見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ
新古今集より 藤原定家
【歌の大意】 どこまで見渡しても 花も紅葉もありはしない
磯に寂しげに家があるばかりの 秋の夕暮れであることよ
朝から降り続いている雨が、あたりをしっとりとした秋の色に染めている。
一日早く戻ってきたミロが宝瓶宮に来てからもう三時間はたつだろうか、カミュの姿はまだ見えない。
なんとなく不安にかられて幾度目かに薄墨色の空に目をやったときだ、外にカミュの気配が感じられ、ミロは飛び立つように出迎えた。
「ミロ………戻っていたのか……」
その言葉が終りもせぬうちに、ミロはカミュを抱きかかえた。
「………どうした? こんなに雨に濡れて………なぜ自分で雨を防がなかった?お前なら簡単なことだろうに。」
「なんとなく…………濡れていたかったから………」
「ばかな事はよせ!……それに何処へ行っていた?心配したぜ。」
髪も服もしっとりと露を含んだようで、秋雨の風景の中に置けば溶け込んで見つけられなくなりそうだった。
「すまぬ……急に海が見たくなったのだ……」
「海?そんなものを一人で見に行くな、引き込まれるぜ。見たければ、今度、俺が一緒に行ってやるから………」
奥へ連れてゆく間も、ミロはカミュから目を離そうとはしない、いや、できなかったのだ。
足取りは重く、言葉少なで、身体も冷えて冷たかった。
「さあ、これを………カミュ」
湯から上がったカミュの長い髪を乾かしてやりながら、ミロがグラスを渡す。。
すこし眉をひそめながら琥珀の液体を飲み下すと、白い頬に少し赤味がさしてくる。
「すまない、ミロ………心配をかけた………」
「いいんだよ、俺にできることなら何でもするぜ、気にするな」
カミュの手をとったミロが、そっと頬に押し当ててみる。
凍えていた指にもようやく血が通い、暖かさが戻ってきたようだ。
前にもこんなことがあったのをミロは思い出していた。
かつて二度も命を失った記憶がそうさせるのだろうか、カミュが自らの生に無頓着になることがあるのを、ミロは薄々感じてはいる。
そのたびに、言葉を尽くして慰め、生きる歓びを教えようとできる限りの努力をしてきているミロなのだった。
ただでさえ聖闘士の日常は生と死の狭間を揺れ動く。
そんな日々の中では、誰しもいつの間にか、死に対する諦観を持つようになるものだ。
かつてミロが嘆きの壁の前で迎えた死は誇るべきものであり、その場に臨んでは怖れも悲しみもなく、むしろ希望のうちに生を終えたものだった。
しかし、カミュの場合は違っていた。
宝瓶宮で倒れ伏したときにはこの世に残してゆくものに限りない想いを残し、ハーデスから望みもせぬかりそめの命を与えられたあの時は、屈辱の冥衣と反逆者の汚名をまとって露の命を終えねばならなかったのだ。
その記憶が、ときにカミュの心を暗く閉ざし、全てのものの色彩を失わせてゆくのだろうとミロは考えている。
今日のカミュがいわば鬱状態に入り込んだのも、おそらく、ミロが一週間も聖域を留守にしたのがきっかけだったのだろう。
今朝からの雨を一人で眺めているうちに、寂寥感に囚われて海を見に行こうとしたカミュ。
吹き付ける風の中で、鉛色の海を見つめるカミュ。
濡れそぼった身体を厭うことも忘れて暗い森を抜けるカミュ。
ミロの手がいとしいものを抱き寄せ、乾いた心を慈しみで満たしてゆく。
「カミュ………いつでも側にいるから……いつもお前の心に寄り添っているから安心して……。
俺がここにいることを忘れないで………俺の宝……俺のカミュ……」
「ミロ……お前はほんとうにやさしくて………ありがとう…ミロ……」
白い手がミロの胸に添えられ、ひそやかな溜め息が漏らされる。
やがて、ミロに抱かれたままのカミュに静かな眠りが訪れた。
明日になれば冷え切っていた身体にも暖かさが戻り、ミロに照れたような笑顔を見せてくれるに違いない。
夜が明けたらお前にキスをしてやろう、とびきり上等なのをしてやるよ。
それからモーニングティーだ、俺にも淹れられるってとこをみせてやろう。
食事が終わったら一緒に海に行こうぜ、二人で森を抜けていくんだ。
明日はきっと晴れる。きっと違う海がお前の目に映ることだろう。
カミュ……カミュ………風に吹かれて笑っているお前を見せてくれ
俺に抱かれて頬を染めるお前を早く見せてくれ
いとしい俺のカミュ………なによりも大事な俺のカミュ……
宝瓶宮の丸屋根に糸のような銀色の雨が降りそそぐ。
東の空の雲の切れ間に小さな星が一つ見えた。
秋の長雨は、人にものを思わせます。
メランコリーな気分になるのはカミュ様、
そして、それを慰めいつくしむのはミロ様のお役目です。
季節の移り変わりとともに、お二人の旅は、まだ続きます。
「しみじみしっとり」 だけでなく、
華やかな紅葉もお楽しみいただきたいものですね。
標題の定家の歌は、「三夕(さんせき )の和歌」 の一つ。
「三夕の和歌」 とは、新古今和歌集の中の、
「秋の夕暮れ」 という結びを持つ、優れた三首の和歌を指します。
あとの二首は、
「さびしさはその色としもなかりけり 槙 ( まき ) 立つ山の秋の夕暮れ」
( 寂蓮 )
「心なき身にもあはれは知られけり 鴫 (しぎ) 立つ沢の秋の夕暮れ」
( 西行 )
どの和歌を選んでもよかったのですが、
海を見に行くカミュ様なので、定家を選びました。
この歌といい、枕草子といい、やはり秋は夕暮れのようです。
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