咳をしても ひとり |
尾崎 放哉
カミュがいない。
広い宝瓶宮の空間が、ミロにはいつになく冷たく思えた。
今までも、ここの空気が冷たいと思ってはいたのだ、
しかし、今となってみれば、それはカミュの小宇宙の独特の暖かさだったのだろう。
ミロは気付いていなかったのだ、カミュの存在が宝瓶宮の空間をやさしく暖めていたのを。
しのびやかに足を踏み入れたこの宮は、もはやミロの足音が響くだけだ。
高い天井に反響するそれが自分のものだけであることに気付き、さらに寂寥感が増してくる。
「カミュ………」
小さな声で呼んでみた。
耳を澄ましても、答えるものは何もない。
そっと咳払いをしてもみた。
カミュの気を惹こうと、よくやったものだ。
咳をしてもひとり。
こだまだけが帰ってきた。
尾崎放哉 ( おざきほうさい 1885〜1926) は、
エリートコースを歩みながら世に入れられず、
漂泊の旅を続け、小豆島で寂しく世を去った俳人です。
咳をしている影姉の一言からこの短編ができました。
日記に現われたものより少し言葉を精選して古典読本に編纂です。
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