さあ 眠りなさい 疲れきった身体を投げ出して
   青いそのまぶたを 唇でそっとふさぎましょう
   ああ できるのなら生まれ変わり あなたの母になって
   私のこの命さえ 投げ出してあなたを守りたいのです


                     「 聖女 (マドンナ) たちのララバイ 」より    歌 : 岩崎宏美


              「ミロのことで気になることがある。 少しでいいから戻ってこられないか?一晩くらいなら弟子も大丈夫だろう。」

              氷河との訓練を終えてシベリアのささやかな住まいに戻って来たカミュを待っていたのは一通の手紙だった。
              机の上に置かれたそれはデスマスクからのもので、かなり遠出していたカミュを捜しあぐねて手近の紙片に書い
              たものに違いなかった。
              「氷河、聖域に戻らねばならぬゆえ、留守を頼む。 明日には戻れよう。」
              幾つかの注意を与えながら手早く準備をするカミュの胸に不安がよぎる。 わざわざ呼びに来るからには、それだ
              けの理由がなくてはならぬが、『 気になること 』 とはいったいなんだろう?

                 シベリアにいる私を呼ぶというのは?
                 ………ミロの身になにか起こったのか?

              騒ぐ胸を抑えて、氷河の礼を受けながら瞬時に天蠍宮のホールまでテレポートする。 奥に馴染みの小宇宙が感
              じられ、その中にはミロのそれも含まれていることがカミュをほっとさせた。
              居間への廊下を進むと、ノブに手をかけるより早く、中からドアが開けられ、そこに立っているのはデスマスクで
              ある。
              「ああ、待ってたぜ! 入ってくれ。」
              招じ入れられると、そこにはムウとシャカの姿も見えたが、もとよりそれは小宇宙を識別していたので驚くことも
              ない。 驚くとすれば、シャカがわずかに困惑しているように見えたことかもしれぬ。 カミュの知る限り、シャカが
              そのような表情を浮かべたことはないのだ。
              「ミロになにか?」
              久しぶりの挨拶もそこそこに問うカミュにムウが口を開いた。
              「呼び立てるような真似をしてすみませんね。 昨日の朝、任務を終えて戻ってきたミロなのですが、ちょっと問題
              がありましてね。 我々にできることはやってみたのですが、あなたにも知らせたほうがいいと思うのです。」
              「そんな言い方じゃまだるっこしいぜ。 つまり、こういうことなんだよ。」
              横から割って入ったのはデスマスクだ。
              「ミロの任務は確かに完了したんだが、帰ってきた奴の様子がどうも普通ではなかった。 小宇宙が不安定すぎ
              て、離れた宮にいるムウまで気付いたくらいだからな。 そこで集まれるものが天蠍宮に来てみたら、なんと言う
              のかな……ひどく落ち込んでたんだよ。」
              「ミロは、ある種の精神攻撃を受けていたのだ。」
              言葉に詰まったデスマスクのあとを引き継いだのはシャカだ。
              「精神攻撃にもいろいろあるが、ミロの受けたのは、内心の不安を増大させて内側から心を侵蝕させてゆく類の
               ものだった。 その効果は緩慢で、おそらくミロが相手を倒すと同時に放たれたものを喰らったのだろう。 無事に
               聖域に帰還はしたが、その影響が出始めていて我々を呼び寄せる結果となったのだ。」
              カミュは蒼白になった。 精神攻撃の恐ろしさはよく知っている。物理攻撃とは異なり、避けるのが難しいそれは
              もっとも対処が困難な攻撃の一つなのである。
              「それで、いまミロは?」
              「私がすぐさま対処して、ほとんどの影響を取り除いた。 しかし、まだかすかな残滓があり、感情の動きが見ら
               れない。」
              目を閉じたままのシャカが寝室へのドアにわずかに顔を向け、カミュの注意をうながす。 云われなくともこの部屋
              に入ったときからミロが寝室にいることは分かっていたし、その小宇宙が乱れていることも感じてはいた。 しか
              し、精神攻撃とはカミュの予想外のことである。
              「……で、私にできることはあるのだろうか?」
              口の中が乾いて、喉が貼り付くようだ。 聖域から離れて6年近くがたち、滅多に会うことがなかったとはいえ、
              ミロはカミュにとって大切な存在なのだ。 精神に少しでもダメージが残れば、それがやがて増幅し人格を崩壊さ
              せる危険をも孕んでいるのは確実だった。
              「シャカの云うには、ミロの心にある不安は喪失感っていうやつなんだそうだが、俺の思うにはミロが抱える喪失
               感は、カミュ、お前に関係あると思うんだよ。」
              「私に?」
              青ざめているカミュにデスマスクが言った言葉は、驚きでしかないのだ。
              「ああ、そうだ。 俺たちは小さいときから一緒にここで暮らし、ある意味、家族も同然だ。 ミロはお前とはもともと
               仲が良かったが、そのお前はシベリアくんだりまで出かけてほとんどここへは戻っていない。 聖域での暮らし
               でミロが失ったものは、他には何もないはずだ。 敵は、ミロの心に忍び込んで、お前がいない空白感を巧みに
               見つけ出し、その心理的脆弱さにつけこんだのだろうよ。」
              吐き捨てるように言ったデスマスクが、心理攻撃一般を嫌っているのか、それとも心理的弱点を無意識に持って
              いたミロを惰弱だと思っているのか、カミュには咄嗟に判断がつきかねる。
              「ともかく、そういうわけで、カミュ、あなたを呼ぶことに我々の意見は一致しました。 その種の攻撃に対する第
               一人者のシャカにできるだけのことはやってもらいましたので、あとは、喪失感の原因を除去すればいいので
               はないかと思うのですよ。」
              「でも……その喪失感の原因が私だとしても………私はずっとここにはいられない……氷河の育成には、早くて
               もあと半年はかかってしまう……」
              カミュの唇が震えた。 ミロを失いたくはない。 しかし、弟子の育成に責任がある身としては聖域ばかりにはいら
              れないのである。
              「大丈夫ですよ。」
              混乱しているカミュの耳に、ムウの声がやさしく響いてきた。
              「あなたが一晩そばにいれば、きっとミロは落ち着くでしょう。 彼とて黄金聖闘士です。 親鳥に庇われてばかり
               の雛とは違うのです。 」
              「さあ、もういいから早くカミュを隣に押し込んで、俺たちは帰ろうぜ。 昨日から徹夜でミロのお守りをして、もうク
              タクタだ。 今夜は寝かせてもらわんと、こっちの身がもたん!」
              そう言ってドアに向かうデスマスクに続きながら、ムウも笑う。
              「もし私が心理攻撃を受けたら、そのときはお願いしますよ、シャカ、あなただけが頼りですからね。」
              「私の見るところ、君の心理につけ込む隙はないのだが。」
              「私もそう思いますが、ミロの立場もありますからね、一応言ってみただけです。」
              「じゃあな、カミュ、ミロのことはよろしく頼むぜ! なにかあったら,叩き起こしてくれていいからな。」

              三人が出て行ったあとで、カミュはそっと寝室のドアを押し開けた。 今までミロの寝室に入ったことはないが、
              なんとなくドキドキするのはなぜだろう。
              そろそろ夕方近くなり、もともとカーテンの引かれていたその部屋は薄暗いのだ。
              ミロはベッドの横の椅子にいた。 宙を見ている視線の先にはなにが映っているのだろう?
              「ミロ………」
              おずおずと呼んでみる。 視線が動いた。
              「ミロ、私だ……戻って来た。」
              そっと近付いて、肩に手を掛けてみた。
              「カミュ……?」
              「そうだ………私だ……わかるか?」
              「ああ………カミュ………俺のカミュだ……」

                 ……俺のカミュ……って?

              聞きなれない言葉に違和感を覚えたとき、大きく見開いたミロの目から一筋の涙が流れ、カミュをほっとさせた。
              きっとこれが、ミロの感情が回復する兆しに違いない。
              このときミロが無意識に発した言葉の真の意味は、カミュには分かっていなかったが、のちになって思い至るこ
              とになる。
              「ミロ……あまり寝てないのだろう? すこし休んだほうがいい。」
              「あ…ああ……そうだな………そうするよ」
              思いのほか従順に言うことを聞いてくれるミロに、カミュは急いで目でパジャマを探したがどこにあるのか分から
              ない。 気にしないことにして、ともかくミロをベッドに押し込んだ。
              ちょっと考えて、余っている毛布を探し出し、さっきまでミロが座っていた椅子で一晩を明かすことにする。 ベッド
              サイドの灯りを小さくつけて、水差しを用意する間も、カミュの動きをベッドの中から見守っているミロの視線が感
              じられて、なんだか面映くてならないのだ。
              「カミュ………どうしてここに?」
              「ちょっと…ミロのことが気になって戻ってみた。」
              「ふうん………」
              やがてミロのまぶたが閉じられ、唇には笑みが浮かぶ。 。 穏やかな小宇宙は精神の安定を示し、呼吸も規則
              的になっていた。
              しばらく見守っているとミロが寝返りを打ち、無防備に枕の横に投げ出された手がまるで赤子のように頼りなげ
              なのだ。 理由もなく守ってやりたいような気分になり、ふっと笑みを浮かべながら毛布の中にその手を戻そうと
              すると、眠っているミロがカミュの手を握ってきた。 すぐに離すのも可哀そうな気がして、しばらく握らせておくこと
              にした。
 
                 私がシベリアで弟子を育てている間、
                 ここに残る者たちが任務を引き受けていてくれたのだ
                 私が受けるべき試練をミロも黙って受けてくれていたに違いない……
                 ……ミロの痛みは、私の痛みも同然だ
                 こんな私でよければ、一晩でもお前の手を握っていよう

              音を立てぬようにしてそっと椅子を寄せ、握った手を毛布の中に入れるとミロの暖かさが伝わってくる。

                 朝になったら二人で朝食を食べながらいろいろな話をしよう
                 オーロラやクリオネの話をしたら、きっとミロは喜ぶに違いない
                 見たいようなら、今度、私から呼んでやろう

              暖かい小宇宙が溶け合って部屋を満たしていった。

                                

                             「 聖女たちのララバイ」 は、私のカラオケ十八番です。
                             カミュ様には母性がありますから、前作に続くこの設定で書きました。

                             このときのミロ様は、想いを胸に秘めていますし、
                             カミュ様のほうも、なにも気付いてはいません。
                             ミロ様が動くのは、カミュ様がシベリアから帰還してからのことです。