折らずに置いてきた山陰の小百合   人が見つけたら手を出すだろう   
  風がなぶったなら露こぼそものを  折ればよかった 遠慮が過ぎた

                            「折ればよかった」    ブラームス 作曲   高野辰之 訳



昭王様が遅い野駆けからお帰りになられたのは、もう暗くなってからのことだった。

お出かけになられる前にカミュ様から「先に夕食を摂っておくとよい」とのお言葉をいただいていたけれど、やはりこまごまとした用事などをしてお待ちすることにした。
そのうちにお出かけになられた西の方の空が真っ暗になってきたのには驚いた。
不安になって急いで春麗さんを探しに行くと、ちょうど太后様のお使いで翠宝殿に来られる途中の回廊で会うことができたのには、ほっとした。
「 これはよいところで。太后様がご心配なさっておいでですが、カミュ様も昭王様とご一緒にお出かけになられたのですね?」
「 はい、確かに。アイオリアさまと武徳門で合流なさるご様子でしたから、魔鈴もいるはずです。」
「 そう、それなら……」
そのとたん、雷が光ったかと思うと大音響とともにどこかに落雷があったのだ。
「 きゃっ!」
春麗さんが叫ぶのと同時に天勝宮のあちこちで女の方たちの悲鳴が聞えた。
ドキドキしているとさっきから吹いていた風が急に強くなり、激しい雨が降り始めた。
「 私は太后様のところへ戻りますゆえ、貴鬼も翠宝殿に戻り、戸締りをなさい。
 きっと昭王様とカミュ様も雨をやり過ごしてからお戻りになられるのでしょう。」
そう言うと、春麗さんは来た道をなるべく雨に当たらぬようにしながら少し裳裾を上げて急ぎ足で帰ってゆく。
この間の何日も続いたひどい雨とは違って夕立なのだろうけど、昭王様が外においでのことでもあり、心配でならない。 やがて雨が上がり、すっかり暗くなってから昭王様のお帰りの知らせが伝えられると、落ち着かなかった大人たちも一斉に動き出す。
厩舎でも厨房でも忙しく立ち働き始め、紅綾殿では御衣係が昭王様のお帰りを今か今かとお待ち申し上げているに違いないのだ。 待ちきれなくて厩舎へと続く回廊の途中まで行くと、カミュ様がこちらへ向かって歩いておいでになるのが見えた。
ほっとして駆け寄り、
「 お帰りなさいませ、雨は大丈夫でしたか?雷は?」
と言いながらお召し物を見ると、不思議にも何も濡れてはいない。
いくら木の下で雨宿りをなさっても、少しくらいは濡れてしまうものなのに、と思っていると、
「 少し降られたが、案ずるほどのことはなかったのだ。昭王様にも御無事ゆえ、安心するがよい。」
と優しくおっしゃってくださった。

翠宝殿に入られたカミュ様のお召しかえと御髪のお手入れのお世話が終わるころには、昭王様の侍僕がやってきた。 昭王様は、まもなく燕を旅立たれるカミュ様とは、このごろ毎日のようにご一緒にお食事をなされるので、そのお迎えのお使いなのである。
「 では、参ろう。」
もう、暗くなっているので、カミュ様が一歩翠宝殿を出られるときには、回廊の脇の地面に篝火を掲げた下人が待機していて、歩かれるのにはなんの不自由もない。
今夜のカミュ様は、薄緑色の柔らかな練絹の長衣に若緑の帯をなさり、天竺わたりの象牙の佩玉をさげておいでだった。  この佩玉は践祚なさる前の昭王様がご愛用になっていたもので、翡翠や銀とは違い、とても軽い音がするものなのだ。  燕に来て佩玉がお気に召したらしいカミュ様のために昭王様がお選びになったこのお品をカミュ様は大切になさり、天勝宮での普段使いになさっておられる。
「 カミュ様、今日の野駆けはいかがでしたか?」
そうお尋ねすると、
「 馬にもすっかり慣れて、あと一息で昭王様に追いつけそうぞ。」
とお答えくださるものの、あとの話が続かない。
いつもなら楽しくいろいろなお話をしてくださるのに、今日はお帰りが遅かったこともあってお疲れなのに違いなかった。

紅綾殿では昭王様がお待ちかねで、さっそくお召し上がりものが次々と運ばれてくる。
アイオリア様もご同席で、雷のことや、カミュ様が雨を防いだことなどをお話しなさったので、初めて様子がわかったのだった。
カミュ様がおいでになったので昭王様が不意の雨にもお濡れにならなかったのだと思うと、お世話申し上げている身としては嬉しくてならない。
きっと明日になれば、太后様のお耳にも届き、カミュ様にお言葉をくだされるのに違いなかった。

昭王様は、だいぶ御酒をお過ごしになられたようで、アイオリア様がしきりとおとめになるが、
「 よい、かまうな!」
と仰せになり、盃を幾つもお空けになる。
カミュ様はいつもの通りあまりお話しなさらず静かにしておいでだったが、ときおりそんな昭王様を心配そうに眺められて困ったようになさっておられた。
昭王様は赤いお顔をなさり、楽しげにカミュ様にお話しかけなされるかと思えば、急に黙り込んでしまわれたりもなさる。
昭王様が盃を置かれて、カミュ様をご覧になった。
「 野駆けに行く途中、白い百合が咲いていた。」
昭王様はそこで言葉を切られて、アイオリア様のほうにお顔をお向けになられる。。
「 折り取ろうかとも思ったが、そのまま行き過ぎ、そのあとはあの雨だ。きっとひどく痛めつけられたに違いないと思うと、あの時、やはり折り取るべきだったかとも思う。どう思うか?」
「 それは……たとえ折り取って持ち帰ったとしても、やがては枯れてしまいます。
 嵐が酷なようでも、やはりそのままでおくにこしたことはありますまい。
 同じような花ならば天勝宮にもいくらも咲いております。
 わざわざ野にあるものをお選びにならなくてもよろしいのでは?」
アイオリア様がそうお答えになり、頷かれた昭王様が今度はカミュ様のお返事をお待ちになられる。
「 私は………」
カミュ様は少しお考えになられ、やがて口を開かれた。
「 折り取られて花瓶に飾られ愛でられるのと、野に置かれて嵐に吹かれる危険を待つのと……、
 さて、これは百合に聞かねばわかりますまい。」
「 ところが、百合に聞いても一向に返事がない。困ったものだ。」
昭王様が苦笑いをなさり、再び御酒を含まれる。
「 聞かずに折り取ったほうがよかったのか………いや、聞く時間すらもなかったということか……」
そのままで話は終わり、昭王様はそのまま紅綾殿の奥にお引き取りになられた。

アイオリア様は獅藝舎(しげいしゃ)に向かわれ、カミュ様は翠宝殿にお戻りになられる。
「 貴鬼、さきほどの百合の話だが、そなたならどうする?」
突然、カミュ様がお尋ねになり、ちょっと考えてしまった。
「 そうですね………自分が折り取らなくても、あとからきた誰かが折り取ってしまうかもしれません。
 そのくらいなら自分のものにしますけれど、すぐに枯れてしまっては可哀そうです。
 だから………根っこの回りから深く掘り取って、天勝宮に植えます。
 そうすれば、いつまでも元気でいて、毎年花を楽しめますし!」
「 そうすれば、百合も幸せかな?」
「 もちろんですとも!」
いい考えが出たのがなんだか嬉しくてならず、カミュ様を見上げてみると、本当におきれいでまるで百合の花みたいだと気がついた。
天勝宮の女の方々はカミュ様のことを春に咲く百花の王の牡丹にも例えているけれど、牡丹みたいな派手すぎる花よりは静かに咲いている百合の方がカミュ様には似合っていると思うのだ。

   でも、そんなことはカミュ様にはとても申し上げられないし……
   そうだ!明日、こっそり春麗さんの意見を聞いてみよう、きっと賛成してくれるだろう。

カミュ様も納得なさったようで、それきり百合の話は終わりになった。
カミュ様が燕をお発ちになる数日前のことだった。


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