朋あり遠方より来たる また楽しからずや  U

                     孔子 「 論語 」 学而 第一より    学友が遠方より訪れて学問の議論をする
                                             それもまた楽しいではないか



カミュが任地で消息を絶って一ヶ月が過ぎた。
可能性のありそうな場所はすべて探しつくし、もうあきらめたほうがいいのではないかという暗い観測が流れる中でムウが一つの提案を出してきた。
「まさかとは思いますが、各国の身元不明者のリストを当たってみるというのはどうでしょう?カミュが消息を絶った土地を徹底的に探しつくしてなんの痕跡も発見できなかったのですから、なんらかの理由で他国に入り込んだということも考えられます。」
「どんな手段でもいい。 やってみてくれ!」
即座に答えた俺の求めに応じてムウがパソコンを操作した。 各国の警察の内部に侵入しリストを片っ端から当たってゆくのは手間のかかる仕事で、そばで見ているしかできない俺には気が遠くなるような長いリストが画面上を延々と流れてゆく。 顔写真が載っているリストのほうが多いが、名前と特徴だけを記したものもかなりあり、さまざまな言語をギリシャ語に変換する作業も時間がかかるものだった。
5時間ほどが過ぎ、ムウに疲れが見え始めたころ、
「これは? もしかするとヒットしたかもしれません。」
「どれだっ!」
ムウの指差した画面にはなんとも妙な綴りで短い名前が書いてあり、身体的特徴は………
「身長も髪の色も目の色もぴったりだ。 年齢も二十歳前後と書いてある。 この名前は………カミュと読めるのか?」
「国はロシアです。 保護されているのはモスクワの北東1500kmほどにある小さな村のようですね。 仮にカミュが名前を言ったとしたらそれをロシア語表記されるでしょうから、私たちには違う名前に見えても不思議はありません。 登録されたのはカミュが消息を絶ってから二日後です。 悪くないと思いますよ。」
「行ってくる!」
俺はその地名の場所をムウに正確に教えてもらって、すぐさま現地に飛んだ。

「かなり小さな村のようです。 おそらくロシア語しか通じないでしょうが、カミュだとすれば言葉には何の問題もないでしょう。 別人ならばすぐに戻るだけですし。」
ムウの言ったとおりで、村はずれの高台からは広々した耕作地とささやかな家々が木々の間に見え隠れしていた。 モスクワから遠く離れているものの電話くらいはあるだろうから、こんなところにカミュがいるとしたらなぜ連絡してこないのかわからない。

   それとも連絡できない状態にあるということか?
   なぜだ?
   考えたくもないが、死亡者リストも傷病者リストもすでに調べつくしてる!
   こんな平和そうな村にいて、なぜ連絡できない?

保護されたときの情況でも書いてあれば少しは役に立つだろうに、ロシアの郡警察のページに記載されている情報はきわめて大ざっぱなもので身体的特徴のほかはなにも書いてないに等しいのだ。 かすかな期待を抱いて飛んできたものの、その人物がカミュではない可能性のほうがはるかに高い。 
言葉が通じなくてその人物の所在を聞くことができないので、人家のあるところを歩きながら小宇宙を探ることにした。 聖闘士ならばどんな状態にあっても生きている限りはかならず小宇宙が感じられるはずなのだ。
あちこちの耕地で畑仕事をしている人の姿が見えるが、むろんカミュではなかったし、なんの小宇宙も感じられない。 村の中心に向かっているらしい道を辿っていくと子供の歓声が聞こえてきたのは、どうやら学校があるらしかった。
ずいぶんと小さい建物だが運動場だけはやたらに広い。 20人くらいの子供がサッカーをしながら駆け回っているのが見えてきた。
「ロシアは広大だからな。 ここなら土地に不自由はしないだろうが肝心の子供の数は……」
ドキッとした。 小さい子供の中に一人だけ背の高い後ろ姿が見えて、それはまるで……!
「カミュっ!」
考えるより先に身体が動いていた。 俺は人目もかまわずいきなりテレポートして見慣れた後ろ姿のすぐそばに立った。 カミュだ、間違いない、見間違うはずもない。
「カミュっ! こんなところでなにをしている! 無事でよかった、ずいぶん探したんだぞ!」
腕をつかんで振り向かせた。 元気な姿に安心したと同時に、なぜ連絡をしてこなかったかと詰問しようとしたとき、カミュがなにかわからない言葉で俺に返事をしてきたのには驚いた。
「おいっ、それはロシア語か? なぜギリシャ語で話さない? いったいどうしたんだ! みんなどれだけ心配したと思ってる?!」
そのときには俺に気付いた子供たちが駆け寄ってきてカミュの周りを取り囲み、俺を怖そうに見たりして騒動になりかけてきた。 そして肝心のカミュはまるで他人を見るような目で俺を見ながら、なおもごつごつした響きのロシア語で冷静になにか返事をしてきた。 どんなときでも冷静さを失わないところだけはたしかにカミュに違いないが、いったいどうなっているというのだ?
「俺のことがわからないのか? カミュ!」
肩をつかんで揺すぶった。 長い髪が揺れて思わず抱きしめたくなったが、人目があってそれもできない。 突然現れた俺からカミュを守ろうとする子供たちが口々になにか叫んでカミュにしがみついたり俺を押し返そうとする状況では、なにを言っても無駄だった。 理由はわからないがカミュはギリシャ語をしゃべらないし、俺の言っていることも理解できていないかも知れないのだ。
カミュ本人なのは間違いなくて、一瞬はこのまま聖域に連れて帰って宝瓶宮で抱いてやれば全てを思い出すのではという考えが頭をよぎったが、そんなことをしてもなんの効果もなかったら無用の反発を招くだけだし、どうやらここで先生役になっているらしいカミュを子供たちの目の前で拉致するような真似は避けたかった。 この状況ならカミュがここからいなくなることは考えられない。 俺は歯噛みをしながらそこを後にした。 通訳が必要だった。

「氷河、一緒に来てくれ! カミュが見付かったが、ロシア語しか話さない! 」
「えっ! それはどういうことです?」
「俺にもさっぱりわからん!ともかく来い!」
シベリアでカミュの痕跡を探していた氷河をやっとつかまえて、そのままさっきの運動場に直接飛んだ。 午後も遅くなり子供の姿はないが、建物の中に人の気配がする。
「ここは学校ですか?」
「さっき見つけたときはここで子供たちと遊んでいて俺のことをまったく覚えていないようだった。 ギリシャ語を理解しているかどうかもわからない状態だ。 ともかく通訳をしてくれ。」
微かに小宇宙の感じられる教室に乗り込むと、カミュとそれから氷河くらいの年格好の少年が驚いたようにこっちを見た。 一人だけ年長らしいこの少年がさっきもカミュと一緒にいたのは覚えてる。
氷河が一歩進んでカミュに静かに語りかけた。 それに平静に答えるカミュは、やはりロシア語を使ってる。
「俺のことを知らないそうです。 私が知っているはずなのだろうか、と聞き返されました。 あの子が事情を知っているでしょうから聞いてみます。」
氷河が少年と話し込んでいる間、俺は少し離れたところからカミュを見ていた。 カミュのほうでも俺の視線を感じて落ち着かない様子で、ちらちらとこちらを見ながら二人の会話を聞いている。 話を理解できていないのは俺だけでなんとも歯痒いのだが、これはいたしかたない。
かなり話が進んだところで、だいたいの事情がわかっただろうと氷河を呼んだ。
「一ヶ月ほど前にここに現れて、今はあの子の家で世話になっているそうです。 記憶をなくして自分の名前しか覚えていないとか。 今はこの学校の先生が休職していて、その代理で子供たちに勉強を教えているということでした。」
「なんてことだ!」
俺のことも氷河のことも自分が黄金聖闘士であることも忘れ果てたカミュはロシアの小さな村の教師になっていた。 自分の身元を知っている人間が現れたというのにやはり何も思い出せないのが歯痒いのだろう。 眉を寄せて困惑しているのがありありとわかる。
悔しいことに今のカミュからは聖闘士らしいなにものも感じとれない。 平常時にどんなに寛いでいようと、或いは俺に抱かれて我を忘れていようと、どんなときにも静かな緊張をたたえていたカミュの輝かしい生命の躍動はすっかり消え失せてしまったかのようだ。 これでは普通の暮らしをしている市井の人間となんら変わることがない。 サガとアイオロスの手で長い時間をかけて醸成された黄金の小宇宙はカミュの意識の奥底に沈潛し鳴りを潜めているばかりなのだった。
「この状態で連れて帰っても、ますます混乱して不安定になるかもしれん。できることならこの場所で元に戻したい。」
「でも、どうやって? イザークの言うのには、ええ、彼はイザークというのですが、カミュはギリシャ語を理解してますが返事はロシア語でしていたそうです。 そこまで忘れてしまうとは…」
「俺に考えがある。 少し待っていてくれ。」
そう言うと俺はすぐさま聖域に飛んだ。 自宮で聖衣を身につけるとその足で宝瓶宮に行き、カミュの聖衣櫃を探し出してすぐさまロシアに戻ったのだ。 宝瓶宮へと石段を駆け上がっていくときにデスマスクとすれ違ってなにか言われたが、答えている暇も惜しくて返事もしなかった。
黄金に輝く聖衣を纏い、アクエリアスの聖衣櫃を携えてきた俺は、この飾り気のない村の学校にはさぞかし場違いだろうが、カミュを救うためなら俺はどんなことでもやっただろう。 氷河は俺の考えていることがわかったらしく黙って見ているが、イザークのほうはかなり驚いたらしかった。 目を丸くして氷河になにか言っているのがちらりと目に入ったが、この際そんなことにかまってはいられない。
やはり驚いて立ちすくんでいるカミュに数歩近付き、右手を伸ばして手掌を向けた。
俺の小宇宙を直接送り込んで、カミュの内に雌伏して目覚めの時を待っているアクエリアスの小宇宙を甦らせるのだ。 一般人には小宇宙は見えないがカミュの目には容易に見極められるはずだ、そうでなくてはならない。

   もしも……もしも小宇宙を感じてくれなかったら?
   カミュがおのれの本質である小宇宙さえ忘れ果てていたらどうする?

しかしその不安は瞬時に拭い去られた。 小宇宙が放たれた瞬間、目を細めたカミュは唇を震わせて俺の名を呼んだのだ。
「ミロ……ミ………ロ」
一ヶ月ぶりに名を呼ばれてどれほど心が震えたか察してほしい。 沸き立つ思いを押さえながら、俺は半歩下がってカミュに聖衣櫃を指し示す。
すっと近付いたカミュが夢見るような表情を浮かべて両手を差し延べた瞬間、凍気の小宇宙の奔流が鮮やかに渦を巻きながらカミュの体内を駆け巡り、それはすぐに聖衣の内包する小宇宙と呼応して水瓶座の聖闘士のすべての記憶を呼び覚まさせた。
清冽な黄金の気が空間を満たし、懐かしい清涼の薫風に心が踊る。 この俺でさえ滅多に見ることのないカミュの聖衣装着はあっけないほど短時間で終わり、そこに立っているのは紛れもない黄金聖闘士アクエリアスのカミュにほかならぬ。
カミュが大きく息を吸った。 我が身に添う聖衣の感触を確かめるようにゆるゆると首を動かしたあと、目を上げてひたと俺を見た。 その目に喜びの光が宿る。 もはやなにも案ずることはない。 俺のカミュがそこにいた。
どちらからともなく歩み寄って手を取った。
「カミュ……どう?」
「心配かけてすまなかった。 何もかも………そう、なにもかも思い出した。」
「よかった!」

   くそぅっ、ぎゅっと抱き寄せてキスしたい!
   どう考えたってその展開がふさわしいだろう、このシーンは!

しかし、氷河が見てる。 すぐに別れるとはいえイザークも見てる。
仮にもこの小さな学校で教師の職に身を置いていたカミュは教え子の前でそのような情景を見せることをきわめて嫌う。 氷河が俺たちの関係に気付いているのかどうか、今だにそれさえわからないほどにカミュのその方針は徹底してる。 
「ずいぶん探したぜ。 この一ヶ月というもの、聖域は姿を消したお前の消息を辿るのに躍起になっていたが、こんなところで昔取った杵柄をやってるとは思いもしなかった。」
「第二の天職かも知れぬ。」
そう言って微笑んだカミュがイザークを振り返った。 すっかり忘れていたがカミュの、もちろん俺のもだが、黄金聖衣を初めて見たイザークは目を丸くしている。
だいたい一般人がこの姿を見ることは有り得ない、ある筈がない。 そもそも聖衣は戦闘用だし、そうでなければ聖域での正装だ。 我々黄金が一般人の居住区に立ち入ることは珍しいし、その際も光速で動くから本当に目にも留まらないものなのだ。 なのにカミュは………

   おいおい、いくら教え子だからって、子供用の椅子に座って話し込んだりするか?
   個人面談でもやってる気か?

気を取り直したイザークが次から次へと質問するのに懇切丁寧に答えるカミュは、長い足のやり場に困りながら小宇宙とか聖衣のことを熱心に説明してる。 氷河はほっとした顔をしてそんなカミュを嬉しそうに見ていて止める気配もない。
俺としても早くムウやほかのみんなにカミュの無事を報告したいのは山々だが、いかにも嬉しそうにここでの教え子に科学的説明をしているカミュを制止する気にはなれないのだった。
と、カミュが振り向いた。
「私が聖域に帰ってしまったらこの学校の教師がいなくなってしまうが、どうしたらよかろう?」
「う〜〜ん、それはたしかにまずいだろうが、まさか黄金聖闘士が、いつ来るかわからない教師を延々と待ちながらここで暮らすわけにもいくまい。 要するにこの地区の教育行政を担当する責任者をつついて新任の教師が早く来るように仕向ければいいってことだろう?」
「なるほど!」
カミュにも俺の言わんとすることがわかったらしい。 にっこりと笑ったカミュがイザークにロシア語でなにか約束してた。

すぐ戻ってくるから、とイザークに言い置いたカミュを連れて聖域に戻る。
すぐにでもキスしたくてウズウズしてたのに、カミュが降り立ったとたんムウとシャカが魔法のように現れて出迎えてくれたのには、ここだけの話だがちょっとがっかりだ。 それに続けてほかのみんなもやってきて口々にカミュの無事を喜んでくれたのには………うん、これはやっぱり嬉しいことだろう。
一段落したら宝瓶宮でも天蠍宮でもいいから帰還を祝う熱いキスをしてやろうと思っていたのに、あにはからんや、カミュはその足で教皇庁に行きシオンに面会を求めると、この一ヶ月の失踪の情況報告を縷々述べたあと、あの学校に新任教師を派遣してくれるよう手段を講じて欲しいと願い出た。
「そうなりませんと、私は教師の職を辞することができません。 それでは十二宮を守護するという勤めも果たすことができず極めて困難な立場に追い込まれることになります。 いかに記憶を失っていた間の出来事とはいえ約束は約束です。 なにとぞこの事情をお汲み取りいただきご高配賜りたくお願い申し上げます。」
俺では百年たっても言えそうにない理路整然とした請願をよどみなく行ったカミュは見事にシオンから確約を取り付け、すぐにロシアへと舞い戻っていった。
「おい! せめてキスの一つくらい…!」
俺がやっと口に出したときには、もうカミュはいない。 あまり備品のないらしいあの学校のために宝瓶宮から持てるだけの学用品や科学的物件を抱えてもう一度教師になるために赴任して行ったのだ。
「それもカミュらしいか。 まあいいさ、引継ぎを終えて帰ってきたら今度こそ俺が個人授業をしてやるよ。 この先ずっと予約済みだ。」

そしてカミュの教師役は次の日でめでたく終了した。 シオンの権威はロシアの上層部をも容易に動かすらしい。
「お帰り、カミュ!」
「待たせた。 新任教師は明日から赴任するそうだ。 明日の午後、子供たちが私のためにお別れ会をしてくれるというのでお前と氷河もぜひ参加して欲しい。」
「それはそれとして、カミュ……」
「あ…」
俺に抱かれて頬を染めるカミュはなんともいえず美しい。
こうして俺はほんとうの意味でカミュをこの手に取り戻した。




                  
 やっぱりミロ視点の話が書きたくて。
                   久しぶりの教師役にきっとワクワクしたんでしょうね、カミュ様は。
                   「ああ、教えるっていいなぁ!」
                   って、じわっと涙が出たりして。