もしもピアノが弾けたなら 思いのすべてを歌にして 君に伝えることだろう 雨の降る日は雨のよに 風吹く夜には風のように 晴れた朝には晴れやかに 作詞 : 阿久 悠 歌 : 西田敏行 |
ミロがそれを知ったのは偶然だった。
娯楽室の前を通り抜けていたとき廊下に面した左手前方のドアが開いて、空の盆を持って出てきたのは美穂だ。
その瞬間、部屋の中からなんとも表現できない音が響き、ミロの注意を惹き付けた。
………え? あの音は?
あいにく、中を覗き込もうとする前にドアが閉まり、中の様子はわからない。
こちらへ向かってきた美穂がにっこりしてお辞儀をしたのをつかまえて、ドアの向こうを指差し首を傾げてみせると
「ピアノ、ピアノ」 といかにも日本人らしく二度繰り返し、片手でピアノを弾く真似をして見せたものだ。
ははぁ、この宿にはピアノがあったのか、ちっとも知らなかったぜ!
ドアには日本語でなにやら表示があったのだが、知ろうとも思わずに今まで過ごしてきたのだった。
このときはピアノの調律をしていたのだが、そんなことはミロにはかかわりのないことである。
そのときはそれだけで終わった。 もう何ヶ月も前のことだ。
次にミロがピアノの存在を思い出したのは、夏に入ったときのことだった。
カミュが海流の調査のために一週間ほどシベリアに出かけてしまい、暇を持て余していた午後のことだ。
ミロが同じ廊下を通りかかると、例の部屋のドアが開いてまた美穂が出てきた。 中からはきれいなピアノの曲が聞こえ、いかにも叙情性豊かである。
今度はドアのすぐ近くまで来ていたミロが、「ほぅ!」 という顔をして控え目に覗き込むと、若い日本人女性が一心にピアノを弾いている。
あまりにきれいな曲なので音のしないように拍手して笑顔を見せると、ピアノに感心しているのが美穂にもわかったのだろう、ちょっと待ってください、のような身振りをして中に入ってゆき、曲の切れ目を待っているようである。
その間ドアは空いていて廊下に音が流れ出していたのだが、もとより昼間のこの時間は、誰の迷惑になるというわけでもないのだ。
ミロがどうしたものかと困惑していると、曲が終わったときに美穂が演奏者になにか話し始め、その女性は振り向いて廊下にいるミロを認めるとにこっと笑って軽い会釈をする。
ミロが優雅な物腰で返礼すると、女性はいくぶん頬を染め、美穂になにか言った。 すると、すぐに美穂が出てきて、ミロに中に入るように促すではないか。
首をかしげながら中に入ってゆくと、そこはかなり広い造りで、やや中央よりに大きなグランドピアノが置いてある。
ミロは知らないのだが、濃赤褐色の鏡面仕上げが美しいマホガニーのこのピアノは東京の城戸邸から運び込まれたものなのだった。
この部屋はピアノを弾くためだけでなく、演奏を聴く目的もあるようで、居心地のよさそうなゆったりとした椅子があちこちに配置され、落ち着いたサロンの趣きがあるのだ。
椅子から立ち上がった女性がミロにいかにも初対面らしい挨拶の言葉を述べると、美穂が女性を指し示し
「れいこさん、れいこさん」 と名前を教えてくれた。 「〜さん」 というのが日本人の一般的呼称だということはミロにもよくわかる。
なるほど、自己紹介か!
目的がよくわからんが、これが国際交流というやつだな♪
そこでミロが自分を指差し、「ミロ」 とゆっくり言うと、女性はちょっと口の中で繰り返してから
「ミロさん……ミロさん」 と唱えてお辞儀をする。 これで初対面の儀式は無事終了である。
すると、美穂がミロをピアノから遠からぬ椅子に招き、ピアノを指差してから手を耳に当て、何かを聴く仕草をして見せた。
ははあ! 俺が興味がありそうだったので、ピアノを聴かせてくれるってわけか♪
カミュもいないことだし、そいつはいい時間の使い方じゃないか!
納得して椅子に掛け、れいこににっこり笑いかけてお辞儀をすると照れたようにしながら倍以上に丁寧なお辞儀が帰ってきて、ミロにここが日本であることを再認識させるのだ。
それからの1時間、れいこの聴かせてくれた演奏は素晴らしく、おおいにミロの気に入った。
れいこが選曲したのは主としてドヴィッシーとショパンで、その流麗な旋律がミロを夢見心地にさせ、当然の如くカミュのことを思わせる。
いいもんだな、ピアノが弾けるってことは!
カミュに弾いて聴かせられたら、どれほど驚くことだろう♪
なんとかならないもんかな……
そう思いついてからのミロの行動は素早かった。 夕食のときにれいこが食事をしているのを見て、やはりここの泊り客であることを確認すると、すぐにフロントに行き、宿の主人としばらく交渉をした結果、ついには当のれいこも交えて話し合いを重ね、ピアノの初歩を教えてもらえることになったのである。
訊いてみると、なんとれいこは東京でピアノ教師をしているというのであるから、ミロには願ったり叶ったりの人材だったではないか!
友人に聴かせて驚かせる、という目的も伝えたので、ともかく一曲完成させる、という限定されたレッスンの予定が組まれ、その秘密めいた企みに、避暑に来ていたれいこもおおいに乗り気になり、なにもわからぬミロでもなんとかさまになりそうな簡単かつ優美な小曲を選定してくれたのだ。 幸い、ピアノ室は完全防音である。 それからのミロは、カミュがいつ戻ってくるかわからないので寝食を忘れてピアノの前に陣取り、ミューズを味方につけるべく努力を重ねたものだ。
これまで音楽には無縁だったミロだが、もともと音感はいい。 それに、スカーレットニードルで指先の微細な動きは完璧に鍛えてあるのだ。
初めて触れる鍵盤も他愛ないほど捕らえやすい目標物に他ならぬ。 さらに背の高いミロは並みの日本人より手が大きくて、教え子の女の子達の手の小ささを嘆いていたれいこを感嘆させた。
「ミロさんはとても音楽の才能がおありです。 とても一週間前から始めた方とは思えませんわ。」
「そうでしょう! 乗馬もお上手ですし、間もなくお戻りのご予定のカミュ様もそれはそれは素晴らしいお方なんですのよ。」
練習に余念のないミロのうしろで、れいこと美穂は声をひそめて話すのだ。 近頃の生徒は集中力に欠ける場合が多く、どこの教師もそれが悩みのタネである。
さらには進学塾との兼ね合いで、これからという時期にピアノをやめる子供も多くて、れいこにはそれが悔しくてならないのだった。
音楽の世界はとても素晴らしいのに、進学という現実の前にはなんの力も持たない自分がそこにいた。
しかし、旅先の北海道で出会ったこの青年の熱心さはどうだろう! まったく言葉がわからず楽譜も読めないのだから、れいこが少しずつ弾いてみせるフレーズをじっと見て、自分の手に置き換えて行くしかないのだが、ほとんどの生徒がつっかえる左手の動きもスムーズで、右手との連動も無理がない。
曲想も、れいこが叙情豊かにテヌートを効かせ気味に弾いたのを自分なりに受け入れて、表現力も豊かなのであった。
初心者には往々にして難しいとされるペダルの踏み変えの操作も、れいこが何度か模範を見せただけでなんなく会得し、澄んだ音を響かせるのだ。
持って生まれた音感が、今にして発揮されたと思われた。
まあ! ほんとに素晴らしい才能をお持ちなのね、
短期間でこんなに成果をあげるなんて、とても信じられない♪
こんなに集中力のある方なら、きっと今までにも、いろいろな面で優れた結果をお出しなっているに違いないわ!
この方の感性だと、バッハやスカルラッティよりも、近現代のドヴィッシーやショパンから入るほうが向いているみたい、
最終的にはモーツァルトも弾きこなせるんじゃないかしら?
こんなにespressivo ( エスプレッシーヴォ=表情豊かに) で、appassionato ( アパッショナート=情熱的に)に弾けるなんて、
ミロさん自身も情熱的な方なのね、きっと!
友人に聴かせて驚かせるためというのだが、これほど集中できるとは、なんと素晴らしいではないか。
ここまで来れば、その友人が帰ってきて、この金髪の美青年の見事な演奏に驚くさまを見ないわけにはいかないが、れいこの滞在は明日までなのだ。
というわけで、東京へ帰らなければならぬれいこも、まだあったことのないカミュを待ちわびていたのである。
そして、その夜遅くカミュが帰ってきた。
「間にあったな♪」
「なにがだ?」
「ううん……なんでもない♪」
久しぶりの逢瀬がミロの胸を躍らせる。 離れの灯りはすぐに消されていった。
翌日のことである。 朝食を済ませたあとで、ミロが一人の日本人女性をカミュに紹介した。
「カミュ、こちらが東京でピアノを教えているれいこさんだ。」
「れいこともうします、はじめてお目にかかります。」
「カミュです、こちらこそどうぞよろしく。」
互いに言葉がわからないので、どうしようもないのだが、初対面の挨拶などはどこの国でも似たようなものである。
美穂もこの様子を見て、厨房から暇をもらってやってくると、通訳を兼ねてれいこと楽しそうに話し始める。 ミロのピアノレッスンのおかげで、この二人はかなり親しくなったようである。
「それにしても、カミュさんって、ほんとにおきれいな方なんですね! 美穂さんに聞いてはいたけど驚きました。」
「そうでしょう! ミロ様もおきれいですけれど、ご友人のカミュ様のおきれいなことといったら、ほんとに素晴らしいんですのよ♪」
どうやら美穂がかなり吹聴していたらしいのだが、予想をはるかに超える美質にれいこも相当に感銘を受けたらしい。
「ちょっと来てくれないか?」
そんなこととは思わぬミロがカミュをピアノ室の方角に誘うと、
「娯楽室になんの用が?」
とカミュは不思議そうである。
「ちょっと聴かせたいものがある。 それに行く先は娯楽室じゃない。」
「……え?」
ドアを開けて導かれたカミュがちょっと驚いた顔をした。
「この宿にピアノが…?」
しかし、さらに驚いたのはそのあとだ。
カミュをほどよい椅子に座らせると、ひとつ咳払いをしたミロがピアノの前の椅子に腰を掛け、おもむろに楽譜をめくったのである。
曲はエリック・サティの 「ジムノペディ 第一番」。 むろん、ミロは楽譜など読めはしないのだが、形だけは整えておこうと考えたのだ。
………え? なにをする気だ?
ミロがなぜピアノの前に??
頬を赤らめて少し興奮した面持ちのれいこと美穂も少し離れて座る。 今日はれいこにとって、北海道での一番弟子の演奏会なのである。
ミロが背筋を伸ばし、長い指を鍵盤に置いた。 緊張をほぐすようにすこし頭を振ると、波打つ金髪が光をはじきながら揺れて、カミュ以外の者に密かな溜め息をつかせるのだ。
背中にカミュの視線を感じながらひとつ深呼吸をしたミロが、左手人差し指で最初の音、Gを叩いた。低音の上に和音が重なり、響きの繋がりの上に幽玄なメロディーが乗って現れては消えてゆく不思議さが聴くものの心を魅了する。 たゆたうような和音の変化が、まだ荒削りとはいえ、十分に曲の本質を表現しているのだった。
ゆっくりとした音の流れにミロは想いを込める。
こんなに………こんなふうに、俺はお前のことを想っているよ
波が打ち寄せるように 風がささやくように お前を愛しているんだよ………
やがて最後の和音が役目を終えて、ペダルから足を離したミロがほっと溜め息をつく。
カミュは心底 驚嘆していた。 初心者とはとても思えぬ立派な演奏に、カミュは茫然としながら立ち上がり、頬を染めて振り向いたミロに賛辞を贈る。
「いったいいつの間に? 信じられぬ! お前がピアノを弾けるとは思わなかった!」
「ここにいるれいこ先生のおかげだ。 なにもわからない俺に、手取り足取り 初歩から教えてくれて、ここまで弾けるようにしてくれたんだからな♪
もちろん、実際には指一本触れてないぜ、そこだけは言っておく。」
うまく弾けたという喜びがミロの顔を耀かせ、賛嘆しているカミュを見る目には得意げな色がある。
カミュに目くばせしたミロが今度はれいこの方に向き直った。
「どうもありがとう! 」
感謝するのに多くの言葉はいらないだろうと考えたミロが、満面に笑みを浮かべて言い慣れた日本語で礼を述べ深くお辞儀をした。
はるかに背の高い金髪の美青年が頭を下げる様子はどことなく異国風で、れいこをドキドキさせたのは想像に難くない。
まるで、お伽話に出てくる王子に挨拶されたような気がしたのだったから。
それからミロはれいこをピアノに導き、椅子に座らせた。 続いてれいこが演奏したのは、ドヴィッシーの
「月の光 」 である。 この曲はミロが一番最初に聴いた曲で、それ以来 大のお気に入りになったのだ。
情感あふれる流麗な旋律が聴くものの胸に染み入り、心をつかんで離さない。
音楽っていいな♪
聖域では無縁だったが、日本にいるうちにいろいろ覚えたいものだぜ
今朝のミロはご満悦なのだ。 カミュの前で念願のピアノを披露し、おおいに感嘆させることができたし、今弾いてもらっているドヴィッシーもなんといい曲であることか!
れいこの演奏に賛辞を贈りながら皆でピアノ室を出たとき、美穂がカミュに話しかけた。
「カミュ様、こちらのれいこさんは音楽のサイトを持っていらっしゃるんですのよ。」
「ほう! それはどのような?」
「名曲スケッチっていう、有名な曲をわかりやすく解説してくれるコーナーがありますの。」
「ん? なんの話だ?」
「ミロ、お前のピアノの先生は音楽解説サイトを持っているそうだ。」
「ふうん! そいつはぜひ見たいものだ♪」
そこで美穂が、恥ずかしがるれいこを説得して、事務室のパソコンにサイトを表示させたのである。 ⇒ こちら
「EXCELLENT MUSIC SKETCH………ああ、これはよい! クラシック初心者の我々にもわかりやすい解説がついていて、曲もその場で聴ける♪お前のお気に入りのドヴィッシーもあるようだ。」
「でも、解説は日本語だから、さっぱりわからんな。」
「それなら心配ない。 日本語をギリシャ語に変換してくれるソフトをインストールするようにしよう。」
「そいつは嬉しいね♪」
パソコンを覗き込んでにこにこしているミロに替わってカミュが美穂に説明すると、そのことが早速れいこに伝えられた。
「まあ、どうしましょう!」
この二人があらたにサイト閲覧者に加わることを知り、れいこが頬を染める。
まもなく北海道を離れる彼女には、最高のプレゼントになったようだった。
出発までの残りの時間は、ラウンジでのお茶に当てられた。 美穂がいないと話が通じないので、特別に許可をもらって同席する彼女も嬉しそうである。チーズケーキと紅茶を前にして音楽やパソコンの話で楽しく過ごしたひとときは、どうやられいこには忘れられぬ旅の1ページとなったようだった。
この美青年たちに感銘を受けたれいこの音楽サイトはその後めざましい発展を遂げてゆくことになる。
二人の黄金聖闘士は見事に国際交流を果したのであった。
「どうだった? 俺のピアノ♪」
「ほんとうに驚いた。いきなりお前が弾き始めたときは、我が耳を疑ったぞ。」
「ふふふ♪ ただ残念だったのは、背を向けていたから、お前の驚く顔が見られなかったことだ。」
「それはしかたあるまい。」
「うん、だから………」
「……だから?」
「これから飛びっきりの愛し方で、お前を驚かせてやるよ♪」
「あっ……」
「ねえ、カミュ…大好きだ♪ 俺のために音楽を奏でてくれる? とびっきり情緒豊かなやつ♪」
「………」
「ふふふふふ♪」
とても好きな曲です、 「もしもピアノが弾けたなら 」。
たぶん、多くの人が共感を持つのでしょうか、変わらぬ人気があるようです。
ミロ様がピアニストだったら、あふれんばかりの情熱的な弾き方で聴衆を魅了し、
一方のカミュ様は、背筋を伸ばしてバッハの平均律なんか弾いてそう♪
で、にこりともしないクールな演奏態度で若い女性を惹きつけるんですね。
しかし、私生活では、二人のピアニストは………以下略。
さて、今回は珍しく現実の読者様にご登場いただきました。
ミロ様が弟子って、うらやましいっっ!!!
我と思わん方は、名乗りを上げてくださればご注文に応じます。
でも、エステシャンとか美容師さんは無理ですね、
なんびともお二人に触れてはなりませんので、あしからず。
ミロ様の弾いたピアノ ⇒ こちら (S6A スペシャルオーダー)
ドヴィッシーの 「 月の光 」 は名曲スケッチをご参照ください。
「ジムノぺディ」 も同じところにあります。