夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月宿るらむ |
清原深養父(きよはらのふかやぶ) 百人一首より
【歌の大意】 夏の宵の なんとまあ短いことよ
まだまだと思っていたのに もう明けてしまったではないか
月はいったい 雲のどのあたりに宿を借りているのだろうか
夜明けを見るのに二時半はあんまりだと思った俺は、夕食を取りながら理系のカミュと相談した結果、ようやく三時に起床という予定を引き出すことができた。
少しはましになったが、それにしても三時に起床するのか?
ここ日本では、「草木も眠る丑三つ時」とかいうくらいだから、起きているものなど誰一人いないのではないだろうか?
一瞬たじろいだ俺だが、すぐに一つの結論に達し、内心でほくそ笑んだのだ。
………寝なければいいじゃないか!
なんの問題もなかった。
当初は俺の提案に難色を示したカミュだが、俺の「技あり」で軍配は俺の方に上がった。
こういうのを「夫唱婦随」というのかもしれん、いや、ちょっと違うのか?
ともかく俺たちは予定通りに三時に離れを出て、再び露天風呂へとやってきたのだ。
「俺たちは」というところで疑問を感じさせたかもしれんが、今度はカミュが先に部屋を出たというわけではない。
二度目の入浴なので、湯を幾杯か身体にかければすぐに湯に入れるのだから、時間をずらす必要はないから一緒に行こう、と俺が提案し、カミュもしぶしぶ同意したのである。
といっても、それこそ恐怖といってもいいほどの怖れを見せた今までとは違い、「まあよかろう」的な感触だったのにはほっとした。
いつまでもうぶな子供のようでは困るというものである、むろん、困るのは俺一人なのだが。
今度は、俺の方が先に浴衣を脱いで中に入った、いや、外に出た、というのか、この場合は?
その間、カミュは壁を向いてじっとしていたようだ。
「見てもいいんだぜ」と言ってみようとも思ったが、ここは余計なことはしないほうがいい。
わざわざカミュの羞恥心をあぶり出す必要など、どこにもないのだ。
「先に打たせ湯に行ってるからな」
「わかった」
カミュのほっとしたような声を背中で聞きながら、外に出ると、冷たい夜気が身体を包む。
この季節でこれなら、冬場の露天風呂はいったいどのくらいに冷え込むのだろう。
この土地はかなり雪が積もるようで、なんと驚いたことに雪景色の中の露天風呂のポスターもロビーに貼ってあるのだ。
雪が積もっているということは、当然、気温は零下だろう、そんなことはカミュに聞かなくても想像がつく。
雪の戸外で裸になって風呂に入るのか?
ううむ、日本人というのはどうもよくわからん!
考えながら肩に湯を当てていると、カミュがやってきた気配がする。
お互いに視線をはずしながら、なんとかカミュも打たせ湯の下に落ち着いた。
「まだ暗いな。」
「うむ、じきに空が白み始める頃合だろう。」
それきり黙り、姿勢をあれこれ工夫して肩や腰に湯を当てていると、なるほど東の空が明るんできたようだ。
明けの明星がいっそう強く輝き始めた。
カミュの緊張もだいぶほぐれてきたようにみえるが、いま何を考えている?
身体に湯を当てながら、さっきまでのことを思い出しているのか?
それともすべてを水に流して、無我の境地っていうのに達してるとか?
長い付合いだが、さすがに打たせ湯の下での心理なんてものはわからんな………
「カミュ……いま何を考えてる?」
「私か?………そうだな……」
突然の問いに、カミュがちょっと考えたようだ。
「打たせ湯の心地よさに陶然としていたが……こういった日常も有り得るのだな、と一人で納得をしていた。」
「そうか……確かにそうだな……」
聖域にいれば、いつなんどき不測の事態が起こるかはわからない。
現に今までの短い期間にどれほど多くの危機が地上を見舞ったことだろう。
そのたびにお互い持てる力の限りを尽くして闘い、何度傷つき倒れてきたことか……。
そのことを思うと、今ここにいることが稀有のことには違いない。
「いくら聖闘士とはいえ、俺たちの年齢にしては波乱がありすぎたと思うぜ。
しかし、老師の話では今後しばらくは地上は平穏無事であるらしい。危難の芽はことごとく摘まれているということだ。」
「うむ、なにごともなく推移してほしいものだ。」
打たせ湯を浴びながらの話にしては妙に固くなったものだが、たまにはこんなのもいいだろう。
そうだ、この機会にあのことを聞いてみよう……。
「なあ、カミュ………お前、生まれ変わっても俺と一緒にいてくれるか?」
「え………」
不意の質問に、カミュがたぶん顔を赤らめたのだと思う、少しの間があったあと、
「ミロ……私は……」
俺がカミュの返事を待っていた、そのときだ。
「…あっ!!!」
カミュの突然の声に、思わず俺は振り向いてしまったのだ。
目に映ったのは、長い髪を背に流して頭から湯を浴びているカミュだった!
髪を巻いていたタオルがほどけてしまったに違いなく、すぐに立ち上がり、打たせ湯からのがれると同時に反射的に振り向いた。
「あ………お前……」
俺はそれきり絶句し、カミュの方も声も出さずに身を翻して湯の中にのがれる。
俺の心臓の鼓動がカミュに聞えているに違いないと思うほどに、それは思いもかけぬ出来事だった。
もはや夜明けまでは三十分もないのだろう、篝火の炎も何の役にも立ってはいない。
時間にすれば僅かに二、三秒だったろうか、カミュは髪を水面にたゆたせながらすばやく岩陰へ身をひそめてしまった。
間の悪いときに振り返ったもので、実にまずいことをやらかしてしまったのだが、そう思う反面、岩陰に身を隠しているカミュが、まるで岩の上で髪を梳かしていた人魚が人に見つけられて海に飛び込んで逃げるのと同じように思えて、つい笑いがこみ上げてきてしまう。
しかし、ここは謝るに限る、それ以外にできることは何もない。
「すまん、うっかり振り返ってしまって……謝るっ、ほんとうにすまなかった……」
そう言いながら、カミュをこれ以上驚かさぬように俺はそっと岩に近づいた。
ううむ、まるで、怯えきった子猫を手なづけにかかっているようだ。
「カミュ………」
岩の向こう側から長い髪が揺らめいて見えている。
カミュのことだ、きっと顎まで湯に浸かり、顔を真っ赤にして心臓の音が頭に響き渡っているのだろう
ほんとに人魚をつかまえにきたようだ、昔読んだ童話にこんなシーンがなかったろうか?
「すまん、ほんとに驚かせた………許してくれないか?」
少し間があった。
「………悪気でなかったのはよくわかっている………私はそれほど狭量ではないから……」
岩の向こうから小さな声が返ってきて俺をほっとさせる。
「すまぬ……せっかくの夜明けなのに……ゆっくり眺められない……」
「いいんだよ、気にするな……このまま空を見ていよう……それでいいじゃないか」
「ミロ………」
ささやくような声が返ってくる。
俺は岩に頭をもたせかけ、目の前でたゆたっている髪を手ですくっていた。
それはそれはきれいな髪で、さっき姿を隠す前の様子が目に焼きついて離れない。
幾つくらいのときだったろう、サガたちに泳ぎを教えてもらうために、一夏の間、海に通い詰めたのは。
あの時はカミュの髪も今ほどには長くなかったし、海の青さや泳ぎの面白さに夢中で、髪のことにはたいして気が回らなかったのだ。
それに、今のように付き合うようになってからは、カミュは海で泳いだことは一度もない。
カミュはもともと冷たい海が好みらしく、エーゲ海は暖かすぎる、としばしば言っていた。
だから、俺が海に行くときは、もっぱらデスマスクやシュラと行くことがほとんどだ。
アフロは日焼けするのが嫌だから、といって海には来ないし、俺もカミュに日焼けなどとんでもないと思っているのだからな。
ただでさえ紫外線の強いギリシャなのだ、カミュを海からできるだけ遠ざけておきたいというのが本音なのだ。
しかし、髪を揺らめかせていたカミュのなんと魅惑的だったことか!
夢を見ているような気分で俺がゆっくりと目の前に流れている髪をもてあそんでいると、不意に水の中から白い手が差し出された。
しなやかな二の腕から手首にかけて、絹をよりかけたような髪がぴったりとまとわりつき、その官能的なことは驚くばかりである。
もっとも本人は、そんなことは露も思っていないのだろうが、俺はこれを見ただけですべてが報われたと思ったほどだ。
「ミロ………一緒に夜明けを見よう……私は昨夜、そう約束した……」
さきほどまでの動揺は消え、静かな口調にやや艶めいた響きが感じられたのは俺の気のせいだろうか?
「嬉しいぜ、カミュ………」
俺はその手を取って、そっと口付けを繰り返してゆく。
岩の向こうから、俺に手を預けたカミュのひそやかなため息が聞えた。
こうして俺たちは夏至の夜明けを迎えたのだった。
ふう、カミュ様、ミロ様にお姿を見せてしまいましたね………。
どうやら雲に隠れる暇もなかったのは、月ではなくカミュ様のようです。
それにしても、長い髪のままの水の中のカミュ様、
どれほど美しかったことでしょう!
花も月も恥らったに違いありませぬ。
世界でただ一人、それを見たミロ様、やはり貴方は世界一の幸せ者です!
←戻る