さんま 苦いか しょっぱいか

                                                    佐藤春夫  「秋刀魚の歌」 より


「無理だと思うが。」
「いや、ともかく聞いてみる。」
めっきり涼しくなった九月のことだ。朝食を終えた二人がフロントにやってきた。 カウンターの向こうでは主人の辰巳がパソコンに向かっている。
「ちょっと頼みがあるんだが。」
「はい、なんでしょう?」
「七輪で秋刀魚を焼いてみたい。」
意表を突かれた辰巳が一瞬黙り、横を向いているカミュは少し頬を染めている。
「用意できると思いますが、今日は無理かもしれません。 準備ができましたらご連絡いたします。」
「ありがとう。」

「ほらね、大丈夫だったじゃないか。」
「この宿の厨房に七輪があるのだろうか?」
「いつもは使ってなくても、きっと倉庫にしまってあるんだと思うな。 俺の知るところでは七輪は純和風アイテムだ。」
たしかに純和風だが、いまどき秋刀魚を七輪で焼く家庭は珍しい。 サザエさんの家でもそれは昔の話のはずだ。 そもそも若い年代層は七輪を知らない可能性もある。

ミロが秋刀魚と七輪というレトロな組み合わせに興味を持ったのは落語に起因する。
「 目黒の秋刀魚 」 を聞いて笑うことができるくらいに日本語が上達したころ、テレビの落語解説で 「江戸のころの目黒といえば今とはちがってたいへんな田舎です。 藁葺き屋根の百姓家の縁先で年寄りが七輪に炭火を起こして秋刀魚を焼いているところを想像していただければいいですね。 むろん古びた団扇でパタパタとあおいでいるわけです。」
などというのを聞いてから、秋刀魚と七輪はミロの頭の中に確固たる地位を築き上げたのだ。

「明日の昼食に秋刀魚をご用意しますので、11時45分に厨房にお越しください。 お二人にご自分で秋刀魚を焼いていただけます。」
昼食のうな重と茄子の揚げ出しをいつもの席に運んできた美穂がそう教えてくれた。
「よかった、ありがとう。」
「私も七輪で焼くのを初めて見ますので、楽しみですわ。」
「え、そうなの?」
「ええ、七輪もテレビでしか見たことがないんです。」
「やはり現代では使われない道具なのだろうか?」
「そうですわねぇ、いまはガスレンジやロースターで焼くのが普通ですし。 でも炭火で遠火の強火というのが一番美味しいそうです。」
「それならよかった!ところでこの茄子の揚げ出し、お代わりあるかな?」
「私も頼みたい。」
「はい、ただいまお持ちいたします。」
ミロが茄子の揚げ出しを好んでいるのは厨房にも知られているので余分に用意されているのはいつものことだ。この宿で昼食を食べるのは二人だけなのでそこは自由が利く。
「秋茄子は嫁に食わすなって知ってる?」
「うむ。 秋茄子はあまりに美味しいので嫁に食べさせるにはもったいないという説と、秋茄子はアクが強くて身体を冷やすのでおなかの子に障るといけないから食べさせぬほうがよいとの二説がある。」
「嫁いびりと嫁の身体を気遣うのと両極端だな。」
「なんにせよ、我々には関係がない。」
たしかにカミュは嫁じゃないけど、とミロは考える。

   身体を冷やすというのが事実なら食べさせたくはない
   いくら凍気の聖闘士といっても身体を冷やすのは好ましくないからな

そんなふうに考えたミロがその夜にカミュをいかに暖めたかはご想像にお任せする。

翌日の11時45分きっかりに厨房に現われた二人は裏手の庭に通された。
「こんな所で恐れ入りますが、なにしろかなり煙が出ますので外のほうがよろしいかと。」
「もちろん、かまわない。 ああ、 よく火が熾 ( おこ )ってる!」
板前が先に炭に火を熾していて長方形の七輪がカッカと熱を出している。
「丸いかと思ったけど?」
「近頃は秋刀魚を焼くのにふさわしい形のものも出ていまして。 七輪は珪藻土で作りまして、普及品は練り物ですが、これは塊のままで切り取った珪藻土を彫って作ったものです。 このほうが遠赤外線がよく出まして焼き上がりが美味しくなります。」
「それは楽しみだ!」
炭の火は落ち着いていてうっすらと白い灰をかぶり焔を上げるようなことはない。 このくらいが焼き頃なのだそうだ。
「秋刀魚は今朝港に上がった極上品です。 このように、」
板前が用意されている秋刀魚の口の部分を指差した。ぴかぴかと輝く秋刀魚は秋の日をいっぱいに浴びている。
「このくちばしのところが黄色くなっているのはよく脂が乗っている証拠です。」
「ふうん、人間のくちばしの黄色いのとは逆なんだな。」
日本語に習熟したミロはこのくらいの言い回しは軽々とこなす。
「秋刀魚に限らず魚は遠火の強火がよろしいです。 ひっくり返すのは一度だけ。 何度もひっくり返すと身崩れしてしまいます。」
「魚は大名の子に、餅は貧乏人の子に焼かせろっていうわけね。」
「ミロ、それは差別では?」
「でもそう覚えたぜ。江戸時代の諺だろうから、差別なんて目くじら立てないで文化遺産と呼ぶべきだな。 それともなんだったら魚はO型に、餅はA型にって言い換えるか?風情に欠けるが。」
「しかし、血液型による性格分類は、」
「うん、まったく根拠がない。だからこのままでいいと思うけど。」
いかにもこの二人らしいやり取りの終わるのを待っていた板前が二人にうちわを渡した。
「このうちわで風を送って火勢を強めればよいのか?」
「それとも煙が目にしみないようにあおぐとか?」
「というよりは秋刀魚から落ちた脂が燃え上がって秋刀魚を真っ黒に焦がすのを防ぐために煽いで火を消すとお考えください。 油断しているとほんとに中が生焼けのままで外側だけが黒焦げになります。」
「ほう!そんなに脂が!」
「ええ、その煙もすごいので室内で焼くのはやめたほうがよろしいですね。」
板前が七輪に載せてあった網に油を塗った。
「こうしませんと魚が網にくっついてよろしくありません。 それからこのようにして遠火の強火にします。」
七輪のふちの四つの角に同じくらいの太さの炭を置いてその上に網を置くと用意は出来上がりである。
「忙しいところを申し訳ない。」
「いえいえ、今の時間は仕込みもそれほど忙しくありませんし、私どもも七輪で秋刀魚を焼くというのは滅多にやりませんので珍しくてよろしいです。」
気がつくと手の空いたスタッフが珍しそうに近くの窓からこの様子を見ている。 その中にはむろん美穂もいて嬉しそうにしているのだ。
「ではいくか!」
「うむ。」
秋刀魚が頭を右にして網に乗せられた。

極上の秋刀魚はジュウジュウと脂を滴らせ、そのたびに燃え上がる焔を消すのに二人は懸命だ。
「うわっ、また!」
「ミロ、もっと煽がぬと黒焦げになる!」
「俺とお前が両方から煽ぐと相殺されて風が消えるってことはないのか? 物理的にはどうなんだ? あっ、また火がっ!」
パタパタと煽いでいるうちに、網を持ち上げて裏から焼き具合を確認した板前が手際よく秋刀魚を裏返した。 いかにもいい匂いが漂い、一同の食欲を刺激する。
「あと少しで焼きあがります。」
なおも煽いでいると厨房から主人の辰巳が現われた。
「そろそろですかな? 僭越ながらこの秋刀魚のいちばん旨い食べ方をお教えしましょう。」
「というと?」
カミュが振り返ると辰巳は手にビールと割り箸を乗せた盆を持っている。
「本来ですとこの秋刀魚を長皿にのせまして食事処でお召し上がりいただくのですが、ここはやっぱりこの場でつつきながらビールを飲むのが最高でして。」
「でも私は…」
「カミュ様にはノンアルコールビールをご用意させていただきました。」
「ああ!それいいな! それならOKだ!」
さすがに網に乗せたままでは焦げるからと、庭に出てきた美穂がジュウジュウ音を立てている秋刀魚を長皿に乗せスダチと大根おろしが手早く添えられた。 入れ替わりに板前が、秋刀魚だけではと、椎茸としし唐を網に乗せた。 美穂がビールの栓を抜こうとしたとき、
「ええと、すまないけどこの機会に缶ビールっていうのをそのまま飲んでみたいんだけど、あるかな?」
ミロが珍しいことを言い出した。
「缶ビールですか? ええ、ありますが。」
辰巳に指示された美穂が厨房に取りに行った。
「缶ビールで飲むのか?」
「テレビじゃ、外で飲むときはみんなそうしてる。 どんな風なのか一度やってみたかったんだよ。 まさかいつもの食事処じゃできないだろう?」
どうやらミロは冷えた缶ビールをぐいっと飲むのに一種の憧れを抱いているらしく、美穂が持ってきた缶を嬉しそうに受け取った。
「日本のビールは美味いからな。 お前が飲めないのは残念だが、俺の知るところ、そのノンアルコールビールは評判がいい。 まあまあ飲んだ気分が味わえると思うぜ。」
「うむ。」
そうして飲んだノンアルコールビールはいたくカミュの気に入った。 泡こそ早めに消えたものの、ほんのわずか口にしたことのある本物のビールに比べて味も香りも遜色ないように思われたのだ。
あとで試しに飲んでみたミロの考えではちょっと気の抜けた発泡酒といったところでまだまだ物足りないのだが、滅多に飲まないカミュにとっては本物とさして変わりがないらしかった。
「ああ、ビールを飲むというのはこんな気分がするのだな。」
ちょっと頬を染めたカミュが照れたように笑う。
「そうだよ、悪くないだろう?」
「うむ、なかなかよいものだ。」
さっき七輪に乗せておいた椎茸やしし唐も食べ頃となり、ますますビールが進んだのは言うまでもない。
ずっと逗留しているカミュがアルコールに弱いのはよく知られており、そのカミュがノンアルコールとはいえビールと名のつくものを楽しんで飲むようになったことはすぐに宿中に知れ渡っていったようだ。

「よかったじゃないか、飲めるようになって。 ノンアルコールとはいえビールはビールだからな。」
ほんとのところは、アルコールの入ってないビールなど認めん!という気分だが、そんなことはカミュには言わない。
「うむ、これでお前の晩酌の相手ができる。」
「しかし面白いものだな。 ノンアルコール日本酒とかノンアルコールワインはないのにビールにはそれがある。」
「需要のあるところに供給ありだ。 飲酒運転の防止にも一役買うに違いない。」
夕食にもノンアルコールビールを飲んだカミュは、ミロと一緒に飲めるのがよほど嬉しかったのか頬をほんのり染めている。
「では、ノンアルコールカミュを試させてもらおうかな。」
「あっ…」
「アルコールはないけど今夜は俺が酔わせてやるよ。酩酊したら介抱してやるから安心して。」
「ミ…ロ……」
こうして初秋の一夜をミロは十分に味わった。

「さんま、苦いか しょっぱいか、って知ってる?」
「それは佐藤春雄の詩の一節だ。」
「そこで俺も詩を作ってみた。 いわゆる本歌取りだと考えてもらえばいい。」
「ほう!どんな詩だ?」
「カミュ、甘いか酸っぱいか」
「え?」
「だから、お前を抱くと甘いし、恋は甘酸っぱいし。」
「ばかもの…」
「ふふふ。」



            
秋刀魚と七輪。
            日本の秋の風情ですが、もはや文学上の調理法?
            うちの物置にも災害対策用に七輪と木炭があるのでこんど焼いてみます。

            七輪 ⇒ こちら
            まったく知らなかった炭の爆跳の話 ⇒ こちら


            佐藤春雄 ⇒ 「秋刀魚の歌」
                      開いてみて驚きました、うちの素材と同じだ!
                      どのページもkigenの素材が出てきて、なんだか自分のところを見ているみたい。
                      文学解説という点でも近しいものを感じたりして。 ←勘違い

            「秋刀魚の歌」 の裏事情 ⇒ こちら
                                    波乱万丈の恋愛譚です。