「………カミュ、明日が何の日か知ってる?」
ひとしきり愛したあとで、耳元に口寄せてそうささやくと、
「もちろん知っている……」
そう答えたカミュが俺の髪に両の手を差し入れてきて、引き寄せられた俺がちょっと戸惑っているうちに、自分の方から唇を寄せてきた。
これはとても珍しいことで、いつもにはない積極性が俺を歓ばせた。 花の唇が俺を酔わせ、甘い吐息は俺の心をとかすのだ。
「天蠍宮で待っているから……」
抱きしめた身体が小さく震えて、俺は返事を受け取ったのだった。

正午を過ぎても、俺は心配などしてはいなかった。
なんといっても明け方に別れてきたばかりなのだ、誰にもしなければならぬ些事があり、そんなに早く来れるものではないからだ。
夕方を過ぎ冷たい風が麓から吹き上がってくるころになると、俺はやたらと時計を見るようになっていた。 ちょっと遅くはないだろうか、いつものカミュなら、西の空が茜色に染まるより先に現われるのではなかったか。
自分では認めたくなかったが、俺はイライラしてきて妙に気分が不安定になっていた。 かと思うと、カミュになにかあったのかと、わけもなく焦燥に駆られたりもする。
時計の針が十一時を回ったとき、我慢できなくなった俺は宝瓶宮に行ってみることにした。 俺のところにいないカミュが、のんびりと自宮にいるはずがないことはわかってはいたのだが、これ以上座って待っていることにはとても耐えられなかったのだ。

しかし、無人の人馬宮を急ぎ足で通り抜け、すでにシュラが眠っているに違いない磨羯宮を忍び足ですり抜けてやってきた宝瓶宮には、人の気配などありはしない。

   必ず来るはずなのに………
   昨夜一晩中、いとおしく抱いていたのに……
   どうして俺は、冷たい夜風に抱かれなきゃいけない?

いつも暖かく俺を包んでくれる小宇宙を無意識に探しながら円柱に寄りかかり、星降る夜空を見上げると、いつの間にか星々が滲んでくるようだ。
悄然として石段を降りかけた俺が懐かしい小宇宙を感じたのはそのときだ。
どきっとして振り返ると、上の方から石段を駆け下りてくるカミュの姿が目に飛び込んできた。
「カミュ!!」
小さく叫んだとき、腕の中にカミュが飛び込んできて、バランスを崩した俺はあやうくカミュとともに石段を転げ落ちるところだった。
「すまぬ、ミロ……こんなに遅くなって!……お前のことが気がかりでならなかった……」
ようやく踏みとどまった俺が体勢を立て直すのも待てぬのだろう、柔らかい唇が押し当てられ、俺を瞠目させる。
「カミュ……どうして……?」
「昼過ぎに老師が宝瓶宮においでになり、教皇庁から古文書の解読を依頼されたので私にも手助けしてもらえぬか、といわれるのだ。 数時間で済むということなので、それならお前との約束に間に合うと思いお引き受けしたら、思いのほか時間がかかり、さきほどやっと終わったのだ。 老師はそのまま教皇庁にお泊りになられたので、私だけ急いでぬけだしてきた。 ミロ……どれほど待ったことだろう、すまなかった………」
そういうと、カミュがもう一度俺を抱きしめる。
「そういうわけだったのか……気にするな、俺はちっともかまわんさ!」
「でも、こんなに身体が冷えて……すぐにお前の天蠍宮にいこう。 もうすこしで今日が終わってしまう!」
「それにはこだわらなくていい、夜中を過ぎてもいいじゃないか。」
「そうはいかぬ、今日は3月6日で………今日だけがお前の…ミロの日で……私はお前と……」
低い声が震えて、カミュの並々ならぬ想いが俺にも伝わってくるのだった。
「それならお前のところに、宝瓶宮に行こう! それなら間に合うさ、今日の日付のうちにお前を抱ける!」
「いや、それではならぬ……きっとお前は今夜のために何日も前からいろいろと用意をしていたのではないのか? 私は………間に合うものなら天蠍宮でお前に………抱かれたい……」
カミュが自分からそんな事を言ったのは初めてで、聞いてる俺の方が顔を赤くしてしまう。
確かに、今日のために食事の用意も寝室のしつらえも考えられる限りの最高のものを誂えてあるのだ。
「わかったよ、カミュ。 せっかくの俺の日だ、そうさせてもらおうか。」
今度は俺から軽くキスをすると、二人で深夜の石段を駆け下りた。 強い風が頬をなぶり、春というにはほど遠い寒気が身体の芯まで凍えさせる。
急ぎたい気持ちは山々だったが、磨羯宮ではシュラを目覚めさせぬために息をひそめてそっと通り抜けねばならず、いつの間にかつないでいた手が汗ばんでくる。

   今日のうちに、そうだ、日付の変わらぬうちにお前を抱こう!
   俺のためにお前は駆けてきてくれたのだ、お前の想いにこたえよう!

磨羯宮を抜けたあとは急ぎに急ぎ、俺たちが天蠍宮にたどり着いたときは、時計は十二時を回る寸前だった。
扉に錠を下ろすのももどかしく、手を取り合って寝室のドアを抜けると、美しい瑠璃色のファブリックに一瞬目を奪われたカミュが賛嘆の溜め息を漏らす。
「溜め息をつくのは早すぎるぜ♪」
ちらと暖炉の上の時計に目をやった俺は、カミュの手を取ると今度はやさしくベッドに導いてやる。
「……早く…早く私を抱いて……ミロ………」
「心配するな………あと1分で確実にお前を酔わせてやるよ………俺のカミュ……」
身を揉み込むように俺にすがり付いてくるカミュを抱きしめながら唇を重ね、絹ずれの音を聞くのもわずらわしいままにお互いを確かめてゆく。 夕方前から焚きつけていた暖炉の残り火が白い肌を照らし、おののく身体にまとわりついていた寒気を情熱の色に変えていった。
「ミロ………間に合ってよかった……今日がお前の………ミロの日だから……」
「お前のためなら、どんなことでも間に合わせるさ♪」
至高の恋人をいつくしみ始めたとき、時計が遠慮がちに真夜中の鐘を打つのが聞こえた。




           大事な約束は守られなければなりません。
           たとえ1分でも、カミュ様は今日のうちにミロ様に抱かれたかったのでした。
           まるで恋の逃避行のように、
           手に手を取り合って飛ぶように石段を駆け下りるお二人の弾む心は、
           目指す天蠍宮での逢瀬に飛んでいます。
           満天の星だけが、恋人たちを見守っていた十二宮の夜更けです。

           標題の歌を詠んだ藤原定家は能筆で知られた藤原俊成の子で、新古今和
           歌集を撰し、数ある名歌の中から百人一首を選んだ人です。

           松帆の浦は淡路島の北端の地名、この歌では 「 松 」 を 「 待つ 」 にかけ
           ていて、さらに 「 焦がれ 」 を導き出しています。
           「焼くや」 という言葉の響き、「身も焦がれつつ」 のやるせなさ、がとても好
           きです。
           子どものころから印象的で覚えていたこの歌を 「 ミロ様の日 」 に使えると
           は嬉しい限り♪ これもミロ様のおかげでしょうか。
           
           ※ 「藻塩」
              海藻から取る塩。 海藻に海水をそそぎ、塩分を含ませたものを焼いて
              水に溶かし、その上澄みを釜で煮詰めて製する。

  来ぬ人を まつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつ
                                   権中納言定家     百人一首より

       【歌の大意】         待てど暮せど来ない人を私は待っているのです
                       松帆の浦の夕凪の中で藻塩を焼く火のように
                       私の身もじりじりと恋に焦がれるばかりなのです