おさない私が胸こがし 慕いつづけた人の名は
         せんせい せんせい それはせんせい

                             「 せんせい 」     作詞  : 阿久 悠   歌手 : 森 昌子


シベリアの植生はタイガと呼ばれる針葉樹林がその大半を占め、乾燥と極寒の大地がどこまでも続く。
しかし、アイザックが連れて来られたこの土地はそれよりはるかに緯度が高く、わずかばかりの地衣類が地表を覆っているだけなのだ。
「木も草もない………!」
アイザックが最初に思ったのはそれだった。 それまで住んでいたフィンランドも寒いことは第一級だったが針葉樹林の森がどこでも続き、夏になれば様々な花が咲く。
しかしここはどうだ? 高い木などはるか向こうに見える地平線を見透かしても一本もありはしない。 ましてや可憐な花を咲かせる草花など皆無なのだった。
「あの………先生、木がないのはなぜ?」
引き合わされたばかりの師におずおずと訊ねると、
「このあたりは寒すぎて木が育たないのだよ。 夏になれば草は生えるけれど、低温と強風のせいでとても背が低くて地面に張り付いているように見える。」
そう説明してくれる師の横顔がちょっと寂しそうだったのをアイザックは今でもよく覚えている。

そんな寂しい景色の中で訓練に明け暮れる生活はけっして楽なものではない。
大地の色が見える短い夏はともかく、本格的な冬が訪れるとささやかな住まいの外は白一色で塗りつぶされて刺すような寒気が骨まで滲みる。 カミュは厳しすぎはしないが訓練ともなればさすがに叱咤の声が飛び、まだ子供のアイザックにはうらめしく思えることも多かった。
「今日はこれまで。 よく頑張ったな。」
そう言ったカミュが立ち昇る小宇宙を収めて柔らかい笑みを見せる瞬間がアイザックにはこよなく嬉しい。
訓練中はあんなに厳しいのにどうしてこんなにやさしくなれるのか不思議に思うのだ。
「先生、早く先生みたいに立派な聖闘士になれるように頑張ります! その日までもっともっとたくさんのことを教えてくださいね!」
「私にできることはなんでも!アイザックが一生懸命にやればきっとできる。 さあ、もう帰ろう。」
夕暮れの迫る氷原を帰る道すがらつないだ手の暖かさがアイザックには嬉しくてたまらない。 すでに親のないアイザックにはカミュが唯一の身寄りのようなものなのだ。
寝室こそ別だが、熱を出して一晩中苦しんだときには手を握って看病してくれたし、食事の用意も掃除も勉強もなにもかも一緒に過ごすのだ。 いきおいアイザクッの目にはカミュしか映らなくなり、それも飛び切りの冴えた美貌と卓越した凍気の技を持つ黄金の聖闘士ともなればカミュが崇拝と敬愛の対象になるのはわけもなかった。
こうして誰一人訪れる者のない極寒の地でカミュはただ一人の小さい弟子の愛を一身に受けることになった。

半月に一度はいちばん近い村に買出しに行く。 いちばん近いといっても子供の足では往復5時間はかかる一日仕事である。
最初のころはカミュと二人で出掛けたものだがこの頃ではアイザック一人のこともある。 初めてそう言われたときはどきどきしたが、大事な買い物を自分ひとりに任せてくれるのだと気がつくとそれもまた誇らしい。
重いものはカミュと行くときに買ってくるので、一人で行くときは手紙の受け取りとか、小さい、しかし、なくては困る品物の買出しに限られるから子供にもできるのだ。
初めてカミュと出かけたときは何もかもが珍しくて緊張したがこの頃では店の主人とも馴染んでなんとか話もできる。
この店では郵便の仕事も受け持っているので、半月の間に届いていた2、3通の手紙を受け取っていたときだ。 店に入ってきた若い娘が大きな花束を受け取りに来てその鮮やかな色合いがアイザックの目を奪った。 まだ冬の真っ只中でそんなものは村中探してもどこにもないに違いない。
目を丸くして振り返っているアイザックに店主が教えてくれた。
「あの子のうちの年寄りが90になるっていうんでそのお祝いの花束を注文してあったんだよ。 ここらじゃ花は手に入らないからずっと遠くの町から運んでもらうんだ。 」
「ふうん………すごくきれいだね。 」
大事な手紙をポケットに入れて店をでようとしたアイザックが立ち止まった。

   あんなきれいな花、先生にあげたいな  きっと喜んでくれるにちがいない
   でも高いんだろうな………そんなにお金持ってない………

迷ったあげくに訊いてみた。 わからないことは自分だけで決めないで人に相談してみるのも大事なことだとカミュから教えられているのだ。
「あの花って、一本いくらくらいしますか? 先生にあげたいんだけど。」
この小さな子供と時々一緒に来るカミュのことは村でも知られていて、子供から先生と呼ばれているのも店主は知っている。
「あの花はねぇ、遠くから運んでくるからずいぶん高いんだよ。 それに一本だけでは少なすぎて届けてくれないしね。」
気の毒そうに教えてくれた値段はアイザックには手が届くものではない。 村でお菓子くらいは買ってこられるようにとカミュから渡されたお金ではただの一本も買えないのだった。 今までの何回分かのお金を貯めておいたとしても無理だったろう。
真っ赤な顔で勇気を振り絞ったらしい小さい子供ががっかりしているのを見るに忍びなかったのだろう。 店主が助け舟を出してくれた。
「来月にも花束の注文があるからそれと一緒のときでいいなら注文できる。 うちの店の周りの雪かきをしてくれれば飛び切りいい花を一本あげられるがどうかね?」
アイザックはこの話に飛びついた。 まだ小さいけれど日頃の訓練で雪かきくらいは簡単にこなせる自信があるのだ。
「お願いします! 雪かきでも何でもやりますっ!」
そこで店主はアイザックに小さめの、それでもかなり大きかったのだが、シャベルを渡し、2時間頑張ったアイザックの仕事ぶりが店主を驚かせることになった。
「ほぅ! 小さいのにすごいな! これなら二本分の働きだ! それじゃ、来月の7日においで。 その日に花が届くんだよ。」
「はいっ!」
花の名前も聞かずに喜び勇んで飛ぶように帰ったアイザックを、帰りが遅いのを心配していたカミュが出迎えた。
「予定より遅かったが、なにかあったのか?」
「はい、とてもいいことが! でもまだ内緒です!」
アイザックの嬉しそうな様子にカミュは首を傾げたが、内緒というのでは訊いても仕方がないと思ったのだろう。 温かいお茶を飲ませて暖炉の前で冷えた手足を暖めるようにと招いてくれた。

   ほんとに先生はやさしくて!
   花をあげたらどんなに喜んでくれるだろう!

アイザックの覚えている限りでは、この住まいに花があったことはない。 衣食住に最低限必要なものは揃っているが、それ以上の贅沢をカミュは必要とせず、この環境ではそれも当然だった。
こうしてアイザックは指折り数えてその日を待った。

指定された日が吹雪にならないようにという祈りが聞き届けられ、当日は朝から風もないいい天気だった。 手紙が来ていないか村に見に行く日を理由を言わずに7日に決めたアイザックが勇躍出てゆき、後にはカミュ一人が残り読書を始めた。
「おじさんっ、こんにちは!!」
元気一杯で店に飛び込むとにこにこ顔の店主がアイザックを出迎えた。
「早かったね、さあ、これだ。 満足してくれるかな?」
手渡されたオレンジのバラの花はきれいなセロハンで包まれて赤いリボンが結んであった。
「わぁ、きれいだ!」
花束を持つのも初めてなら、師カミュにプレゼントを贈るのも初めてだ。 真っ赤な顔でお礼を言って、手紙が来ていないのを確かめるとアイザックは氷原を飛ぶように戻っていった。
「先生っ!」
勢いよくドアを開けて飛び込んでいったとたん誰かにぶつかりそうになった。
「え?」
びっくりして見上げると金髪の背の高い青年がやはり驚いたような顔で見下ろしている。
「あ……あの…」
どぎまぎしていると、奥からカミュが現れた。
「これがアイザック、私の弟子だ。 アイザック、紹介しよう、私の友人のミロだ。 はるばる聖域から来てくれた。」
「ミロだ。 どうぞよろしく!」
笑顔とともに大きな手が差し出され、急な紹介に混乱しながら握手をしたときテーブルの上に置かれた大きな花束に目がいった。
それは素晴らしい赤いバラと白百合で、初めて見たアイザックには名前も知らない花だったが添えられたカスミ草がさらに豪華さを演出しているように思われた。
「あ…」
アイザックがぽかんと口を開け、そのとたんミロとカミュは小さな手が大事そうに握り締めているものに気付いたのだ。
「アイザック…」
事態を察知したカミュが声をかけたときにはアイザックは外に走り出している。
「行ってやったほうがいい。」
ミロにうながされたカミュが外に出て行った。

山も丘もない氷原にはとくに行くところもなくて、アイザックは途方に暮れた。 冷たい風が涙の滲む目に沁みて前がよく見えないがぶつかるものもありはしない。 唇を噛みしめながら行くあてもないのに出てきてしまったことに気付いて立ち止まったときだ。 すぐそばにカミュがいるのに気がついた。
「アイザック。 私だ。」
肩に置かれた手はとてもやさしくて温かい。
「先生………あの…」
泣くまいと思っているのに、涙はそれを裏切って次から次へとあふれ出す。 あっと思うまもなく抱き上げられた。
「その花は私のために?」
「ん…」
歯を食いしばって頷いた。 熱い涙が頬をつたうそばから風に吹かれて散ってゆく。
「ありがとう、こんなになにもない土地でよく用意できたね。 ありがとうアイザック………とてもきれいな色だ。」
崇拝するカミュに抱かれたのも初めてなら涙を見られたのも初めてだ。
悔しくて哀しくて恥ずかしくて嬉しくて、アイザックは温かい胸に抱かれたまま ただひたすらに泣いていた。

その日の夕食にはアイザックが今までに見たことのない料理が並べられ、かつてあったためしのないワインの瓶までもが興を添えた。
テーブルには二本のオレンジ色のバラが飾られて、ミロの持ってきた花のほうはどこにも見えないところをみるとおそらくカミュの寝室にあるのかもしれなかった。
「ほら、これがチョコレートケーキだ。 ケーキが好きならこの次にはもっと他のも持ってこよう!」
「わぁ…!」
ケーキを知らなくはないが、村に行ったときにたまたま見かけるそれはもっと素朴で種類も限られている。 しかし今目の前にあるケーキはミロがアテネで吟味してきただけあっていかにも洗練された美しさだった。
「カミュはここでケーキを作ってくれるのか?」
「先生が? ううん、そんなことはないです。」
驚いたアイザックがぶんぶんと首を振る。 カミュは料理は作ってくれるがケーキと名のつくものが食卓にのぼったことはない。
「それなら明日は俺が一つ作ってやろう。 店で買う立派なケーキもいいが、自分で努力して手に入れることも大事だからな。」
三人の目が期せずしてオレンジ色のバラに注がれる。 暖かい部屋に置かれたバラは少し開き始めていて芳しい香りを放っていた。 頬を染めたカミュがケーキを取り分けてアイザックの皿に慎重に置く。
「私だってレシピを見ればケーキくらい作れるが。」
「で、ケーキのレシピある?」
「………ない。」
「それじゃ、作れないだろ。 そんなことだろうと思ってケーキの本と型を持ってきたから大丈夫だ。 誰でも作れる。」
「では明日は三人でケーキを作ろう。」
この案はさっそく受け入れられて、アイザックの希望でミロが持ってきたイチゴを使ってタルトを作ってみることに意見が一致した。 和気藹々と食事を終えてカミュが席をはずしたときにミロがアイザックを手招いた。
「オレンジのバラの花言葉を知ってるか?」
「花言葉?」
小さいときからここで暮らしているアイザックは花言葉ということもまだ知らない。
「どんな花にもそれにふさわしい言葉があって、人に花を贈るときには自分の思いをそれに乗せて贈るものだ。 オレンジのバラの花言葉は信頼と絆だ。 いい花を選んだな。」
「あ……はい。」
思いもしなかったことを言われたアイザックが頬を紅潮させた。 実のところは花を選ぶことなどできなかったのだが、あの花にめぐり合ったのは神様の思し召しとしか思えない。
「そしたら、あの……どの花にも花言葉があるのなら、赤いバラと百合の花言葉って?」
情熱と純潔という言葉がミロの心に浮び一瞬たじろいだときだ。 カミュが部屋に戻ってきてアイザックの注意がそらされた。
「さあ、もう遅い。 そろそろ寝る時間だ。」
「はい、先生。」
カミュの頬にお休みのキスをしたアイザックがミロにも挨拶をして寝にいった。
「いい子じゃないか。」
「ああ、ここに来たときよりずいぶんしっかりしてきた。 来月にはもう一人の弟子が来る。 兄弟子になるというわけだ。」
「ふうん………早いもんだな。」
「さあ、せっかく来てくれたのだから話をしたいのは山々だが私たちもそろそろ寝よう。 ここでは食事を終えたら眠る決まりだ。 」
「体内時計?」
「そういうことだ。」
「俺もお休みのキスしていい?」
「ばかなことを。」
冗談めかしていった言葉はあっさりと否定され、苦笑いしたミロが立ち上がる。
「それじゃ、また明日。 ケーキつくりの腕を見せてやるぜ。」
「それは楽しみだ。」
自室へと入るカミュを見送ったときドアの隙間から赤いバラの色がちらりと見えた。
「情熱と純潔か………俺の体内時計は情熱の方に傾いているんだが、まだまだお前は先生ってわけね。」
肩をすくめたミロが部屋に入りドアを静かに閉ざした。





    年末のレコード大賞の番組を見ていたら、これまでの受賞曲がダイジェストで流れ、その中にこの曲が。
    どうして今まで気付かなかったのか不思議なくらい、この歌はシベリアン!
    そこでどうしてもアイザックの話を作りたくなって、
    ミロがシベリアに花を持ってくる理由を考えましたがやはり誕生日かと。
    一ヶ月ほど早いですが鉄は熱いうちに打て!

    オレンジのバラが2本なのは、いつもの素材サイト様にこの絵があったから。
    信頼と絆ってちょうどいいですね。