君がため 春の野に出でて若菜つむ わが衣手(ころもで)に雪は降りつつ |
「もう少しだ!」
急峻な岩場の途中から上を見上げたミロは額の汗をぬぐった。
立ち入りを禁じられているスターヒル近くのかなり高いところにきれいな花が咲いているのを見つけたのは昨日のことだ。
聖域には花が少ない。 ただでさえ乾燥した土地柄なのに加えて、聖闘士を初めとする構成員には男が多く、およそ花を育てて環境の緑化だの心の安らぎだのを図ろうとする人間などいるはずもないのである。
そんな環境で、ミロが見つけたこの花は、夢のように美しく見えたのだ。
もっと技量が上がればこのくらいの岩山など簡単に登れるのだが、今のミロはその域に達してはいない。
崩れやすい足元を確かめながら手を掛ける岩にも気を配り、一歩一歩登ってゆくにはかなりの緊張を強いられる。1時間ほどかかってやっと花の咲いている場所に辿りつくと、一本だけ手前に見えていたのが、その奥にも群生していることがわかりミロをほっとさせた。
よかった! こんなにたくさんあるなら、一本くらい持っていっても大丈夫だ!
どんなに喜んでくれるだろう♪
安心して右手を伸ばして折り取ったときだ。 もろくなっていた足元の岩が崩れ、バランスを失ったミロはあっという間に崖下へ落ちていった。
ミロが最後に見たものは、遠くなってゆく空だった。
アイオロスにラテン語の成句について質問をしていたカミュが不意に口を閉ざした。
「すみませんが、用を思い出したのでここで失礼してもよいでしょうか?」
「ああ、かまわないが。」
「では、どうもありがとうございました。」
一礼したカミュが急ぎ足で去ってゆき、アイオロスも辞書を閉じた。
十二宮を離れるとカミュは足を早めた。 誰にも見咎められぬものならば急ぐにこしたことはない。
やがてカミュは目的の場所を探し当てた。
ここはスターヒルにもほど近い……なぜこんなところに?
よく知り尽くしている小宇宙を辿ってゆくと、高い崖下の岩の向こうにミロがいた。
「…ミロっ!!」
カミュが近付いてくるのはわかっていたのだろう。 ミロはようよう立ち上がり平気なふうを装っているのだが、岩にもたれかかって片足に重心をかけたまま、一歩もそこから動けないのは一目瞭然なのだ。
「どうしたのっ、こんなところで?!」
「花を……上に咲いてる花を見ようと思ったら、ちょっと足を滑らせて……ここまで落ちた。 でも、なんともないからっ!大丈夫だから!」
真っ赤な顔で言うのだが、ちらっとカミュを見ただけでその目はすぐにそらされた。
「怪我………してるの?」
「ううん、ちょっと打っただけ! このくらい平気だから!」
ぶんぶんと首を振るミロは、気丈に否定して見せるのだ。
「見せて!」
「あ……」
そもそも動けないのだから、もうどうしようもない。 右のふくらはぎのひどい打ち身を見たカミュが青ざめた。
左の手首も激しく打ちつけたらしく裂傷を負っている。
「……こんなひどい傷………ミロ……どうして?」
カミュは唇を噛み、眉を寄せた。 いつものミロなら、こんなことは考えられないのだ。
むろんカミュは、ミロが手に持った花を離したくなくて体勢を整えられなかったことなど知る由もない。
ミロをそっと座らせたカミュは、両手を傷口に当てて冷気で冷やし始めた。
もともと手首の傷口はズキズキと脈を感じさせていたのだが、カミュに手当てしてもらっていると思っただけで、もっと強く脈打つような気がしてくる。
「大丈夫? 冷たすぎない?」
「…ん……ありがとう………」
普段は陽気なミロがさすがに黙り込んでしまったのも無理はない。 こんな無様な有様をカミュに見られるはずではなかったのだから。
30分も冷やしていると、腫れも少しはおさまってきたようだ。
「そろそろ歩ける?」
「……いけると思う。」
手を貸したカミュが歩き出そうとしたときだ。
「待って、あの花を…」
「……え?」
少し離れたところにピンクの百合が落ちている。花茎が途中で折れているものの、聖域には珍しい美しい花だった。
「あの花を……カミュにあげようと思って…」
「………それで、崖から落ちたの?」
こくんと頷いたミロが真っ赤になった。 未熟にも崖から落ちたことを恥ずかしく思っているのだと考えたカミュは、それ以上は触れずに拾い上げた百合を、考えた末にミロの右手に持たせることにした。ミロを支えるカミュが花を持つのは無理なことで、その結果歩き始めるとカミュの顔のそばに百合の花がゆらゆらと揺れることになった。
こんなみっともないことになったとはいえ、ミロから見れば、やはり、きれいなものはきれいなのである。 ほう、と溜め息をつくとカミュに聞えたようだ。
「やっぱり痛いの?」
「あ……大丈夫、少しだけだから。…花………あげようと思ったのに折れちゃって……ごめん…。」
「ミロ……」
カミュが立ち止まった。
「花は折れてもいいけど……ミロが…ミロがこんなに怪我したらだめだから!このくらいの怪我ならシャカでもムウでも治せると思うけど、もし……もし取り返しのつかないことになったら……」
つきつめたような口調がミロをどきっとさせた。 そっと顔を見ると、言葉を切った唇が震え、今にも泣きそうなのをこらえているようにも見えるのだ。
「ごめん………ほんとに心配かけてごめん……」
それきり黙ったまま十二宮の近くまで帰り着くと、カミュは花を人に見つからぬところに隠すことにした。
「ミロを誰かに預けたら、私がそっと取りに来るから。」
「しおれちゃうかな……」
「それなら大丈夫、根元に水を集めておける。」
そう言ったカミュが地面のくぼみに指を当てると、じわっと清水が湧き出したではないか。
「ここに、ほら、こうやって切り口を置けば日暮れまでは十分に持つから。」
「うん、ありがとう♪」
ほんとにカミュはやさしくて………だから、俺……
その後、怪我の治療を受けながらミロは散々お説教を受けることになったが、心の中では幸せいっぱいだった。 まだこのころはシャカの説教を聴かされるわけもなく、アイオロスの噛んで含めるような訓示はミロには痛くも痒くもないのである。
だって、あのカミュが俺のことをあんなに心配してくれて
涙まで流しそうになって……
それに、あの花を宝瓶宮に飾ってくれるんだもの!
早くも来年の花どきを待ちかねてうずうずしているのが、いかにもミロらしいのだ。
翌日になって理由をつけて宝瓶宮に行ってみると、ホールにも居間にもあの花がない。
ちょっと心配になり聞いてみた。
「あの花だったら……あの…寝室に飾ってあるから…」
「あ…そう……」
わけもなくドキッとして、二人とも顔を赤くしたままで話は終わった。
ミロがカミュの寝室に入るのは、それから何年ものちのことになる。
「 冠位十二階 」 レベル3の話を膨らませてみました。
まだ幼さの残る二人です。
ミロ様のドキドキが聞えてきます。
この花は姫小百合 ( ひめさゆり
)、
およそ聖域には咲きそうにありませんけれど、特別に♪
ミロ様がこのあと初めてカミュ様の寝室に入る話は、
「古典読本・53 」 にあります。
やっぱりミロ様、ドキドキです(笑)。