月がとっても青いから  遠まわりして帰ろう
 あの鈴懸の並木路は  想い出の小径よ
 腕をやさしく組み合って  二人っきりで サ帰ろう
          
「月がとっても青いから」 より   作詞:清水みのる

※ 「古典読本74・君恋し」 の続篇です。

初めて抱擁したカミュの髪が甘く匂い、こんなにまで近寄ったことのない俺をくらくらさせたのも当然だった。 ついさっきまでは、カミュに嫌われたかと思って絶望の淵にいたのに、今の俺はあのカミュを、長い間夢見てきた至高の存在をこの手にいだいているのだから。

しばらくそのままでいたが、どちらからともなく立ち上がり十二宮へ帰ることにした。
カミュはまだ真っ赤な顔をしてうつむいているし、俺の方としてもやっと気持ちが通じたばかりで、どきどきして胸がいっぱいなのだ。 なにを話したらいいのかわからず、ともかく歩いているうちに、このままではすぐに森を抜けてしまい、人目に立つことに気がついた。 今までなら二人でいるところを見られてもなんとも思わなかったのに、いざ、こうなってみると、噂になりはしないかと急に心配になる。
「カミュ……あの………」
声がかすれて、心臓の音が聞こえるんじゃないかと思うくらいだ。
「もう少し…二人で歩かないか? 回り道をして、森の西まで行ってから帰るのはどうだろう……?」
カミュはちらっと俺を見て、それからすぐに目を伏せた。小さく頷いて俺についてきてくれるのは嬉しいのだが、やっぱりなにを話したらいいかわからないのは同じことなのだ。
もう暗くなってきていて、時折り空のひらけた場所に来ると、月が青い光を放っているのが見える。
「月が……ほら……あんなにきれいだぜ」
見上げたカミュはまぶしそうにしてなにか言おうとしたが、形のいい唇が震えるだけでやはり言葉が出ないのだ。 いとおしくて抱きしめたくなるのをぐっとこらえて聞いてみた。
「あの……抱いてもいい…? お前のこと」
カミュがびくっとして立ち止まった。俺もドキッとしたが、べつに逃げるようでもないのだ。
「抱かせて……ほかになにもしないから……」
ささやくように言って、そっと両手で包むようにすると、カミュがそれはそれは身を固くして俺の腕の中で息を止めたようだった。
「大丈夫だから………やさしくするから………俺のカミュ……」
降りそそぐ月の光の中でしばらくそうしていると、不意にカミュがしゃくりあげた。 緊張の糸が切れたようで、もうどうにも止めようがないらしく嗚咽が漏れるのだ。 肩を震わせ、わずかに頭を振って必死にこらえようとするのだが、いったん流れ始めた涙ははらはらと頬を伝い、俺の髪を、肩を濡らしていった。
「カミュ………」
俺はなにも言えなくて、ただカミュを抱いていた。実のところ、キスくらいはしてみたかったが、きっとカミュが困り果てるだろうと思ったのだ。 長い間そうしていて、やがて月の光が俺たちを照らさなくなったころ、カミュがやっと落ち着いた。
「ありがとう……ミロ………もう、大丈夫だから………」
かすれた小さな声で初めて言ってくれたのが嬉しくて、俺の方が泣きたくなった。
カミュを傷つけないように、困らせないようにと、今までどれだけ気をつけてきたかしれはしない。 それでも、さすがにこのままでは手も握らず、キスもできないまま終わるように思い、気が気ではなくなり、とうとうこの間キスに持ち込んだのだった。 さあ、それからというものは、カミュに避けられ続けて、ろくに姿を見ることさえできなくなっていたのだ。 性急過ぎて嫌われたかと思うと、いても立ってもいられない。 ともかくもう一度話だけでもしようと思い、やっと今日の機会をつかまえたのだ。
そのカミュが、今、俺の腕の中に身体を預けていてくれる。 まだお互いにがちがちに緊張しているが、きっといつか自然に抱き合える日が来るに違いなかった。

「あの……手を………つないでもいいか?」
再び歩き始めてから、おそるおそる聞いてみた。あいかわらず話ができないので、せめてそのくらいは、と思ったのだ。
カミュが驚いたように目をみはり、それからおずおずと手を出してきた。 初めて触れる白い手は、柔らかくて俺より少し小さいようでなんともいえぬいい感触なのだ。 世界で一番貴重な宝物を差し出されたような気がして、ぎゅっと握ることもできずに、そっと指先を絡めるようにして歩いた。
あわてなくても、いつかきっと力を抜いて寄り添える日がやってくる。 今日は俺たちの第一日目なのだ、急ぐことはない。

森の出口まで来たところで、俺たちは立ち止まった。 皓々とした月が目の前の野を隈なく照らし、遠くに見え隠れする十二宮までさえぎるものは何もない。
「カミュ、森を出る前に……お前にキスしていいか?」
森を抜けるあいだ、ずっと考えてはいたのだ、第一日目の締めくくりになることはなんだろうかと。
「……え……でも…私は…息が………」
「心配しないで……ほんとに触れるだけだから………こわくないから…」
あやうく身を引きそうになるカミュをやんわりと抱き寄せて、そっと唇を寄せた。 カミュはわなわなと震えていて、固く唇を引き結んでいたが、それでも黙って俺に許しを与えてくれた。 月の光もささぬ森の闇が、恥じらうカミュをなんとかその場にとどめさせたのかもしれない。 少し冷たい唇に三度触れてからそっと胸に抱き寄せると、カミュが大きい溜め息をついたのは、きっと緊張して息を止めていたのだろうと思う。
「これは軽いキスだけど、そのうちもっとうまくできるようにしたい。 キスのやり方なんて誰にも聞けないから……あの……二人で研究する?」
「……え? …あの……キスに軽重があるのか?」
当惑して聞き返すカミュが可愛くて、つい、ぎゅっと抱きしめてしまうではないか。 カミュはキスをどんなふうに考えているのだろう?
「たぶん………俺もよく知らないけど、今のは軽い部類だと思う。 そう思わない?」
「そんなこと………私にはわからぬから…」
もう一度真っ赤になったカミュを離しがたくて、俺は艶やかな髪に口付ける。
「大好きだ……俺のカミュ………いつまでも一緒にいよう……」
「ん……」

それから俺たちは森を出た。 名残惜しかったが、いつまでもいるわけにはいかないのだ。
夜の匂いを含んだ風が野を吹き渡り、青い月の光は空気までをも染めていくようだ。 いままでよりもほんの少し寄り添って歩いていることに満足を覚えながらちらりとカミュを見ると、夜風に吹かれた頬にほんのりと赤味を残すだけで、ようやくいつものカミュに戻ったようにも見える。
「ミロ………私は今まで、人の身体が温かいことを知らなかった。」
「……え?」
思わぬことを聞いて、俺は立ち止まった。
「というより、温かいことを知ってはいたが、温かさを知らなかったのだ……」
「カミュ……」
聖域で初めて出会ってからずいぶん経つが、カミュの生い立ちを聞いたことはない。 なんとなく触れられたくなさそうに思えたし、みんな毎日の訓練に忙しくてそれどころではなかったからだ。 俺には、トラキアの村で叔母に抱かれた記憶が鮮明に残っているが、カミュには何もないのかもしれなかった。 今カミュが言ったのは、そういうことではなかったろうか。
「だから………ミロ……私は驚いたし……嬉しかった……」
おりから吹き抜けた一陣の風が艶やかな髪を散らし、月の光はその絹のひとすじひとすじに銀の光を添えるのだ。 せつなくもいとおしい思いがこみ上げて、今すぐにでも抱きしめてやりたいのにここではそれも叶わない。 俺は何も言えずに、ただカミュを見つめていた。
「私は聖闘士だから、アテナのために、この地上の平和を守るために一命を賭して闘わねばならぬ。 その信念にいささかの揺るぎもないが、しかしそれは、時には人の命を奪うことにもつながってゆくことは否めない。」
目を伏せたカミュの静かな声が、風に乗って野を渡り、闇の彼方に紛れて消える。
「極限の凍気を操る私は、人の命の温かさを知らぬまま、命の耀きに触れぬまま、それを冷たく凍らせて……命を断ち切るのみで……自分でそれがひどく不安で……淋しくてならなくて……」
それ以上言えずに言葉を切ったカミュがとても頼りなげで、俺はもう我慢などできなかったのだ。 許しを求めることも忘れて、俺はカミュを抱きしめていた。
「あ……ミロ…!」
「かまうものか! 誰もいない、見られてなどいない! カミュ……人は、人の身体はこんなにも温かい……俺を抱いて、俺に抱かれてそのことを知ってくれ……もう一人じゃないから…俺がいつもそばにいるから……」
腕の中のカミュの温かさがいとおしくてたまらないが、抱かれることに慣れていないカミュは身体をこわばらせておののくばかりで声も出せないのだ。 夜目にも白い首筋にそっと口付けると、カミュの身体に震えが走り、胸で感じていた鼓動がますます早まるのが手に取るようにわかる。 それと同じく、俺の鼓動が早鐘を打っているのも伝わっているに違いなかった。
「俺にも……人の温かさを教えてくれてありがとう……カミュ…俺のカミュ………」
カミュはなにも言わなかったが、一つ大きな溜め息をつき、ためらいがちに俺の肩に頭をもたせかけてくれた。
思い出したように吹く風に、俺の髪とカミュの髪が、絡み合い、交ざりながら月の雫を散らして光る。 まだぎこちないながら身体を預けてくれるカミュの、その重さが温かさが嬉しくて、俺はいつまでも幸せを噛みしめていた。



                         
                 「古典読本74・君恋し」 の続篇です。
                 子供ならいざしらず、大人ともなると他人と肉体的に接触することはまずありません。
                 現代人なら、混んだ電車で経験せざるを得ませんが、
                 聖域で育った聖闘士には、そんな機会があるはずはないのです。
                 黄金ともなれば、周囲はますます畏敬の念をもって接するだけですし。
                 ましてや、子供時代に人に抱かれた覚えのないらしいカミュ様は、
                 無意識に人の温かさに飢えていたのでしょう。

                 もっとやさしく、もっと温かく。
                 お二人の幸せを願ってやみません。

                 標題の 「月がとっても青いから」 は。昭和30年の大ヒット曲。
                 まさかミロカミュになろうとは………!