カミュが帰ってくる。

その報を聞いたミロは欣喜雀躍して喜んだ。
半年ほど前にカミュが聖域に戻ってきてやさしく看病をしてくれたときの記憶はいまだに新しく、あのあとすぐにシベリアに帰ってしまったカミュを思う気持ちはミロの中で膨れ上がる一方なのだ。
あのとき 「 しばしば帰ってくるようにしよう 」 と約束したカミュは、その後何回か聖域に戻ってはきたが、ミロが食事に誘おうとしても困ったように眉を寄せ、「 すまぬ、急いでシベリアに戻らなければならなくて。」 と言葉少なに言って、残念がるミロに  「 お互いもっと精進して優れた聖闘士になろう!」 と言うばかりなのだった。
しかし、ついにそのカミュが戻って来るのだ。

   ともかくなんとかして機会を作って、好きだと言おう!
   とはいっても、こういうことは大急ぎで言うことじゃないからな、
   花を飾って食事をしてムードを盛り上げるとか、夕陽の海岸を散歩するとか………

ミロの頭の中にいろいろな考えが渦巻いて、なにをやっていても気持ちがそっちのほうに傾いていくのはどうにも止められないのだ。

「このごろミロがニヤついているように思うのだが、私の気のせいだろうか?」
「いや、そいつは気のせいじゃないな。 俺もそう思うぜ。」
アフロディーテの淹れてくれた紅茶を飲むデスマスクは、これからの展開が気になって仕方がない。 半年前にミロが精神攻撃を受けたときの顛末はおおいにデスマスクの興味を引くことになり、あれからずっとミロの様子を観察しているのが面白くてしかたないのである。
なにしろ誰かがカミュの名前を出そうものなら、ミロの眉がぴくっと上がり、頬こそ染めないものの耳朶が女のように真っ赤に染まる。
主のいない宝瓶宮の前を通れば必ずそちらに目をやり、( ははぁ、これが憧憬ってやつか! ) とデスマスクが納得するほどに切ないまなざしを見せてくれる。
みんなで飲んでいるときには必ずオンザロックを選んで、手のひらにグラスを包み込むようにしながらいとおしそうに氷の音に耳を傾ける。
こんな様子を見せられて周りのものが誰一人気付かないでいるのが、デスマスクには不思議でならないのだ。

   火を見るよりも明らかっていうのは、こういうことを言うんじゃないのか?
   男所帯だからこんなこともあるとは思うが、こいつはカミュが帰ってからが楽しみだ♪

「今度カミュが帰ってくるだろう、ミロの奴はけっこう仲がよかったから待ち遠しくて仕方がないんじゃないのか?」
「なるほど、そうかも知れぬ。 私としてはカミュに薔薇園の水の管理をみてもらえるのがありがたい。 」
カミュのシベリア行きに一番衝撃を受けたのは、ミロについでこのアフロディーテなのである。 幼かったカミュが聖域に来たその日から薔薇の水遣りの手伝いを頼んでいたアフロディーテとしては、カミュが大きくなるに従ってその水を操る手腕におおいに依存していたこともあり、そのカミュのかくも長き不在は極めて影響が大きかったのだ。

たかが薔薇、というなかれ。
アフロディーテの薔薇は単なる趣味の産物ではなく、双魚宮の黄金聖闘士として欠かせぬ戦闘アイテムの毒薔薇なのだから、その生育はまさに死活問題なのである。 いかに美を愛する聖闘士といえども、人の誕生日に贈ったり、教皇の間や自宮に飾る人畜無害な薔薇は副産物に過ぎず、自慢の薔薇園の奥深くの禁断の地に咲き誇る赤、白、黒の三種の薔薇こそアフロディーテが秘するまがまがしい毒薔薇なのであった。
カミュがいなかった何年もの間、この薔薇だけはと丹精込めた甲斐があり花の途切れることはかろうじて食い止めたが、そろそろ株が老化してきて花数も減り、心なしか香りも弱まってきたようだ。 ましてや普通の薔薇のほうの成績はさらに悪く、ギリシャの夏の強い日差しと慢性的な水不足とが見る影もない惨憺たる状況を招いていたのだ。
「カミュが戻ってきたら、しばらくは私の薔薇園にかかりきりになってもらわねばならぬ。」
四月のこの時期は新しい芽がぐんぐん伸びて、来るべき五月によい花を咲かせるための十分な水遣りが不可欠なのだ。 今までの水枯れ状態を文字通り根本から解決したいアフロディーテは、カミュの手を切実に必要としていたのである。
「ふうん、そいつはカミュも忙しいことだな。」

   俺にとって重要なのは自分の睡眠だからな!
   それさえ確保できれば、面白いに越したことはないじゃないか♪

ミロとアフロディーテがカミュを取り合う様を脳裏に思い浮かべたデスマスクの目が面白そうにきらめいた。


そんな三者三様の思惑が聖域で待ち受けることを知らないカミュが帰ってきたのは、4月初めの朝だった。
「カミュが戻って来たっ!」
宝瓶宮に降り立った懐かしい小宇宙の輝きに色めきたったミロが朝食の席を蹴って取るものも取りあえず駆けつけてみると、いままさにカミュの手を引かんばかりにして石段を登ろうとしているのは双魚宮の主アフロディーテである。 宝瓶宮との間に磨羯宮と人馬宮があるミロよりも、宮が隣り合っているアフロディーテの方が早いのは当然といえば当然なのだった。
「あっ………カミュをどこへ?!」
思わず叫ぶと、振り向いた二人が異口同音に、
「双魚宮だ。」
と言い、ミロを憮然とさせた。
「だって……なにしにっ?」
なおも食い下がると、
「私の薔薇を診てもらわねばならぬ。 カミュが戻るのを長い間待っていたのだからな。」
「双魚宮の薔薇の管理については聖域に来たときから頼まれている。 そのことはミロも知っているはずだ。」
「そ、それは………でも、俺だってカミュのことを…」
「私の薔薇よりも急を要する用事なのか?」
アフロディーテの目がきらりと光る。
「……いや……そういうわけじゃ…」
「では、急ごう!」
反論できないでいるミロを尻目に、二人は双魚宮へと登っていってしまった。
「そ、そんなぁ〜〜」
やっと会えたのにとんびに油揚げとはこのことかとミロが嘆いていると、後ろから肩をたたいたのはデスマスクである。
「どうした? 元気がないぜ?」
「べ…べつにそんなことは…」
「隠すなよ、カミュを持っていかれたんだろう? 初日からついてなかったな。」
図星を指されたミロが真っ赤になって黙り込むと、
「俺もまんざら関係ないわけじゃないからな、及ばずながら協力してやろう。」
「協力って…」
「お前も知ってのとおり、俺はアフロディーテと親しいから双魚宮にも気楽に行ける。 あの様子じゃ、ここしばらくはカミュが双魚宮に入り浸るのは目に見えてるな。 今は薔薇の状態の点検に忙しくて話しかけるのも無理だろうが、午後のアフタヌーンティーのときにでもお前を誘ってやるから一緒に行けばいいさ♪ そうすればカミュとしゃべる機会もあろうってもんだ。」
「カミュが双魚宮に入り浸る……」
ミロが唇を噛みこぶしを握りしめたのを見たデスマスクは、言い過ぎたかな、とちょっぴり後悔したのだった。
しかし、その後の展開はデスマスクの予想を超えていた。

その日の午後2時、デスマスクと一緒にどきどきしながら双魚宮に出かけていったミロは、午前中にアテネに出かけて吟味して選んできた極上のフランボワーズのタルトを手土産にアフタヌーンティーのテーブルに着いた。 薔薇のことに明け暮れてスイーツを作る暇のなかったアフロディーテはたいそう喜び、長くシベリアにいてそういったものに縁のなかったカミュも淡く微笑んでくれたのがミロを有頂天にさせ、アフタヌーンティーはきわめて楽しく優雅に過ぎた。
いろいろな話に花が咲き、午後の残りの時間はたいして作業もできないだろうと考えたミロは、さりげなくカミュを誘ってみることにした。 心の中でいろいろな台詞を検討し、思いっきりさりげなく言ってみる。
「じきに日が暮れる。 そろそろ帰ろうか。」
できるものなら宝瓶宮と白羊宮を取り替えて最長距離を二人きりで歩きたいものだが、宝瓶宮がすぐ隣りなのが実に口惜しい。 それでも暮れゆく空を見ながら二人で石段を降りていったらどんなに楽しいことだろう。 協力するといったくらいだから、きっとデスマスクは気をきかせて帰る時間をずらしてくれるに違いない。

   宝瓶宮に着いたら、もう一杯お茶を飲みたくなったといって中に入れてもらうんだ♪
   シベリアの土産話を聞かせてほしいとせがんだら、話に興が乗って二人きりの夜を過ごせるかもしれない♪
   そうしてカミュの気持ちがなごんだところで 「 ずっと前から好きだった 」 と言おう!
   そしたら、きっときっとカミュは………ああっ、俺のカミュ!

ミロが楽しい空想に耽っていると、
「そのことだが、カミュ…」
品よく紅茶を飲み干したアフロディーテがこう言った。
「これから毎日来てもらうことになるのだから、どうせなら私のところに泊まらないか? 夜間帯に地表からどの程度水分が蒸発するのか測定してほしいし、君も何年間もシベリアで弟子と一緒に暮していたのに、急に一人で過ごすというのも淋しかろう。 客用寝室はいつでも泊まれるようになっている。 私でよかったら話し相手になろう。」
「え……私がここに?」
アフロディーテの突然の提案に愕然としたのはミロである。
「そ、そ、そ、そんな…!」
抗議の言葉が唇にのぼるより先に、
「ではそうしよう。」
カミュがあっさりと言い、ミロのささやかな希望は一瞬で打ち砕かれた。
「ど、どうして急にっ……一人で寝るのが淋しければ俺の…天蠍宮に来てもいいじゃないか? 俺だってカミュと積もる話があるし…!」
「私は一人寝が淋しいといっているわけではない。 薔薇の葉からの水分の蒸散量が気になっていたので、ここ双魚宮に泊まれば観察が容易で望ましい結果が得られるだろう。 こちらからお願いしたいと思っていたところだ。」
なおも抗議しようとするミロの足をテーブルの下でデスマスクが蹴り、それを合図にしたかのようにアフロディーテが立ち上がる。
「そうと決まれば、カミュ、君に観察する薔薇のモデルを決めてもらいたい。 どうせなら君の泊まる客用寝室の窓のすぐ外にある 『 ハネムーン 』 が手近でいいのではないだろうか?」
「対象が一種類では、観察結果の信頼性に疑問が…」
「それなら、その隣りの 『 ブライダルピンク 』 と 『 シークレットラブ 』 も観察すればいいだろう。 どれも葉の伸展が等しくて観察するのにちょうどいい。」
頷いたカミュも続けて立ち上がる。
「健全な五枚葉をつけるためには根張りをよくすることが重要で…」
「私の薔薇には強健種のハイブリッド・ティーが多いのだが、聖域の土壌を考慮して窒素分の多い肥料を施肥したところ…」
ミロにはわからぬ専門用語を駆使しながら二人は薔薇園に下りていってしまい、後には茫然としたミロと笑いを噛み殺したデスマスクが残された。
「ハ……ハネムーンって…」
ミロが真っ赤になって絶句した。
「それにブライダルピンクにシークレットラブって言ってたか?」

   なんともすごいネーミングじゃないか!
   アフロの奴、ミロをからかうつもりでそんな名前の薔薇を選んだのか?
   ミロの奴、今夜は眠れないかもしれん!

「まあ、元気を出せよ! お前の気持ちもわかるが、ここで文句を言っても始まらんだろう? バラの世話が一段落したらカミュだって自分の宮に戻ってくるに決まってる。」
「俺だって……俺だってあんなに待っていたのに…!」
意気消沈したミロの気を引き立てようと、わざと楽しい話題を出しながら石段を降りるデスマスクは、内心では面白がっているもののかなり面倒見がいいらしい。 このままでは食事も摂れないだろうと、一緒に天蠍宮に行ってパスタを作ってやりグラスにワインをそそぐ。
実のところは沈んでいるミロをソファに座らせておいて台所の戸棚を物色してみたところ、奥の方に大事そうにカミュVSOPがしまってあるのを見つけたのだが、三分の一にまで減ったそれにはとても手を出せず、手近のギリシャワインにしたのである。 このころの若きミロでは、カミュ バカラ カラフェだのバカラ トラディションだのを買うまでには至らない。 ただ 一人で午後の紅茶を飲むときにカミュVSOPをたらしてその豊穣の香りに遠い国にいるカミュを偲んでいたのである。

   ふうん……ミロも可愛いじゃないか♪
   なんとかならんものかな………
   といっても、こういうことには人一倍うといカミュが相手だからな……

「お前さ……カミュを振り向かせたいんなら、いいところを見せることだな。」
「いいところって……?」
パスタをつつくミロが気落ちしているのも無理はない。 うまくいけばカミュと食べているかもしれなかったのに目の前にいるのはデスマスクだったのだから。
「毎日俺とアフタヌーンティーに行くだけじゃどうしようもないだろうが。 といって、バラの世話の手伝いを自分から申し出るのもわざとらしい。 だから…」
「………だから?」
「このチャンスにアフロに、小宇宙のピンポイント攻撃のコツを伝授してもらうのがいいと思うぜ!」
「え?」
ミロの目に興味の色が浮かび、デスマスクがここぞとばかりに力を込める。
「俺の思うに、攻撃パターンにも種類があり、一番多いのがゾーン攻撃だろう。 アルデバランのグレートホーン、サガのギャラクシアン・エクスプロージョンなんかがその例だ。 それからライン攻撃というのがシュラのエクスカリバーだな、このタイプは比較的珍しい。」
うんうん、とミロが頷く。 カミュのオーロラエクスキューションもこのゾーン攻撃に分類されると思うと、ただそれだけでどきどきしてくるのだ。
「俺の積尸気冥界波とかサガのアナザーディメンション、それからシャカの持ち技なんかは異次元タイプだからちょっと種類が違うが、アタックポイントという観点からすればやはりゾーンだ。 」
「うむ、そのとおりだ。」
いかにカミュのことで頭がいっぱいといえどもミロとて黄金聖闘士である。 こういった話には目が輝き身を乗り出してくるのは当然だ。
「そしてお前のスカーレットニードル、あれは典型的なピンポイント攻撃だろう。 このタイプには色々あるが、アイオリアのライトニングボルト、アフロディーテのローズ系なんかがその例だ。 しかしピンポイント攻撃の中ではお前のが一番すごいんだぜ、自分でわかってるのか?」
「えっ、どうして?」
「ライトニングボルトは一秒間に一億発の拳を放つ。 ピンポイントではあるが、このレベルまでくるとゾーン攻撃と等しい効果を与えるだろう。 とすると、相手の身体の任意の場所にヒットすればいいのだから、ポイント攻撃としてはそこまでの精度は必要としない。 」
「それはそうだ。 かえってアタックポイントを散らせるほうが効果が上がるというものだ。」
小さいときから一緒に訓練してきたアイオリアの技を正当に評価していたミロだが、こういった観点から考察したことはなかったのでデスマスクの語りは新鮮でたまらない。 このときだけはカミュのことも忘れて聖闘士としてのおのれに目覚めるのだ。
「それからアフロのローズ系、こいつは滅多なことでは人に見せないが、お前も話だけは聞いているだろう? ブラッディローズは必ず相手の心臓にヒットするが、心臓の大きさはその人間の握りこぶしの大きさに等しいというからな、ターゲットとしては比較的大きいといっていいだろう。 そして、ピラニアンローズとロイヤルデモンローズは相手の身体に当たりさえすればいいのだ。 皮膚を掠めただけでも恐るべきダメージを与え、相手を死に至らしめる。 しかし、」
言葉を切ったデスマスクがミロを見つめる。 こういう演出はけっこう好きなのである。
「お前のスカーレットニードル! あれはすごいぜ! 立ち止まっているとは限らない相手の中枢神経を見抜いて、星座を形成する星の並びのままに15連続で打ち抜くなんてそうそうできることじゃない。 中枢神経なんてすごく細いんだろう?」
「ああ、そうだ。 末梢神経の太さは0.5〜15ミクロン、それが何十万本と束になっている中枢神経もたいした太さにはならない。」
「数メートルもしくはもっと離れた位置にいる相手の神経を正確に打ち抜くなんてとてもできることじゃないぜ! ピンポイント攻撃の正確さにおいてお前の右に出る者がいるわけはない。」
「……そうかな?」
ミロがちょっと顔を赤らめる。 カミュのこととは無関係に赤面するミロを見たのはデスマスクにも初めてだ。
「だから、アフロディーテとピンポイントのテクニックを議論実践してみるのもいいんじゃないのか? 俺はいくら親しくても持ち技のタイプが違いすぎてそんな話には無縁だが、お前ならできるぜ! そうしてカミュが薔薇の水遣りにかかっている間にお前の真剣な修行態度を見れば明らかに評価が上がろうというものだ!」
「ふ〜ん、なるほど!」
「妙に工夫して花やケーキを贈るより、こんなふうな態度を見せたほうがいいと思うな、俺は。」
「よし、明日からさっそくやってみる!」
かなりの時間と手間を費やしたデスマスクは、ほっとしてワイングラスに手を伸ばす。

   やれやれ……ここまで来れば、とりあえずは何とかなるんじゃないのか?
   すぐに上手くいくはずはないから、まだまだミロのやきもきぶりを楽しめるし、
   うまくいったらいったで、からかいようがあって面白いじゃないか♪
   ………ちょっとつついてみるかな♪♪

「双魚宮の浴室を一度覗いたことがあるが、ピンクの薔薇の花模様のタイルなんだぜ。」
顔を真っ赤にしたミロが硬直し、デスマスクはたいそう面白いと思ったのだった。

さて、その翌日からミロはアフロディーテと小宇宙のピンポイント攻撃に関する検討を始め、薔薇園にいるカミュを瞠目させた。
もとより聖闘士なのだからこの手のことともなるとミロの闘争本能が刺激され、理論から実践へと移行するのも早い。 離れたところにいるカミュにも時々は素晴らしい小宇宙のぶつかり合いが響いてきて、凍結系の小宇宙には見られない血のたぎるような躍動感が鮮烈なのだ。
「実に素晴らしい!」
午後のお茶を飲みながらカミュに誉められたミロもまんざらではなさそうで、雰囲気は至極いいのだった。
こうして上機嫌のミロと時々それをからかって楽しんでいるデスマスクの訪問は続き、季節は花咲き匂う五月となった。
去年までとは違い、十二分に水が供給された薔薇園の成績はたいそうよくてアフロディーテは上機嫌である。 5月8日が誕生日のアルデバランには素晴らしい花束を贈り、宝瓶宮と天蠍宮と巨蟹宮にも毎日のように好みの花を届けてくれた。 このころにはカミュも双魚宮に泊まるのはやめて自宮に帰るので、二人して花束を抱えて帰るのはミロにはじつに嬉しい道行きなのだ。

そんな或る日、アフロディーテがバラ園の奥に咲く毒薔薇の手入れを始めた。
なにしろ、その香りを嗅いだだけで絶息しかねない危険な代物である。 アフロディーテは自分以外の者の立ち入りを固く禁じ、水をやるカミュにも離れた安全な地点から地中を通じて水分を補給させるという念の入れようである。
このところは任務もなく、毒薔薇も枝についたままで咲き終える。、咲き終わった薔薇の花ガラは早目に切りとったほうが株の為にはいいので、天気のいい今日はアフロディーテは毒薔薇を、他の3人は普通の薔薇を、と手分けして花ガラを切り取っていた。なにしろ面積が広く、切り取る量も半端ではない。
「充実した五枚葉の付け根の上1センチくらいで斜めに切ってほしい。 しばらくすると脇芽が伸びて、また花を咲かせてくれる。」
アフロディーテに教わったとおりに次々と花を切り、いつしかミロは薔薇園の奥に近付いてきた。 毒薔薇が咲く時期にはアフロディーテが結界を張り、他人の立ち入りはおろか、その死を招く香りが洩れるのを完璧に防いでいる。 いまは結界の向こうでアフロディーテが慎重に黒薔薇を切っているのが見えていた。
朝から何百本もの薔薇を切ってきたミロにもいささか疲れがみえている。 花ガラを入れた籠を下げたアフロディーテが一瞬 結界を解いて外に出ようとしたときだ、突然の突風が吹いて籠の中の黒薔薇を巻き上げ、それがミロの頬を掠めたのだ。
ものも言わずにその場に昏倒したミロはびくりとも動かない。 蒼白になったアフロディーテが駆け寄り抱き起こしたときにはピラニアンローズの即効性の毒が全身に回り始めている。 薔薇のトゲが掠めた毛筋ほどの引っかき傷の周囲はすでにどす黒く変色していた。
「ミロ!!」
異変を知り駆けつけたカミュとデスマスクが息を飲む。 よろめいたカミュをデスマスクが支えた。

先月までカミュが寝ていた双魚宮の客用寝室にいまはミロが横たわっている。 顔色はよくない。 呼吸も荒く体温も低かった。
「でも、生きている。」
かたわらに立つデスマスクが言った言葉が、カミュの胸に深く染みとおる。
「まもなく解毒剤が効いてくるはずだ。 すまなかった、私のミスだ。 ミロには詫びる言葉もない。」
かがみ込んで様子を見ていたアフロディーテが立ち上がり溜め息をつく。 聖域を守る黄金聖闘士はわずかに12人。 その一人一人がアテナと地上を守るためのかけがえのない大事な存在なのだ。 こんな不注意で欠けることは許されないことだった。

   それにもまして………

アフロディーテは思う。

   黄金聖闘士としてでなく、ミロを一人の人間として心から大事に思っている者がここにいる
   その者をけっして悲しませてはならない

「カミュ」
ミロを見つめていたカミュが顔を上げた。
「意識はじきに戻るだろうが、回復までには一ヶ月以上かかるだろう。 すまないがそれまでここに泊り込んでミロを看てやってくれないか。 私だけでは手が足りない。」
「喜んで。」
不慮の事故で倒れたミロを見やるそのまなざしの中になにか暖かいものを見たような気がしたデスマスクは一人どぎまぎし、ミロにそれが見えないのを残念に思ったのだった。

「俺だって看病くらいできるのに、任せてはくれないんだな。」
「おや、君は前回のとき眠れなくて困るといっていたではないか。 それにミロの看病にはカミュの方が向いていると思ったまでだ。」
素知らぬ顔のアフロディーテが毒薔薇の花ガラを一瞬で灰にして地中深くにうずめた。 あのあとすぐに張りなおした結界も念のため確認をする。
「まあいいさ、そのかわりミロの容態がおかしくなった時には、今度はカミュはお前のところへ駆け込むぜ、覚悟するんだな♪」
「容態がおかしくなることはない。 私の解毒剤は緩行性だが完璧だ。 ミロは薄紙をはがすようによくなるだろう。」

   その、良くなるときが問題なんだよ………
   まあいい、アフロも一度は経験するべきだ♪

アフロディーテがはさみを取り出した。
「病室に飾るなら俺に選ばせてくれ。 う〜んと………これと、これと、これだ!」
頷いたアフロディーテがはさみの音を響かせる。
こうして目覚めたミロが見たものは、心配そうなカミュと、その後ろに爛漫と咲き誇るハネムーン、ブライダルピンク、スイートハニーということになったのであった。
「アフロディーテ! ミロの様子がおかしいっ、すぐに来てくれぬか!!」
カミュの声が響き渡った。




                      
ようこ様からのキリリクです。

                      古典読本の 「 聖母たちのララバイ 」 シリーズがお好きなようこさんは、
                      その 「続き」 ということで、「 デスマスクの助言を守り通すカミュ 」という難題をリクエスト。
                      む、難しい……難しさのあまり先送りして、これではいけないと、やっと出ました。
                      出ましたが、リクエストの主旨とちょっと違ってないかしら??
                      ま、まあ、そこのところはなにとぞ大目にみてくださいませ!

                      ずいぶん長くなったものですが、
                      ミロが毒薔薇の香気にやられる状況を作り出すには、これだけの記述が必要でした。
                      途中をはしょると論理性がなくなるような気がします。
                      最後にも思い通りの情景が入ったので、私的にはたいへんに満足です。
                      リクエストがなかったら書かれなかったであろうこの作品は古典読本の99番目を飾ります。
                      ようこさん、素敵なリクエストをどうもありがとうございました!