吉田兼好  「徒然草」

                    【 大意 】   独りでいて手持無沙汰なのに任せて一日中硯に向かい、
                            心に映っては消え、映っては消えするつまらないことをとりとめもなく書きつけると
                            妙に物狂おしい気持ちになる。



「ラダマンティス編」

聖域の空気は重い。
いや、それはたしかに空の高みまで続く蒼穹の青、麓から吹き上げるエーゲ海の潮の香りを含んだ風、燦々と降り注ぐ真夏の陽光は冥界に棲んでいる身には果てしない羨望の対象だ。しかし、それゆえにラダマンティスにはそれらの全てが重く感じられた。
初めて聖域にやってきたのは聖戦が終わって三か月ほどしたときだ。物質的にも精神的にも酷く傷ついた双方のダメージも表面的には癒え、復活するものは復活し、そうでないものは黄泉の国で二度と覚めない眠りにつくことが確定したころになってようやく戦後処理に手をつ行けることになったのだ。
「聖域に赴かねばならぬ。バレンタイン、一緒に来てくれるか?」
「はっ、喜んでお供いたします。」
敗戦の身で気が重い道行きを共にするのは長年ラダマンティスに仕えているバレンタインだ。どんなときにも忠実だったこの部下はラダマンティスが死ねと云ったら即座にその命を絶つだろうくらいに上司を信頼し心酔している。それゆえにラダマンティスは弱音を吐けなかった。
会議の場にはいつも教皇シオンとその補佐役のサガがいる。アテナはこの場に臨席することはなく、最終的な意思決定の時には教皇がアテナ神殿に赴いて上申して決済を仰ぐことになっているのだ。それは冥界でも同じことで、重要事項についてはパンドラがエリシオンでハーデスの裁可を仰ぐことになっている。神々は滅多なことでは人前に姿を現さぬものである。

   それに我々のしたことを振り返ってみれば、アテナもけっして会いたくはないだろう
   三人の黄金聖闘士に仮初めの命を与えて聖域に送り込み、アテナの首を狙わせたのだからな
   戦略的には正しかったが、聖域から見ればまさに悪魔の所業だろう
   結果としてはそれが聖域の勝利につながったとはいえ、歓迎できる成り行きではなかったはずだ

そのことによって引き起こされた多くの葛藤や怒り、苦痛や悲嘆をラダマンティスは知らなかったが、もしも逐一説明されたらとてもいたたまれなかっただろう。
「では次の議題に入る。」
サガの冷静な声にラダマンティスは我に返った。こうした平穏なときに見るジェミニの聖闘士はカノンに瓜二つでラダマンティスの心を騒がせる。
「俺と兄貴にはいろいろとあってな。うん、一言では言えない。」
自嘲気味のカノンの言葉がよみがえる。詳しくは話してくれなかったしラダマンティスも聞こうとはしなかったが、断片的に耳にはさんだ過去の経緯はけっして楽観できるものでなかったのは確かだ。いや、むしろ茨の道だろう。
翻ってラダマンティスにはそんなものはない。もはや記憶にもとどめないほど昔からハーデスに忠誠を誓い、数えきれないほどの闘いを勝ち抜いてきたのだ。ゆえに、カノンとの間にはどうしても理解しあえないものがあるとラダマンティスは考えている。いかにカノンが恩讐を超えて胸襟をひらいてきても、俺はやつを心底から理解してやれない、の念が抜けきらない。
そして気の遠くなるような長い歳月を生きてきた自分のことをカノンは理解しきれないだろうとの思いもラダマンティスにはあった。カノンはシオンと童虎を除けば現役の黄金の中では最年長らしいが、それでもたったの二十八歳だ。いかにも若い。若すぎる。ラダマンティスは肉体こそ二十三歳と若いが、精神的には老成の域をはるかに超えるほど生きてきたのだ。

   いや、生きるというより存在してきたといったほうが正しいのか?
   いずれにせよ、カノンと俺は釣り合いが取れない

しかし、こんなことをちらとでも匂わせようものならカノンは猛烈に反発する。
「過去の経緯はどうでもいい!大切なのは今だろう!そうは思わないのか!?」
その理屈もわかるだけにラダマンティスは悩むのだ。

「ではこれらの件は双方とも持ち帰って協議続行とする。次回までには一層の進展がみられることを強く望むものである。」
三つほどの案件をこなしたところでシオンがこう述べて休憩に入った。聖域側の出席者が一斉に席を立ち、残っているのはラダマンティスとバレンタインのみだ。さっきまでの重い空気が緩んで ほっと息をつく。
「ラダマンティス様、お疲れではありませんか?」
隣席のバレンタインが心配そうに声を掛けてきた。
「お茶をどうぞ。これはイギリスの紅茶だそうです。ダージリンと言っていました。」
「そうか。」
給仕の盆からテーブルに置かれたティーカップを勧められるままに手に取れば、透き通るような白地に華やかな金の縁取りがあってコバルトブルーのクラシカルな花模様がいかにも美しい。パンドラの喜びそうな佳品で、できることなら土産に持って帰りたいくらいだが、この会議の場でそのような平和すぎることを言い出すのは空気を読まな過ぎるというものだろう。
これがごく普通に使われる品なのか、それともこうしたものに乏しい冥界側に地上の豊かさを見せつける意図があるのかはわからないが、いずれにせよこんな小さなカップ一つとってみても地上の圧倒的優位は動かしようがないのだ。
「お前はキプロスの出身だったな。」
「はい、覚えておいていただいたとは光栄です。」
「国に帰りたいと思ったことはあるか?」
「いいえ、それはありません。自分が住んでいたころの記憶はありませんし、家族・知人もいないので。どんなところなのかとごく普通の関心があるだけです。」
「そうか。」
イギリスの紅茶と聞いておのれがイギリス出身であったことが胸を掠めたが、それとてほんの一瞬だ。地上に憧れや未練がないといえば嘘になるが、今のラダマンティスには縁のない土地なのだった。
「外の空気を吸ってくる。」
「行ってらっしゃいませ。わたくしは今のうちに議事録の整理をしておきます。」
「うむ、頼む。」
廊下の反対側の部屋を抜けるとすぐそこは見晴らしの良いベランダで、気持ちの良い風が吹き抜けていた。眼下には双魚宮をはじめとする黄金の守護宮が麓に向かって連なり、はるか遠くには多くの島々を浮かべている青い海が輝いている。この陽光降り注ぐ聖域全体を柔らかに覆うアテナの小宇宙が安寧と癒しに満ちているのがラダマンティスにもはっきりと感じられた。

   違うものだな
   冥界の空気はざらついていてもっと乾いている
   慣れているから気にもしないが、ここの空気はこころなしか甘いような気さえする

そのとき甲高い子供の声がした。不思議に思ったラダマンティスがすぐ下の道に目をやると、小さい男児を肩に乗せて下に向かって歩いているのはギガントだ。
「あいつは何をしているのだ?」
冥界を出るときは冥衣だったが、ここ聖域ではあまりに地上の人間の心証を害するのがわかり、やむなく平服を着ることになっているので、いかついギガントもごく普通の服を着ていて、背が高すぎる点を除けば一般人と変わりなく見える。しかも子供を肩に乗せているときては、まったく冥闘士らしくない。
子供にあちこちを指差されては頷いたり喋ったりしている様子がまるで親子のようにも見えた。
「それとも年の離れた弟といったところか? 冥闘士でなければ、あんな日常があったはずなのか。」
ふと苦笑いが漏れた時、
「ラダマンティス様、会議が再開されます。お戻りを願います。」
バレンタインが呼びに来た。
「いま行く。」
ラダマンティスが踵を返した。いつもなら身を包む漆黒の翼竜の翼がないのがいささか心もとなく思われる。

   冥衣の威を借りねばならぬのでは まだまだだな

肩をそびやかしたラダマンティスが室内に戻っていった。



「おい、ラダマンティスだ。」
「そうだな。」
気の張る会議が終わって宿舎へと向かうラダマンティスを見かけたのはミロとカミュだ。
「このままじゃ、すれ違うことになるな。」
「そのようだ。」
「俺はあいつが嫌いだ。顔も見たくない。」
「それは何度も聞いた。しかし…」
「わかってる。もはや聖戦は終わったし遺恨を残すことがあってはならないのはよくわかってる。だが嫌なものは嫌だ。どうしても好きになれない。」
脳裏に深く刻み込まれている幾つかの記憶は、忘れようとしても忘れられない苛烈さでときおりミロを襲う。

   ハーデス城でやられたのはまだいい  いくら力が出せなかったとはいえ負けは負けだ
   しかし…っ!

のちになって氷河から聞いた、
「我が師カミュが冥闘士に足蹴にされているのをラダマンティスは止めようとしなかった」 という衝撃の事実がどうしても頭から離れない。
「気にすることはない。戦場ではままあることだ。いつまでも過去にこだわるのはよせ。」
カミュは繰り返しそう言うが、ミロの心中がどうして穏やかでいられよう?
結局、ミロはまっすぐ前を向いたまま一瞥さえもせず通り過ぎ、バレンタインとカミュだけが軽く合図をして双方は離れて行った。
「カミュとは話が合うようだな。」
「はい。植物や地質のことでお互いの関心が近いので。」
「よいことだ。学問の交流で互いの理解が進むのが理想だろう。今後もうまくやるとよいだろう。」
「ありがとうございます。…おや?」
宿舎の入り口にカノンがいる。
「よう!食事に付き合ってやろうと思って待っていた。」
「気が早いな。まだ四時だぞ。」
「俺のテリトリーだ。好きにさせろ。」
「勝手だな。」
他愛のないことを言いながら並んで入っていくのが親しげでバレンタインには面白くない。どうせそんな事とは思っていたが、上司との静かな時間を邪魔されるのが心外なのだ。

   どう見ても学問の交流ではなさそうだ
   ………いや、余計なことを考えるのはよそう

奥からさっそくカノンがグラスを並べる音が響いてきた。




  
      私服のラダマンティスって、翼をもがれた鳥のようなもの?
        いえいえ、ワイバーンの実力を甘く見てはいけません。

        「なにぃっ! やつが聖域にいるだと! 今度こそ決着をつけてやる!」
        「よせっ!カルディア!自分の身体を考えろ!」
        「そうだっ! 俺の代わりにミロにやってもらおう!聞くところによるとあいつもラダマンティスには遺恨があると言っていた!」
        「あっ! カルディア! カルディア〜〜っ!」




つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、
心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。