有用性
        ・ 黄金聖闘士である
        ・ ミロカミュ物語なので添い寝は欠かせない

        等の理由により、この展開となりました。
        ミロ様、もう落っこちないでくださいね。

        なお、暖房していなかったミロの部屋の室温が果たして何度だったか?
        チルドくらいにしたいんですが、外気が零下40度とするとおそらく室温も………おお、寒っ!
        花なんて確実に凍り付いていそうですが、だからといって居間に置かせると話の運びが……。
        まあ、ここは、この住まいをかつて用意してくれたサガが、完璧な断熱材を使用して
        省エネ対策を取っていたということに。
        可愛いカミュ様が少しでも楽に暮らせるように残留思念で小宇宙を発動させて,
        屋内の気温が零下にならないように設定しておいた可能性もありでしょう。
        ほんとサガってば、先の見えるお人よ!


          
 登山愛好家のお医者さんの書いた低体温症のページ ⇒ こちら