「……あれ?」
眠気をこらえながら部屋でのんびりしていたギガントだが、どうにも身体が熱いような気がしてきた。心なしか喉が渇いて動悸もするようだ。
「風邪か?そんなものはもうずっとひいたこともないんだが。」
気のせいかと思ったが、どんどんけだるくなって身体がほてってきたのはどうしたことだろう? 頭の芯がぼ〜っとして考えがまとまりにくいのも気になった。
ちっ!夜勤明けまであと5時間もあるってのに冗談じゃない!
このところの緊張感のなさが原因か?
聖戦時には風邪をひくなどという悠長な状況ではなかったことを思い出しながら水を一口飲んだ時、ギガントははっと新たな可能性に思い当った。
「違う!こいつは風邪じゃない!……これって……あれだろう!」
自分のことは自分が一番よく知っている。今現在の体調の変化は明らかにある種の興奮状態を示唆するものだった。
「なんでこうなるっ!?俺は別に欲求不満なんかなくて…!」
そうしてギガントは真相を悟った。
「あの花だ!もしかしてあの匂いが媚薬になってるんじゃないのか!?」
いくら考えてもほかに思い当るふしはない。いつも通りのものを食べただけだし、薬に類するものも飲んではいない。ただ、あの五十年に一度だけ咲くという花の匂いを嗅いだことがいつもと違っていた。
もしもこいつが聖戦のさなかに咲いてたら、目も当てられん!
方向性の変わった修羅場になること請け合いだ!
前に咲いてから五十年も経ってるんで媚薬効果があるなんてことは忘れられてるだけじゃないのか?
もちろんパンドラ様も知らないから、ミロたちに見ていくようにとお勧めになったので……
………ということはっ!!
ギガントはごくんと唾を飲み込んだ。あの夜のことをまざまざと思い出す。
「つまり、もしかして、ひょっとすると…!」
冥界三巨頭の一人、自他ともにその実力を認められているラダマンティスが統括するカイーナの真ん中で聖闘士が………言うをはばかる状況がギガントをいたたまれなくさせた。
「いやいやいや、それはないっ!ミロだって聖闘士だ!日本の温泉地じゃあるまいし、まさか敵地も同然のこの場所で…!有り得ない!それはない!現に俺はこのくらい我慢できてる!」
しかしおのれが嗅いだのはほんの二、三回だったのに比して、ミロとカミュは一時間近くも花のそばにいたはずだ。たくさん嗅げば嗅ぐほど効力が強くなるのかどうかは知らないが、その可能性はある。
「いやだっ!そんな部屋の前を通って巡視に行けるかっ!」
しかしその廊下を通らないと東ブロックのほとんどをスルーすることになる。万が一異常があった時には申し開きができないことになるのは必定だ。
「くっそ〜!なんで俺がこんな目に遭わなきゃならんのだっ!」
独り毒づいたがどうなるものでもない。ギガントがほてりの収まらない身体に鞭打って三時の巡視に出かけると、早くも廊下の向こうからあの時の夜を思わせる
とある種類の小宇宙が仄かに感じられた。
「ああ、どうすりゃいいんだ……厄日としか言いようがない。帰ったらお祓いでも受けたほうがいいんじゃないか?」
そういうことにはおくてのギガントにとっては今夜の東ブロックは鬼門中の鬼門である。
見たくないっ! 聞きたくないっ! 知りたくないっ!
神様!このギガントをお助けください!
この際、どこの神でもいいからすがりたい気持ち全開だ。あの冷酷無慈悲なハーデスがこんな瑣末な悩みをかかえる魂の救済に動いてくれるはずはないから、思い切ってやさしくて愛情にあふれているという噂のアテナ神の信仰に鞍替えしたくなる。
しかし、怖気をふるって逃げ出したくなる思いを抑え込んでいやいや廊下を進むと、なんだかあの夜とは様子が違う。あの時は明らかにアクティブな小宇宙が奔放に揺れていていかにも……な様子だったのに、今はどうだろう。極めて安定していて高揚も動揺も見られない。ただしその安定のレベルが非常に高いのだ。株式相場で言えば高値安定というやつである。
これって、もしかして……我慢してるとか?
隠忍自重とか自制心のかたまりとか君子危うきに近寄らずとかの言葉が矢継ぎ早に浮かんで、ギガントは舌を巻かずにはいられない。たった数回匂いを嗅いだだけの自分がいまだに不安定な有様だというのに、その何百倍も月下美人のそばにいてたっぷりと妖しい花の香を嗅いでしまった二人の黄金の自制心たるや想像を絶するものがある。
赤面し、冷や汗を浮かべ、足音を忍ばせながらギガントは先に進んでいった。せめて聖闘士の二人の必死の努力を妨げないためにこの静寂を可能な限り保とうと思ったのだった。
朝になり出勤してきたバレンタインに夜勤帯の報告をしているとラダマンティスがやってきた。
「昨夜はご苦労だったな、ギガント。ミューの代わりとは思わなかった。なにか困ったことはなかったか?」
「いえ、大丈夫です。平穏な夜勤でした。」
「それならよかった。昨夜はパンドラ様と聖闘士の間で話が弾み、今後は事務連絡だけでなく双方ともより積極的に交流を図ろうということになった。聖闘士がアテナの親書を携えてきたのはそのためでもある。」
「えっ、そうなんですか!?」
「交流といいますと、どのような?」
そうしてラダマンティスが言うのには、冥界から数名ずつ視察という名目で地上に上がり、お互いについて理解を深めようという計画があるのだそうだ。
「こちらにはたいしたものがないが、地上はあの通り豊かだからな。場所についてはミロとカミュが日本の温泉地を推してきた。とくに反対する理由もないのでその方向で行くと思う。ミーノスとアイアコスともこれから建設的な協議に入る。」
「温泉ですか!それはまた…」
ギガントは有頂天になった。あの心地よさ、豊かな自然、うまい酒と山海の珍味を再び味わえるのだ。こんな幸せがいったいどこにあるだろう。
「パンドラ様もすぐにお返事を書かれたので聖闘士がアテナへの親書ということで持ち帰った。今頃は披見されていることだろう。」
「それは話が早いですね。」
「だが二人とも風邪を引き込んだらしい。夜中まで花の観察をしていたようだが、ギガント、昨夜はかなり冷え込んだのか?」
「ええと、それはですね……ええ、はい、意外と冷え込んだと思いますです。」
「そうか、悪いことをしたな。二人とも顔が赤くてちょっとつらそうだったのでな。」
言わないっ! 俺はあの花の特徴なんか、一言も言わない!
あんたらは立派だった!
秘密は守らせてもらうから安心してくれ!
二人のおかげで温泉行きが約束されたギガントは心から感謝し、人知れず沈黙を守ることを誓ったのだった。
「ギガントってやっぱり冥闘士だったな。バレンタインが、今日の夜勤者はギガントです、なにか用事があったら彼の携帯にかけてください、って言ってたし。」
「私も野沢でミロに紹介されたときからそんなことではないかと思っていた。冥闘士の小宇宙は百メートル先から容易に判別がつく。隠しても隠せおおせるものではない。」
「俺だって風呂ですぐに気が付いたけど、どうみてもあっちも休暇で温泉三昧だしな。まあいいか、と思って襲われたことは水に流すことにした。じゃなくて温泉に流したんだが。本気で襲ってきたんじゃないことは丸わかりだったし。かなりビビッてたけど悪かったかな。」
「私たちに素性が知れるのではないかと気にしていて気の毒だったが、かといって自己紹介などしたらもっと気にしそうだったし。」
「知らない者同士が浮世のことは忘れて裸の付き合いをするのが温泉の醍醐味だからあれでいいんだよ。」
十二宮の階段を昇りながら話す二人は屈託がない。
「彼らを招待する温泉はどこがよかろう?」
「う〜ん、言葉が全然だめだから通訳がいるよな。まさか翻訳機を渡して、好きなようにどうぞ、っていうのも放任主義すぎるし。」
「では登別温泉の宿を取り、私たちが適宜世話をするというのでどうだろう。」
「それでもいいぜ。お前はバレンタインと植物の話で気が合ったみたいだから近場のほうが都合がいいんだろ?」
「うむ、お前こそギガントと今度こそ知り合いになれるのではないか?」
「知ってるか?あいつ、背が高いんだぜ。たぶん2メートルくらいあるはずだ。アルデバランを呼んだほうがいいかな?どう思う?」
「なにも背の高さで対抗しなくても。」
「そうだけど、ちょっと悔しいんだよな。」
ミロが苦笑する。
「あ〜、それにしてもあの花には参ったな。あんなことになるなんて誰が思う?やっと収まったが、あの時はどうなることかと思って焦ったよ。」
「聖域の空気を吸ったら治ったようだ。せっかく観察しても、あれでは記録にも残しにくくてどうしたものか?」
「う〜ん、俺にはわからんからバレンタインと相談してくれ。」
「断る!」
「そうだろうな。どうするかなぁ?このままほっといて、また五十年後に誰かを慌てさせるのも面白いかも。」
「知らぬ!」
ただ一つミロが気になるのは、ギガントがどこまで気付いたかということだ。
野沢ではせっかく隣にいるんだからとからかってやったが、昨夜のは……
まさか冥界の月下美人にあんな効力があるとは思わなかったし…
やっぱ、ばれたかなぁ?
あいつ、夜勤帯の記録簿の特記事項欄に書いたりしてないだろうな?
カミュが、いつも通りに俺が小宇宙を封じてくれたと信じて疑ってもいないのが救いだな
くよくよするのはやめよう べつに悪いことをしているわけじゃなし
ギガントが登別に来たらもう一度裸の付き合いをすれば済むことだ
カノンとラダマンティスの話でもしていればそのうちに分かり合えるに違いない
気を取り直したミロが大きく息を吸い込んだ。 こんなに美しい地上に生きる幸せを思う。
行く手にアテナ神殿が見えてきた。
fin