白玉の歯にしみとおる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり

                                           若山牧水

                                【歌の大意】    今宵 清明な秋の夜
                                          こんな夜は静かに酒を飲もうではないか
                                          秋の夜も 酒も 歯にしみとおってくるようだ


日暮がた、牧場から戻ってきた私達を宿の主人が呼び止めた。
といっても主人と英語で会話できるのは私だけなので、そばにいるミロは所在なさげだがしかたもあるまい。
聖域を発つ前に、日本語の簡単な挨拶だけは覚えさせたのだが、英会話は付け焼刃ではどうにもならぬのだ。
「 今度はなんの話だ?」
歩き始めるとすぐにミロが訊いてきた。
「 なんでも、気流が悪くて空港が閉鎖され、今夜の予約客はすべてキャンセルになったのだそうだ。
 昨夜の宿泊客は全員チェックアウトしているので、今夜は私達だけがこの宿の客ということになる。」
「 ふうん、それはまた珍しいな。」
確かに、この宿は人気が高いようで、離れが五つしかないこともあり、半年以上先まで予約で埋まっていると聞いている。
キャンセル待ちの客も多いのだろうが、おそらく皆、日程が合わなかったのだろうと推測された。
「 だが、ご迷惑をおかけすることはない、と主人が言った。」
「 え?他の客がいないからといって、何が俺達の迷惑になりそうなんだ?」
ミロが首をひねる。
それはそうだろう、私も主人の話を最後まで聞くまでは、話の趣旨が把握できなかったのだ。
「 離れで提供するサービスはむろん変わりないが、
 そのほかの施設、たとえば露天風呂などは、私達が使う使わないにかかわらず通常通り用意されているということだ。」
「 なにっっ!!!」
ミロの顔が輝いた。
こんなときのミロの思考の軌跡ほど予測し易いものはない。
「 するとなにか? 今夜は誰はばかることなく、お前も露天風呂を楽しめるってことじゃないのか!」
「 うむ、他の客が入浴することはないので、実質上は家族風呂となんら変わりあるまい。」
「 信じられんっ!俺はこのときを待っていたんだぜ!」
ミロがいかにも嬉しそうに笑う。

明言しておくが、この場合のミロの思考には、なんらやましいものはない。
初日の夜中、ミロが一人で露天風呂に入りに行ったのは私も聞いている。
私には到底考えられないことだが、他の客に遭遇する危険を冒してでも敢行したのだから、よほどに興味があったのだろう。
その勇気には敬意を表しなくてはならぬと思う。
そして、露天風呂というものに大いに感心したミロは、翌朝になって目覚めるとすぐ、その魅力について大演説をおこなった。
朝食の間もしゃべり続け、時々、
「 カミュ、ああ、お前にもぜひ経験させたいものだがな!」
と、嘆息して見せたのだ。
ゆえに、ミロの心情は、私に露天風呂を経験させ理解させたい、この一点に尽きるのだ。

ミロの話では、露天風呂というのは庭の中にあり、母屋から続いた廊下の端に更衣室があるのだそうだ。
室内ではなく屋外で入浴するというのは常識では理解しがたい習慣だが、雰囲気を損なうことなく目立たぬように囲いが作ってあるので誰からも覗かれる心配はないとミロが力説してくれた。
しかしながら、部屋に備え付けてあるパンフレットを見ても、実際に入浴したミロの話を聞いても、どうも池で入浴するようで不自然極まりないと思えるのだが、そう言ったらミロはひらひらと手を振って否定した。
「 違うぜ!お前は入ってないからわからんのだ。
 俺が露天風呂に行ったのは夜中だが、空には星が数え切れぬほど輝き、聖域で見慣れた星座も見分けられる。
 月光を浴びた雲がゆっくりと流れ、聞えるのは水の音と虫の声だけだ。
 知ってるか? 日本では、虫の音といわずに虫の声というんだぜ。
 俺たちにはノイズにしか聞えん虫の鳴く音が、日本人には虫の声に聞えるんだそうだ。
 これを知ったときには呆れたが、実際に露天風呂で聞いてみろよ、心に沁みるんだからな。
 そんな中で入浴すれば誰でも、心静かに自然の懐にいだかれているという気分になるっていうものだ。
 それに、灯りは人工照明じゃないんだぜ、なんと篝火だ。
 ああ、天勝宮と同じだ、と俺は不思議に感動したな。昭王にも味わうことのできなかった、ある意味では贅沢には違いない。
 ともかくあの心地よさは入って見なきゃわからんぜ!」
ミロがこれほどに熱意を燃やして私に勧めてくれるのだから、入らぬわけにはいくまい。
そこで、私はいつもの通り、浴衣とタオルを持って先に出かけた。

「 ほう!」
なるほど、ミロの言った通りだった。
一見したところ、庭の中の池としか思えなかったのだが、広々とした水面から湯気が立ち昇り、確かに温泉であることを示している。
透き通った湯の底には青緑色の不定形の自然石が敷き詰められていて、湯のふちに人工的にしつらえられた石組みの中からは、かなりの量の湯がこんこんと湧き出していた。
周囲があまりにひらけていて見通しがよく、そんなところで衣服を身につけない状態でいることには心理的にかなり抵抗があり、さすがに心拍数が上がってくる。
誰もいないことは論理ではわかっているのだが、なんとなく心急いて手早く髪と身体を洗い肩まで湯に浸かったところでほっとした。
そこで、あらためて周囲を見回すと、なるほど室内とは異なり、開放感に満ち溢れているのがよくわかるのだ。
初夏の六月とはいえ、夕刻の風はかなり冷たさを感じさせる。
しかし、外の風に吹かれているにもかかわらず、身体は透き通った湯に浸かって暖められる。
空を見上げれば宵の明星が美しく輝き、確かに自然と一体になっている気がしてくるから不思議なものだ。
なるほど、露天風呂とはこういうものか!

くつろいでいると、ミロがやってきた気配がした。
少し緊張していると、
「 入るぜ。」
わずかな水音がして、いつものことながらドキドキせずにはいられない。
ミロが湯に浸かったタイミングを見計らってそちらを見た私は驚いた。
ミロの胸の前に丸い盆が浮かび、その上には日本の酒の銚子と盃のセットが載っているではないか!
「 ミロ…………それはいったい……!」
「 ふっふっふ、驚いたか!」
ミロは我が意を得たり、とばかりに得意顔をする。
さすがにこれには驚いた。
ミロのやることにはたいてい慣れているのだが、いったいどうなっているのだ?
「 実は、ここに来る前にロビーの隅に貼ってあるポスターに目が行った。
 紅葉の綺麗な季節の温泉の写真なのだが、
 その端に、露天風呂に浸かりながら酒を飲んでいる客の様子を写した写真が載っているではないか。
 もしかしたら、と思った俺は、馴染みの従業員をつかまえてそこに引っ張っていき、
 その写真を指差して次に自分を指差してみた。
 それで話は決まりだ。少し待っていると、この盆を手渡され、露天風呂の方向を指し示されたというわけだ。」
得意然としてそう言うと、ミロは私に盃を持たせた。
さすがに当惑した私が、入浴による体温および心拍数の上昇、血管の拡張、アルコールの血中濃度、などを考えていると、ミロがにやりと笑う。
「 いいか、飲みすぎるなよ。
 お前はただでさえ飲める量が限られているんだから、もし、度を過ごしたら湯の中で引っくり返るぜ。
 お前、その格好で俺に助けられたくはないだろう?」
   
    とんでもないことだ! 考えただけでも気が遠くなるっ!

私は思わず顎まで湯につかり、慌てて深く頷いた。
ミロはくすくす笑うと私に酒をつぐ。
なるほど!室内で飲むのとは異なり、自然の中での酒は、何とはなしに心くつろぐものがある。
ミロも私には手を触れぬし、星も月も空を飾って美しい。
露天風呂の良さをこのように味わえたことは、確かに運がよかったのに違いない。

ふと、庭の奥の方を見たミロが
「 あそこになにかあるぜ!」
と言っていきなり立ち上がったので、私はドキッとして慌てて横を向いた。
いくら光速の動きで目をそらしても、すでに目の奥にはミロの背中から腰にかけての線が焼きついてしまったようだ。
それは客観的に見て、非常に美しい均整の取れたラインを描いており、言ってみればギリシャ彫刻の黄金分割の完璧さに等しいと思われた。
しかし、冷静に分析できたのは後のことで、その瞬間はさすがに気が動転したものだ。
「 ああ、すまんすまん、しかし、いい加減に慣れてもいいんだがな……」
といいながらミロが湯をかき分けて奥の方へ進み、岩陰へ回り込むと歓声を上げた。
「 こいつは面白い!来てみろよ、カミュ!」
しかたがないので水面から肩を出さぬように用心しながら進み、ミロが指差す方を見上げてみると、水面から2mほどの位置にある筒から湯が流れ落ちているのだった。
3本ある筒のうち一本は3mほどの高さになっている。
「 こいつが『打たせ湯』ってやつじゃないかな?この下で肩に湯を当てているとマッサージになるんだそうだ。
 まったく日本人っていうのは面白いことを考えるな!」
なるほど、さっきから水音がすると思ったのはこのせいだったのだ。
「 やってみようぜ!」
ミロが筒の真下の腰掛けるための石に場所を移したので、私は急いで目をそらす。
そんなことをしたら腰から上が丸見えではないか!
「 あ……またやったか……悪かったな。」
きっとミロは苦笑しているのだろう。
「 じゃぁ、俺は右を向いて座るから、お前はそっちの石に左を向いて座ればいいさ!」
ミロに気を使わせて悪い、とは思うのだが、こればかりは仕方がない。
「 すまない……」と言いながら、私も打たせ湯の下に慎重に移動する。
思ったよりも水勢が強く、かなりのマッサージ効果があるようだ。
「 お前もさぁ………そんなに気にしないでくれると助かるんだがな……いや、無理にとは言わんが。」
「 ミロ………」
私が困っているのを察したのだろう、
「 すまん、気にするな、それがお前らしいところだからな。」
こんなときのミロは肩をすくめるのだ、私にはその様子が目に見えるようだった。

ほんとに、どうしてミロは私に見られても平気でいられるのだろう?
あの力強い腕にいだかれ、あの厚みのある背中に爪を立てていたかと思うと、私はとても平静ではいられぬというのに。
もし私が肌を見せたら、ミロはいったいどう思うのだろう?
いつも言っているように「きれいだ!」というのだろうか? それとももっとほかの事を考えるのだろうか?
どちらにしても、私はとても平常心を保つ自信はないといえる。
見られることが恥ずかしいというよりも、ミロの視線の前で平常心を保てない自分が恥ずかしいのだ。

打たせ湯の飛沫の音だけが夜空に吸い込まれていく。
こんなときミロは何を考えているのだろう………?
「 ミロ………今、何を考えている?」
「 俺か? そうだな……特になにも考えてなかったが……
 ………いや、そうじゃない。
 俺は、こうして露天風呂にお前を連れて来られて幸せだと考えていた。
 そして、お前がその幸せを味わっているだろうことが嬉しくてならない。」

   ミロ…………私は……………

気付かれぬように振り向くと、少し背中を丸めたミロが白いしぶきの中に腰掛けているのが見える。
そっと立ち上がると、高いところから落ちてきた湯が水面に直接当たるようになり、水音が変化した。
その変化にミロが顔を上げたとき、私は後ろからそっとミロの肩を抱いていた。
ミロが身体を固くする。
「 カミュ………」
「 ありがとう………私をこんなに大事にしてくれて……」
肩に当たったしぶきが細かな水煙となり私たちを包んでいった。

やがて私たちは最初の静かな湯の方に戻っていった。
「 残りの酒は、俺が飲むからな。」
ミロが盃を口に運び、水音と虫の声だけしか聞えぬ世界を篝火が照らし出す。
静かな水面には炎が揺らめき、時折り薪がはぜて火の粉を巻き上げる。
「 カミュ、お前と楽しむ露天風呂も今夜だけだろう。 そうだ!明日の明け方、もう一度ここに来ようぜ。」
「 え?………朝に?」
「 ああ、夜明けを楽しむのもオツなものだろう。夜空の色がだんだんとあけぼの色に装いを変えていく、きっときれいだぜ。」

   ミロと夜明けを見る………

「 わかった、そうしよう。」
しかし、そのためには何時に起きればいいのだろう?
概算でも、4時前には露天風呂に来なければならないのではないだろうか。
「 ミロ……お前……4時前に起きられるのか?」
「 …………え?4時って………?」
「 この土地の経度と緯度から算出される明日の日の出の時刻は3時59分だ。
 ただし、日の出の時刻とは『太陽の上辺が地平線または水平線に一致する時刻』のことを指している。
 現実には、そのときの空は少々薄暗い程度で、もはや夜とはいえぬ。 
 お前の希望通りに、夜の闇が夜明けの色に装いを変えてゆく様を眺めるには、どんなに少なく見積もってもその30分前、
 理想を言えば、1時間半前にこの場所に来ていることが望ましい。」
ミロが愕然とした。
「 1時間半前って………それって、2時半だぜ!まだ夜中だろうが!!」

これだから理系でない人間は困る。
日の出前や日の入り後の空が薄明るい状態を「薄明」と呼び、「市民薄明」は「灯火なしで屋外の活動ができる」目安とされ、ここ日本では日の出前・日の入り後30分程度だが、「天文薄明」は「空の明るさが星明りより明るい」目安で、こちらの方は日の出前・日の入り後1時間半程度のことをいうのだ。
すなわち2時半からこの場所に待機することにより、完全な夜明けを鑑賞できることになる。
論理的に導き出された真理に対して、異を唱えるというのは私には理解しがたい。

「 どんなにお前が納得できなかろうとも、事実は事実だ。
 それに明日6月21日は夏至、すなわち1年で一番日の出の時刻が早いといってもあながち間違いではあるまい。
 喜べ、よりによってお前の好きな露天風呂で、夏至の夜明けを拝めるのだぞ。」
「 しかし………2時半……」
暗い表情のミロが気の毒になったので、一言云ってみた。
「 ミロ…………お前、今夜は自重したほうがいいかも知れぬな」
私が真面目な顔をしてそういうと、ミロが真っ赤になった。
「 起きるっ、絶対に大丈夫だ!この唯一の機会を逃すわけにはいかんからなっ!」

語気を強めて言うミロが果たして自重するのかどうかは、いまのところ私にも謎なのである。



 

                               「白玉の歯にしみとおる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり」
                                                                   (若山牧水)
                               かなり人口に膾炙しているこの歌は、あいにく秋の歌です。
                               しかし、せっかく温泉に来ているお二人に組み合わせないのは
                               残念すぎるので、掟破りの採用となりました。
                               湯に入りながらのお酒というのは不思議です。
                               飲めない人間にとっては………謎です。
                               でも、ミロ様カミュ様に楽しんでいただければ本望です。

                               カミュ様、6等星の観察じゃないんですから、
                               3時15分くらいに離れを出れば充分なのでは?
                               それでも早すぎますが(笑)。
                               ミロ様も、登別に来たのが冬至だったら3時間余計に寝てられたのに!
                               おまけに雪景色の露天風呂も楽しめたのに、ああ、残念!
                               お二人の驚き喜ぶ顔が目に浮かびます。
                               もちろん、秋の紅葉もいいわねぇ ♪

                              ※ 飲みすぎたカミュ様をミロ様が介抱する( or その逆)
                                 というバージョンはありません、念のため(笑)。


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