誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに |
古今集より 藤原興風(ふじわらのおきかぜ)
【歌の大意】 誰をいったい知り合いとしようか。
高砂の松のほかには私と同じように年をとったものはない、
しかしその松も、やはり昔からの友ではないものを。
前回の聖戦からはや243年、ずいぶんと時が経ったものよのぅ。
さきにアテナが聖域にお戻りになった折には、黄金聖闘士もその多くが命を落としておる。
いずれも、このわしよりも遥かに若い者たちばかりじゃ、あたら惜しい命をなくしたものじゃて・・・・・。
残った者たちはいずれも、このわしを敬い尊重してくれるが、しかし、のう、シオンよ・・・・、
この五老峰の大滝の前に座しハーデスの動きを監視しておると、無性に昔のことが思い出されてならぬ。
お前と力の限り闘ったあのころのことが懐かしくてならぬのよ・・・・お互いに若かったのぅ・・・・・。
いつの日か、わしが役目を果たし終えたら、もう一度、蓮の台(うてな)とやらで会いたいものよ、
そのときにはこんな年寄りの姿でなく、若い姿で会いたいものじゃが、
さて、はたしてアテナがその願いをお聞き届けくださるものか・・・・?
いずれにせよ、シオン、
その日もそんなに遠いことではあるまい。 わしにはそんな予感がしておる。
その時に若い者が少しでも多く残って、この地上を守り続けてくれることを願っているがこればかりはわからぬ。
我が友、シオンよ、
昔語りは、その時まで、もう少し待っていてもらおう、なに、長くは待たせぬよ・・・・。
考えてみると、老師はとても寂しかったでしょうね、
いくら達観していても、周りにいるのは、紫龍、春麗を始めとして若い者ばかり。
243年も五老峰にいる間に、周囲の人間は三代くらい代替わりしている筈です。
もう昔のことを話す相手もおらず、自分だけが生き残ってゆき、
若かった者が老いて死んでゆくのを繰り返し見なければならない。
これはとても寂しいことで、
いかにアテナに託された大事な使命の為とはいえ、辛い責め苦ともいえるでしょう。
そんな中で、あらたに揃った若い黄金聖闘士たち、
その若く生命に満ち溢れた姿は、
昔、同じ聖衣を纏って共に闘った懐かしい顔を思い起こさせたに違いありません。
しかし、その若さに輝いていた彼らも十二宮の戦いで半数近くが命を落とすのです。
アテナが聖域に戻るための尊い礎だったとはいえ、
どれほど老師は、その早すぎる死を悼み、哀惜の涙を流したことでしょうか。
代われるものなら代わりたかった、と心の底から思ったのです。
「わしは、もう十分に生きた。
ハーデス軍と一刻も早く闘い、アテナを勝利へと導くのだ。
そして、この役目から解放していただこう。」
他の若い黄金とは、死に対する観念が全く異なっています。
彼らが、一途に、純粋に、死に向かっていったのに対し、
老師は、老成し、達観して死に臨んだのです。
童虎は、嘆きの壁で、243年待ち続けた満足すべき死を迎えたのでした。