あっという間もなかった。
ミロが露天風呂に行っている間に日課の散歩に 出掛けた私は後ろからやってきた車にはねられた。
気がついたのは救急車の中だ。 まだ走行しておらず、救急隊員が私の受傷箇所を調べている最中で、ひどく痛む右手と右足はすでに患部があらわにされていた。
左腕の上膊部には血圧計のベルトが巻かれて指先には血液中の酸素濃度を測定する器具が付けられており、実物を見るのは初めてなのでちょっと感動する。
傍らのモニターを見てバイタルに異常はないことを確認していると、
「日本語はわかりますか?」
と呼び掛けられた。
「はい、大丈夫です。」
と答えると隊員はほっとしたようだ。 英語は通用するのだろうと思うが、日本に来たときのミロと同じように、もし私がギリシャ語しかわからなかったらどうなっていたのだろうかと考えていると、希望の病院はあるかと尋ねられたのでミロが先月入院したのと同じ病院の名前を言っておいた。
医療技術は確かだし、あとでミロが見舞いに来る際にも勝手がわかっていて都合がよい。
隊員が病院に連絡をとり受け入れ可能であるのを確認すると救急車はサイレンを鳴らしながら走り出した。
「骨折でしょうか?」
「ええ、上肢と下肢の単純骨折のようですね。 正確なことはレントゲンを撮ってからでないと言えませんが。」
「左の側頭部を打ったようです。 疼痛があります。」
「わかりました。」
様子観察のために一晩は入院するのは間違いない。 さぞかしミロが騒ぐだろうと思いながら問われるままに住所氏名年齢国籍を答える。
ミロに連絡すべきだが、まだ露天風呂を楽しんでいるはずだし、じきに降りてしまう救急車の内部の様子を観察したかったので、テレパシーを使うのはあとにした。
救急車に乗るのはむろん初めてで、実に様々な医療機器やアイテムが狭い空間に合理的に配置されているのに感銘を受ける。
一見しただけではわからぬ機器の用途について質問する機会を窺っていたが、思いのほか早く救急車がサイレンを消して病院の敷地内に入っていったのでそれがかなわなかったのは残念だ。
一般人が救急車の内部を見学する機会があればよいのだが。
救急車の後部のドアが開けられた。 連絡を受けていた病院のスタッフが待ち構えており、私は手際よく救急治療室に運ばれて処置を受けることになった。
そばにいた看護師に住所氏名を名乗り、ミロへの連絡を依頼する。
「既往症、アレルギーはありません。 血液型はAです。」
「わかりました。」
看護師が書類に必要事項を書き留めている間にミロへテレパシーを飛ばす。 案の定たいへんだった。
(なにぃっっ! 交通事故だとっ! どこをやられたっ?!手と足って、俺より酷いじゃないかっ?! 加害者はどこに
目をつけて運転してたんだっ!! すぐに行くっ! 俺のときと同じ病院だなっ!
待ってろ!)
(落ち着け! 病院からそのうちに連絡が行く。 そのあとで来てくれればよい。)
(そんなに待てるかっ! 頭を打っていたら内出血して人事不省になるかもしれんのだぞ! 大事なお前に万が一の
ことがあったらどうするんだっ!)
(気持ちはわかるがともかく連絡を待て! 早く来てもらっても処置中ゆえ待つことしかできぬ。)
(いやだ!)
(しかたのない………ではいつでも出かけられる用意をしてロビー付近にいればよい。
そうすれば病院から電話が
あったときにすぐに対応できるだろう。)
(わかった!)
あとで聞いたら、さりげないふうを装ったミロは、出かけるから車を頼みたい、と言ってすぐにも病院に駆け付けられる用意をして、玄関先に車を5分ほど待たせたまま連絡の電話を待ち構えていたのだそうで、美穂とともに病院に到着したのは恐ろしく早かった。
(おいっ、いま待合室に着いたところだ! いまどうなってる?! 状況を教えろ!)
(レントゲンと頭部CTは終わった。 これから患部の処置に入る。 まだ時間がかかるものと思われる。)
(まさか開放骨折ってやつじゃないだろうな? そうだったら入院が長引くぞ!
ギリシャに帰って治療するなんて
悠長なことは容認されないんじゃないのか?)
(安心しろ、幸い単純骨折だ。)
(あぁ、よかった!アテナのご加護だ!)
自分が骨折したあとネットでいろいろと学習したミロは、学術的解説だけでなく骨折経験者のブログなども幅広く読んだものとみえ、きわめて広範な知識を持つに至った。
「ふ〜ん、複雑骨折ってめちゃめちゃに折れてるのかと思ったら、骨折部が外気に触れていて細菌感染を起こす可能性があるから治療が複雑になるんで複雑骨折っていうのか。
知らなかったな。 間違われやすいからこのごろは開放骨折って言うんだそうだ。 知ってたか?」
むろん知っている。
「信じられるか? バイクの事故で膝下を複雑骨折して長さ20センチの金属のプレートを14箇所もボルトで留めたんだそうだ!想像を絶するな!一年たっても歩行が元に戻らないって書いてある!」
一年どころか、一生直らないケースも多いと聞いている。
「おいっ、骨に金属を通してそれをおもりで牽引ってなんのことだ? 恐ろしい状況のような気がするが?」
そんな羽目になるくらいなら私もすべてを投げ打ってムウのところに駆けつけさせてもらう。 あとは野となれ山となれだ。
「足の複雑骨折だとすぐに退院できないのかっ! おまけにずっとベッドに寝たきりだぜ! トイレや風呂はいったいどうするんだっ?」
そんな微妙なことは私に聞かないでネットで調べてもらいたい。 世の中には答えたくないことはあるものだ。
そんなときのためにネットは存在する。
それからまだミロに伝えておかねばならないことがある。 待合室や病室ではミロの反応が心配だ。
(それから左膝に切創がある。)
(せっそう?)
(切り傷のことだ。 縫合が必要だろう。)
(なにぃぃぃ〜っ! 傷があるのかっ!)
(聖闘士が傷を恐れていては話にならぬ。 傷など修行時代に数え切れないほどついている。)
(でもそんなのはとっくの昔にムウが治してるし、黄金になってからは毛筋ほどの傷もついたことはないだろうがっ!
俺だってお前を抱くときはけっして傷つけないように細心の注意を払って、無理なことは何一つさせてないのにっ!
なのに、お前の玉の肌に傷が〜〜〜っ!)
(恥ずかしいことを言ってくれるな! 頭を打ったところに響くような気がするので少しリアクションを抑えてくれぬか。)
(あ、すまん…)
思い出したように憤慨するミロをなだめながら検査と処置を受けること2時間。
初めての経験にやや高揚したままに待ち合い室に出てくると待ち兼ねたようにミロが駆け寄ってきた。
「大丈夫か!」
「うむ、心配かけてすまぬ。」
人目がなかったら抱きしめられていたろうと思う。 ミロはとても心配そうで、蒼ざめていた。
むろん一緒に来ていた美穂も同様だ。 テレパシーで情報を得ていたミロと違ってなにもわからないだけに美穂のほうがより深刻だったろう。
前回と同じで、ミロが医師から説明を聞いている間に美穂に状況の説明をしておいた。
それにしても、二人揃って交通事故で骨折とは我ながらあきれてしまう。 聖闘士は事故に遭いやすいのか、などとあらぬ誤解をされては困るのだが。
「やっぱり今夜は入院だ。」
やがて出て来たミロが悔しそうに言う。 まさか医師に抗議したりしなかったろうかと気にかかる。
「特別個室を頼んでおいた。 異存はないだろうな。 大部屋では睡眠が確保できないのは経験済みだ。」
異存を申し立てても受け入れてもらえる余地はなさそうだ。 それに個室のほうがミロの愚痴を聞きやすい。
8階の個室は見晴らしがよい。 一緒に来て部屋の設備に感心したらしい美穂がしばらくして帰っていったあとはミロの独壇場だ。
「今夜はしかたがないが、退院したらできるだけ早くムウのところに行こう。
お前がいやだと言っても白羊宮に直行するからな! それから、今夜は俺が泊まり込んでお前の世話をするからそのつもりでいてくれ。」
「え……でもこの病院は完全看護で付き添いは必要ないと言われているはずだが。」
しかし私の考えはあっさりと一蹴された。
「いや、言葉のよくわからない外国人が夜中になにか訴えたら夜勤の看護師だって対応に困るはずだ。 忙しいスタッフにそんな迷惑はかけられん。 そのために個室をとったんだから気にかけることはない。 すでに簡易ベッドを借りる手筈も済んでいる。」
「言葉のよくわからない外国人とは私のことか?」
「言葉のあやだ。 気にするな。 交通事故のショックで日本語を忘れてフランス語やギリシャ語で症状を訴える可能性があり心配だと医師にいったらあっさりと付き添いの許可が出た。
日本の医者は気が利くな。」
「そういうものか?」
「それに、俺のときと違って手もギプスじゃないか。 それも右手だぜ。 食事のときに困るだろうが。」
すると私はミロに食べさせてもらうのか?
左手で箸を使う自信はないが、こういった場合はスプーンがついてくるのではないだろうか?
心配してくれているのはわかるので私は諦めることにした。 泣く子とミロには勝てぬのだ。
そしてミロはほんとうにかいがいしく私の世話をしてくれた。
「大丈夫だというのに。」
「そのくらいはひとりでできるから。」
私の抗議に聞く耳を持たぬミロは痒いところに手が届くようなことまで先回りして、ときに私を赤面させる。
「いいから俺にやらせろ。 たまには世話されてみるのもいいものだぜ。」
あれこれと世話を焼くミロは楽しそうで、私もついに根負けして好きにさせることにした。
食事も終わり夜になる。
「窓の近くは冷えるな。」
カーテンを閉めたミロがベッドの左側に椅子を引き寄せて私の手をとった。 無傷のように見える左手も手の甲から第四指と第五指にかけて擦過傷がある。
「ほんとに無事でよかった。 生きていてくれて嬉しい。」
「ん……」
そっと押し当てられた唇からミロの暖かさが染みてきた。