ふるえているのは寒さのせいだろ  恐いんじゃないネ
   毎日 吹雪 吹雪 氷の世界

                                                 作詞 : 井上 陽水     「氷の世界 」 より


初めてシベリアに行ったのはいつのことだったろう。

カミュが弟子を育てるために聖域を去ってから、次に会ったときに恥ずかしくないような立派な黄金になっていようと考えた俺は修行に修行を重ね、ついにテレポートを会得するまでになっていた。
同い年のムウは一番先にそれこそ楽々とテレポートを覚え、初めてそれを見せられたときは羨ましくてならなかったものだ。
「それって俺にもできるのかな?」
勢いこんで訊いたらムウはちょっと首をかしげてから、こう言った。
「私は自然にできたし、きっとあなたにもできるのではないかと思いますよ。だって黄金聖闘士ですから。」
今から思えば根拠も何もないのだが、まだ小さかった俺は自分が黄金聖闘士であるという事実にしがみついて、それはそれは頑張ったものだ。
思念の世界を実体験に結びつけるのは難しい。 いくら理屈を教わっても、小宇宙を衝撃波のような現実のエネルギーとして発現させるのとは根本から違っていて相当に苦労した。 それだけに初めて数メートル移動できたときの嬉しさは今でもよく覚えている。
「あ…!」
世界が変わったようだった。 すぐそばにいたはずのムウやサガの位置が一瞬で違っていて、最初は二人がテレポートして見せたのかと思ったが、俺を見る驚いたような眼差しが、なにが起こったのかを教えてくれた。
「あ、あの……俺…?!」
「できましたね!」
「よくやった、ミロ!」
口々に言う二人に握手をされて顔が真っ赤になった。 一つの壁を越えたことで、胸の中の途方もない夢が一歩現実に近くなる。

   カミュに会いに行く!

遠いシベリアにいるカミュ、聖域から、俺たちみんなから遠くはなれて小さい弟子と修行に明け暮れているカミュを励ましに行く。 それがそのころの俺の最大の目標だった。 アテナとともに地上の平和を守るという目的はどうだったのだ、と言われると困るのだが、そのころの地上は平和だったし、まだ小さかった俺としてはカミュに会いたい気持ちの方が重大だったのだと思う。
いったんコツを覚えると上達は早かった。やったことのない人間にはわからないだろうが、テレポートなんて実は簡単なのだ。 要は小宇宙の燃やし方一つなのだから。

自由自在にこの技を操れるようになってから、サガに口添えを頼んで恐る恐る教皇に願い出てシベリアに行く許可をもらったのは春先のことだった。
「シベリアの寒さは聖域の比ではない。 十分に気をつけるように。」
用意周到なサガから十二分に知識や準備を仕入れた俺は、勇躍 極東の地へと旅立った。 といってもほんの一瞬だったが。
「うっ…!」
真っ白なすごい風に身体を持っていかれそうになり、2、3メートル後ろに下がったところであやうく踏みとどまった。 真っ白いと思ったのは半ば氷が混ざっているかと思うような雪が横なぐりに降っていたせいで、俺は初めて吹雪、ブリザードというものに遭遇したのだった。
知識としては知っていたし、サガから十分に注意も受けていた。 しかし、誰がこんなに激しく厳しいものだと思うだろう。
そして、本当に寒かった。 いや、寒いという言葉ではとても表現できない、想像を絶する寒気に包まれて俺は思わず息を止めたものだ。 これに比べればギリシャの寒さなど夏の一部に過ぎないと思えるほどで、こんな凍りつくような空気を吸い込んだら肺も心臓もその場で凍って砕け散りそうな気がした俺は、予定通りにブリザードを透かして目の前にかろうじて見えた小さな住居に駆け寄った。 見間違う筈もない、見渡す限り人の住んでいる痕跡はほかには何もない、恐いほどに純白の世界の真っ只中に俺はいたのだから。
少し走るだけで頬が引きつり、凍った空気に触れた目がピリピリと痛い。

   こんなすごいところに何年も…?!

とても寒いところ、程度にしか考えていなかった俺は茫然とし、カミュの頑張りと偉さが急に身に滲みた。 こんな想像を絶するところでカミュは孤立無援で過ごしているのだった。
カミュのこの住まいからもほど近い東シベリア海の海水温は夏でさえ零度前後、真冬にはマイナス30度にもなる。 海だからその程度で済むので、地上の気温は厳冬季にはマイナス50〜60度にもなるのだった。
たぶんこのあたりの風向きは一定なのだろうか、ドアは風下側にあり雪も積もってはいない。 回り込んでくる風に震えながらドアをノックしようとしたとき中からそれが開かれた。

   えっ…?!

その瞬間さっと腕が伸びてきて、俺の身体は中に引きずりこまれていた。馴染みのない雪と寒さに目を細めてうつむいていた俺は、急に暖かい空気と色彩の渦に包まれて頭がクラクラしたものだ。
「ミロ! 久しぶりだ、よく来てくれた!」
目の前にカミュがいて、俺を見て驚きながら笑っていた。 いきなり会ったカミュの背の高くなったことに驚いた俺がものも言えずにいると、カミュは俺のコートを取り、慣れた様子で雪を払って椅子の背に掛けた。
「ああ、ほんとに久しぶりだ! やっと来たぜ、それにしてもお前…!」
「え?」
「こんなに背が高いとは思わなかった!」
「それはミロも同じではないか。」
言われて気が付いた。 何年も会わないでいるうちに、お互い30センチくらい身長が高くなっていたのではないだろうか。
「お互い様だな。」
笑い合ったとき、初めて二人の子供に気がついた。 カミュの後ろから珍しいものでも見るかのように俺を見ている。
「これが私の弟子だ。 アイザックと氷河。 二人とも挨拶を。 私の友人、ミロだ。」
その口調は大人びていて、ちょっと俺に驚きと淋しさを感じさせた。 小さかったカミュは、この雪と氷の世界でいつの間にか大人に近付いていたのだ。 二人の子供は礼儀作法もきちんと仕込まれたらしく、自己紹介のあと、相談しながらお茶の用意を始めた。
「それにしても見違えた! 別れたときはあんなに小さかったのに、今は、カミュ、お前がずいぶん大人に見える。 驚いたよ!」
「それはミロも同じだ。 私の覚えているミロはまだ小さくて子供だったのに、もうこんなに…」
そう言ってカミュは俺と並んで見せた。 肩が触れ合うほどで、かすかに覚えている懐かしい匂いがしたようだった。
「どちらが背が高い?」
二人の子供がこっちを向いて 「 先生の方かな?」 「ううん、お客様の方がちょっと高いかも。」 と相談を始める。
「あまり変わらないらしいな。」
「まだ伸びるだろう。 次に会うときには、はっきりとした差があるかも知れぬ。」
「お前……口調、変わったんじゃないか?」
いぶかしげに言うと、カミュがちょっと頬を染めたようだった。
「ああ、それは私は指導者としては若すぎるから…」
どうやらカミュなりに威厳を出そうと工夫したらしかった。

二人の子供は心からカミュを尊敬しているようで、紅茶を置く動作も口調もとても丁寧で俺を感心させた。お茶の間におしゃべりをして親しくなった俺に、
「今日は泊まっていただけませんか。 先生からもどうぞお願いしてください。」
「こんなにひどいブリザードですからとても帰れませんし!」
と言うのだ。
「え? いや、テレポートしてきたから天気は関係ないし。」
そんなつもりはなかった俺が急な話に意表を突かれてそう返事をすると、子供達の目が賛嘆の色に輝いた。 どうやらテレポートというのにびっくりしたらしい。 そういえばカミュは、俺を黄金聖闘士だと言ってはいないのだった。、
「ここは淋しい土地だ。 今までに客が来たことは一度もなく、この子達が私以外の者のためにお茶の用意をするのも初めてなのだ。 できることなら私からも頼みたい。 ミロが帰りを急がぬのなら、の話だが。」
カミュまでもがそう言い、三人の目が俺を見つめた。
「あ……ああ、それはできなくはないが、しかし、迷惑じゃないのか?」
なにしろこんな土地だ。 一人増えれば食料も薪もその分だけ備蓄が減るのはわかりきっている。
「大丈夫です! 一ヶ月ブリザードが続いても困らないくらいの用意はしてありますから。」
兄弟子らしいアイザックが自信たっぷりに言い、カミュも氷河も頷くのだ。そういうことなら 教皇からは明日までの猶予をいただいているのだ、誰に遠慮をすることもないだろう。
「よし! それじゃ、お前達に客の歓待の体験学習をしてもらうことにしよう!」
嬉しそうな笑い声がはじけ、どうやら俺の来訪はこの三人きりの暮らしに色を添えたらしかった。

つつましい、しかし楽しい食事が終わり、就寝の挨拶とともに子供達は部屋に引き取っていった。 そして、その挨拶にはカミュへのおやすみのキスも付随して俺を驚かせる。
「ふうん、寝る前にキスなんかするんだ!」
突然のことに俺が呆れていると、
「氷河は母親と暮していたときのことをよく覚えていて、ここに来た最初の晩にごく自然に私の頬にキスをした。 唖然としたが、訊いてみると寝る前の挨拶で、ごく普通の習慣だったらしい。 それを見ていたアイザックもさっそく真似をしたのが今も続いている。」
「すると、お前が母親代わりってわけ?」
さらに呆れると、
「母親とは限らぬ。 両親にキスをしてから寝るのがごく普通だという話だ。」
「ふうん……」
聖域に暮していると、そんな一般の知識が欠落してしまうのはしかたのないことだ。
「そういえば……俺もトラキアでやっていた気がする。」
「え? そうなのか?」
「ああ、そうだ、思い出した! 寝る前に叔母に抱きしめてもらって、うん、確かに額にキスしてもらっていたぜ!」
「お前がキスされていたのか? ここでは子供達が私の頬にキスをするが。」
「土地によって違うのかな?よくわからんが、どうなんだろう?」
「……さあ?」
わからない同士で話していても一向に結論が出ない話で、いつしか俺たちは小さかったころの思い出話やこれからのことを話しているのだった。
「こんな淋しい土地……つらくはないのか?」
「ん……もう慣れた。 最初こそつらいこともあったが。」
今の弟子達が初めての弟子でないことはサガから聞いていた。 さぞかし悩んだこともあったのだろうが、そのときには俺はなんの相談にのってやることもできなかったし、そもそもそんなことを知りもしなかったのだ。 俺が小宇宙に磨きをかけ、カミュに会うためにテレポートの習得に必死になっていたどのときに、カミュは試練に遭ったのだろうか。
夜になって激しくなってきた風が窓をカタカタと揺らす。 厳重に隙間をふさいであるはずの部屋に、どこからか冷気が忍び込んでくる。
「早く育て終えて聖域に戻ってくるといい。 お前は氷を、冷気を操るが、それでもこの世界は過酷過ぎる。 俺は、青い海や眩しい太陽や緑の森をお前に見せてやりたいね。」
寒さに慣れているはずのカミュが小さく身震いをした。
「私は……あの子達が無事に育つまでここにとどまらなければならない。 それまでは、海も太陽も森もミロに預けておこう。」
「……淋しくない?」
そんなことを訊いてはいけなかったかもしれない。 俺が明日の朝に去ったら、また三人だけの誰も訪れるはずのない厳しい修行の日々が始まるのだ。 子供としか話ができないカミュは物足りないに違いない。 あんなに難しい本が好きで、始終サガやアイオロスと学問の話をしていたカミュなのだ。 まるで文明から隔離されたようなこの氷の世界で鬱屈したものがあるのではないだろうか?
「私は黄金聖闘士だから、淋しくはない。」
「それって、あまり論理的じゃないな。」
「私もそう思う。」
俺が笑い、カミュも苦笑する。
「さあ、もう寝よう。 今日は来てくれて嬉しかった。 ほんとに久しぶりで…」
カミュがちょっと口ごもり、目を伏せた。 明日からの暮らしを思ったのかも知れない。
「また来るよ、テレポートを習得したのはそのためなんだから。」
「そんな大袈裟な…!黄金聖闘士の会得するべき当然の能力だ。」
「ああ、そうだな。」
俺が本気で、カミュに会いに来るためにテレポートを覚えたことは知らせる必要のないことだ。 ムウの次に聖域でテレポートを習得したことは若い黄金の間に一大センセーションを巻き起こしたのだった。 誰もがシャカが二番手だと考えていたのに、それをはるかに追い越して俺が名乗りを上げたのでちょっとした羨望と嫉妬があったかもしれない。
「今度来るときは気の効いた食料と花でも持ってこよう。少しでもここを、お前の生活を潤してやるさ♪」
「ありがとう、ほんとにここは何も無くて。」
おやすみのキスはやめておいた。 俺たちは子供じゃないし、そのうちにほんとのキスをすることになるかもしれないからだ。
カミュが自室に引取ったあと、しばらくは目を覚ましていた。

   お前を震わせるのは、この寒さだけなのか?
   孤独の不安に震えたりはしないか?
   雪と氷のあまりの白さに恐れをいだくことはないのか?

固く閉ざされた窓から白い闇が忍び込む。 二つの小さな寝息と、静かな懐かしい寝息が聞こえるような気がした。




                  
初めて書いたシベリア篇。
                  うちでは、カミュ様が帰還してのちに想いを伝えるので、こんなふうです。
                  色艶は………「 聖女たちのララバイ 」 シリーズによってとっくの昔に封印されているのでした。
                  でも、ちょっとよそ様が羨ましく見えたりして。