吉田兼好  「徒然草」

                    【 大意 】   独りでいて手持無沙汰なのに任せて一日中硯に向かい、
                            心に映っては消え、映っては消えするつまらないことをとりとめもなく書きつけると
                            妙に物狂おしい気持ちになる。


「ギガント編」

「知ってるか?この頃じゃトマトにもいろいろな種類があって、」
聖域に赴いたラダマンティスにつき従ってきたギガントが夕暮れのひとときを教皇宮の裏手の石段の角に腰をかけて過ごしていると、頭の上から聞こえてきたのはミロの声に違いない。上階のベランダにいるらしくてそこからはギガントの姿が見えないものと思われた。
その言葉に、地上の食べ物の種類の豊富さに圧倒されていたギガントが真っ赤に熟れた美味しいトマトを思い浮かべて気持ちを高揚させたとき、さらにミロがこう言った。
「ミニトマトなんか黄色やオレンジ色のがあるのは常識だが、最近ではマイクロトマトっていう直径が1センチもないトマトが市場に出てる。」
「ほう!」
この相槌はカミュに違いない。
「そんなに小さいのに味はしっかり甘くておいしいって評判だ。ふふふ……まるでお前の胸の飾りみたいだな。ほうってはおけない。」
「またそんなことを言って……ミロ!よさぬか!」
「いいから♪いいから♪」
「どこもよくない!」
ミロは上機嫌なのにカミュが急に不機嫌になったのは声の調子でよくわかる。それっきり気配が消えたところを見るとよそに行ったのに違いない。

   胸の飾りってなんだ?
   耳飾りならわかるが、さて?

ミロの台詞の意味がわからなかったギガントは、地上に関する貧弱な知識を総動員してやっと臍ピアスとか鼻ピアスとかを思い浮かべたが、真面目を絵に描いたようなあのカミュがそれに類するものを断じて身につけないだろ うことは容易にわかる。

   それじゃいったいなんだ?
   胸の飾りって、ポケットチーフじゃないよな まったくミニトマトとは似てないし
   ええと、小さい一輪挿しみたいなのにバラのつぼみを挿したりするお洒落っていうのが男にもあったような気が……

それはブートニエールという紳士のためのアイテムだが、やはりミニトマトとは似ても似つかぬ代物である。それにカミュが不機嫌そうだったのもわからない。

   それじゃあ、いったいなんだ?胸の飾り……飾りって…… 小さくて真っ赤なミニトマトみたいで……え?

今度はギガントが真っ赤になった。 ミロの言わんとすることがようやくわかったのだ。

   聖域って……地上って………すごい!すごすぎる!
   あんな台詞がすらっと出るなんて、普段はいったいなにをしてるんだ?
   って、やっぱりあれなわけか??

遅まきながらやっと真相にたどり着いたギガントが唖然としていると、教皇宮から下に伸びている石段の下のほうにミロとカミュの姿が見えた。自分の宮に帰るのかなと思って見るともなしに見ていると、手近の建物のそばでカミュを引き寄せたミロが柱の陰に引っ込んでなかなか出て来ない。 しばらくするとちょっと頬を赤らめたカミュが出てきて足早に歩きだし、そのすぐ後をミロが追っていく。石段の曲がり角でいったん姿がみえなくなったが、次に見えた時には並んでいるのがギガントにはまるで寄り添っているかのように見えた。

   ふ〜ん、やっぱり仲がいいんだよな
   そりゃそうだろう  温泉ではああだったし、冥界でも我慢はしたものの思いっきりあれだったしな

冥界ではカップルがいないわけではないが、環境が殺伐としすぎているせいか、表だって関係を誇示するようなことはない。そんな気分になれないような鉛色の空であり荒涼とした大地なのだ。
唯一の例外は頻繁にラダマンティスのところにやってくるカノンで、やたらちょっかいを出してはラダマンティスにうるさがられている。 だが、めげない。 そこがカノンの偉い (?) ところだとギガントはひそかに思っている。正直、カノンが来なければ、カイーナの生活は平穏で安定しているが、その反面、退屈きわまりないと言えないこともない。迷惑がりながらも本気で追い返そうとしていないラダマンティスのみならず、カノンの存在はギガントたちにはいい刺激になっていた。ただし、ラダマンティス至上主義のバレンタインを除いては、の話であるが。
しかし聖域では、降り注ぐ日差し、抜けるような青い空、小鳥のさえずり、見はるかす蒼いエーゲ海、それらの全てが恋を青春を謳歌せよと勧めているかのようだった。冥界と地上の優劣をつけるなら、だれでも地上に軍配を上げることだろう。
そんなわけで、ミロがカミュの胸の飾りにいったいなにをするのか気になったギガントはその夜を悶々として過ごし、翌朝はもう少しで寝過ごすところだった。

   お互い独り暮らしだとすると、誰はばかることなく毎晩一緒に寝てるのか?
   ちきしょう!それって、うらやましすぎる!
   相手が男だろうとそんなことはこの際 関係ない   あれほど美男同士じゃ不足はなかろう
   しかし、胸の飾りとは言い得て妙だ

変な知識のついたギガントは苦笑する。 まったく応用できないトリビアだ。
外部からの客が泊まる宿泊所は教皇の間から一段下がった台地の角で、ベランダからは双魚宮以下の各宮がよく見える。 その双魚宮の陰にちらりと見える丸いドーム屋根がカミュの暮らす宝瓶宮だと思われた。

   十二宮って専有面積どれくらいあるんだ?
   カイーナじゃ、ラダマンティス様だって執務室とそれに付随した小さな寝室、あとは宿舎に一部屋しか持ってないっていうのに
   ここじゃ黄金聖闘士ってだけで、あの広さに一人で住んでるのか?
   いくらなんだって贅沢だろう!

実際には宮の大半はホールと通路という公共スペースで、個人が自由に使える区画はごく限られているのだが、そんなことは外来者にはわからない。 その限られた私的スペースさえ、二千年以上前から継承されてきた建築だけに、全く使われることなく閉ざされたままの空間がいくつもあるのが実態だ。
   「天蠍宮で使ってる部屋なんて、居間と寝室だろ、それから台所ほかの水回り、あとは納戸がわりに一部屋。おっと、一番奥に聖衣を
    安置してある部屋がある。水回りは俺が黄金になるまではカルディアの時代そのままの古さだったのを覚えてる。水なんて訓練代わり
    に麓から毎日運んでいたからな。あのころはそういうものだと思ってたけど、今思えばとんでもないな。まるで亀仙人の修行だろうが。
    サガが整備してくれて助かったよ。」
   「宝瓶宮には昔から図書室がある。あとは私が自分で整備した実験室と超低温室、規模は小さいが天文台もある。」
   「宝瓶宮の屋根だけは丸いドーム型になってるのはそのせいか?」
   「いや、そんなことはない。」
   「あと中庭に温室も作ったろ。」
宝瓶宮は例外的に空間利用度が高そうだ。

「ああいう住まいを見ちまうと、なんだかなぁ……聖域じゃ、黄金クラスは明らかにレベルが違うって感じだな。」
冥界ではハーデス以下の神はヒュプノス、タナトスもエリシオンに棲んでいて、冥闘士とは明らかに一線を画している。 格差社会の最たるもので、冥闘士の命など吹けば飛ぶようなはかなさだ。 冥界三巨頭を名乗るラダマンティス、ミーノス、アイアコスといえども部下から圧倒的な畏怖と尊敬を受けてはいるが、実質的な待遇には特筆すべきものはない。
さらに、黄金がかなりの俸給を受けていることを知ったギガントはまさに驚愕した。地上の貨幣価値には詳しくないが、いちばんよく知っているミロとカミュの話をそれとなく聞いていると冥界暮らしの身には想像を絶するほどの高給取りだ。彼我の差を感じずにはいられない。そもそも冥界には俸給という観念はない。

   冥界には給料なんてないぜ!
   まあ、仮にもらったとしてもまったく使い道がないんだが
   こうやって地上に来られるとすると使い道はある!
   俺だって、旨い酒や食い物を思う存分食べてみたいし、旅行とやらもしてみたい!
   ああ、くそっ!なんだって俺は冥闘士なんかに生まれて来たんだろう?
   って、もともとは地上に生まれた普通の人間だったはずなんだよなぁ……どこで間違ったんだか…?

それまでは気にもしていなかった地上の実態を知ってしまったギガントは後悔することしきりだ。
「やっぱ聖域のほうがいいよなぁ……といって、こないだは力でもぎ取ろうとして失敗したんだが。」
あのあとミューと一緒に温泉に招かれたギガントは、今度こそ正式に名乗ってミロとカミュと親交を深めることに成功した。 腹をくくって話してみれば、ミロは明るくて陽気だし、カミュは理知的で気配りのできる暖かい人柄だった。 バレンタインはすでにカミュと親交を結んでいたのでその点でも親しくなる下地ができていた。
「いまさら地上に生まれ変わることなんてできるわけがないんだから、力づくで奪い取るよりも時々こんなふうにやってきて骨休めをするほうがいいよなぁ。こういうのが平和ってやつだな。」
こんなふうにベランダから素晴らしい眺望を楽しんでいられるのは、ラダマンティスが副官のバレンタインを伴って会議に臨んでいるせいだ。正午までの予定で聖域と冥界の間に横たわる難しい問題を教皇シオンやサガたちと協議しているので、単なる随員のギガントには暇がある。
帯同する人員に自分を加えてくれたラダマンティスに感謝していると、階段を上がってくる人影が見えた。黄金の中でもひときわ大柄なアルデバランだ。ギガントが驚いたのはいかつい黄金聖衣のその肩に小さい子供をちょこんと乗せていることだった。
「あれってだれだ?聖域に子供なんかいるのか?まさかあいつの子供とかか?」
珍しい光景を注視していると、ふとこっちを見たアルデバランがその子供にこっちを指し示して見せた。
「おじさ〜ん!ねぇ、おじさ〜ん!」
こっちに向かって元気よく手を振っている対象はどう考えても自分としか思えない。
「えっ?俺のことか?おじさんって……」
子供からそんなふうに呼ばれたことは一度もない。それ以前に冥界には子供が一人もいないので、話しかけられるという経験がギガントには初めてだった。どぎまぎしながらそれでもなんとかぎこちなく手を振ると、
「今そっちに行くからね!待っててよ〜!」
アルデバランの肩の上から元気な声が返ってきた。
「来るって?なにしに?えっ?……えっ?」
聖域では冥衣は着ないことになっている。あまりに過去の闘いを想起させる漆黒の姿をあえて見せてわだかまりを再燃させる必要はないからだ。平服だから冥闘士には見えなかったのか?と思っているとすぐにベランダの端の階段を昇ってアルデバランが現れた。
「おじさん、冥闘士なんでしょ!おいらに冥界の話をしてよ!」
「こら、貴鬼!人に初めて会ったときはどうするんだったか、忘れたのか?」
アルデバランにとがめられた貴鬼がぺろっと舌を出す。
「あっ、いけない!またムウ様に怒られちゃう!おいらは貴鬼、アリアスのムウ様の一番弟子さ。」
「俺はタウラスのアルデバランだ。よろしくな。」
野太い声のアルデバランが大きな手を差し出した。ギガントも大きいほうだがアルデバランはさらに背が高い。おまけに聖衣のヘッドパーツがあるので余計に威圧感があるが、ギガントが闘ったのはシャカだけなのでアルデバランとはなんの遺恨も持っていない。そのためお互いに気持ち良く握手ができた。
「ああ…よろしく!地暴星のギガントだ。」
アルデバランと握手をした後、順番を待ちかねている小さい手をそっと握ると貴鬼がはじけんばかりの笑顔を浮かべた。

それから石造りのベンチに並んで腰かけて、貴鬼の要望に応じて当たり障りの無い程度に冥界の話をして聞かせることになった。好奇心でいっぱいの貴鬼はあらゆることを根掘り葉掘りと質問し、ギガントも精一杯答えながら他人に関心を持ってもらうということに不思議な充実感を得た。大人の黄金たちはそんなに細かいことを訊いてはこないし、もちろん感心もしてくれない。しかし貴鬼はそうではなかった。
「すごいんだね!冥界ってそんなとこなんだ!おいらも大きくなったら、いつか行けるかなぁ?」
天真爛漫な貴鬼の褒め言葉がギガントには新鮮だ。ミロやカミュにもいろいろな質問をされたが、けっして冥界の暮らしを羨ましいと思っていないことは明白だ。それだけに貴鬼の言葉がギガントには意外であり嬉しくもあった。
「貴鬼は冥界に来たいのか?何もないし、つまらんぞ。」
「え〜、そうかなぁ?おいらはよその世界を知りたいよ。ムウ様も、立派な聖闘士になるためにはいろいろな経験を積まなければなりませんよ、ってよく言うし。おじさんは冥界に住んでてすごいね!怖いことや疲れることもあるんでしょ?怪物と闘ったりすることもあるの?」
「まあな、そういうこともないではない。でも闘うのも仕事のうちだからな。」
「怪物ってどんな?ドラゴンみたいなの?それともゾンビみたいなのもいるの?すっご〜い!」
最下層から得体のしれない魔物が現れることもたまにある。もともと魔性のものなのか、それともかつては地上にいた人間が冥界に堕とされてきたそのなれの果てなのかギガントにはよくわからない。ただ、ラダマンティスの命令一下、命を賭して闘うだけだ。
「俺たちは冥界の秩序を乱す者は断固として退ける。それで命を落としても悔いはない。」
「偉いんだね!聖闘士もそうだよ。地上の平和を守るために命懸けで闘うんだ!」
貴鬼が小さな胸を張った。
「あ……でもこないだは闘っちゃったね、おいらたち。」
顔を赤くした貴鬼の声が小さくなった。触れてはいけないことに触れてしまったのを子供なりに後悔しているのだ。
「だから、こうして仲直りのために何度も話し合ってるんだ。そのために俺もここに来てるんだし。」
「うん……そうだね、そうだよね!……そうだっ!」
気を取り直したらしい貴鬼が、急にいいことを思いついたという顔で目を輝かせた。
「おじさんも肩車してよ!おいらが聖域を案内してあげる!」
突然の要求にギガントは驚いた。ただでさえ冥闘士なのに加えて、この大きい体では子供に怖がられても当然だと考えていたからだ。
「俺がお前を?」
「そうだよ!アルデバランのおじちゃんとどっちが上手か比べてあげる!おいらは肩車の達人だからね!」
「それを言うなら肩車される達人だろう?」
それまでにこにこしながら聞いていたアルデバランが初めて意見を言った。

宝瓶宮の窓から外を見たミロがカミュを呼んだ。
「おい、あれってギガントだろ?」
「ああ、ほんとだ。貴鬼が肩車されているな。」
「貴鬼がさせているのかもしれんぞ。あいつも大きいから眺めがいいんだろうな。お前、貴鬼に肩車をせがまれたことってあるか?」
「いや、ない。 お前は?」
「俺もない。 あいつって、大きさで相手を選んでるのかな?それとも人間的相性か?」
「さぁ?」

重苦しい会議の合間の休憩時に外の空気を吸いにベランダに出たラダマンティスもこの光景を見た。
ギガントと貴鬼のまるで親子のような微笑ましい光景が、平行線をたどる論議に疲れた心を和ませる。風に乗って聞こえてきた小さい子供の笑い声に唇の端が緩んだ時、会議の再開を告げる声が後ろから聞こえてきた。
「いま行く。」
短く答えたラダマンティスが室内に戻っていった。




  
      穏やかなだけではない聖域と冥界の関係。
        でもきっとよい方向に進んでいくと信じています。

                ブートニエール → こちら
                マイクロトマト  → こちら



つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、
心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。