これがまあ つひのすみかか 雪五尺 |
小林
一茶
※ どうやらうちでは、サガの乱はないらしいのでした。 その旨ご了承ください。
世間的には子供の域を出ないカミュに弟子をとらせることについてはサガとアイオロスも相当考えたが、教皇の叡慮に異を唱えるべくもない。
黄金としてはようやく一人前になったとはいうものの、極東の雪と氷の大地の只中で、おのれ一人のほかに頼るなにものもなく、幼いといってもよい年頃の弟子を育成し、教育してゆくという重責を負わせるにはあまりに無垢に見えるのだった。
「大丈夫だろうか? 聖闘士しての訓練はともかく、小さい子供の世話全般をすることになるのだぞ。 食事から環境整備から健康管理から、全てがカミュの肩にのしかかることになる。」
アイオロスが心配するのももっともだ。 聖域ならば、常に他宮に人がいる。 緊急事態には大人の的確な判断が要所を締めて補完する。
しかし、シベリアではカミュ一人だった。
「だから、新しい暮らしが始まるまでは我々が全面的にバックアップせねばならない。
そして、いざ、弟子との暮らしが始まった時にはもう一切の手は出せぬ。 カミュも師となったからには聖域に援助を要請することを潔しとはしないだろう。 出発までの日は忙しいぞ、カミュも我々も。
シベリアでの暮らしに必要な物品を用意し、家事の切り盛りを教えねばならないのだからな。」
究極の凍気を操る聖闘士に相応しい修行地を選定したサガはすでに住まいを用意し、簡素ではあるが質の良い家具等を運び込んでいる。 あとは細かな日用品などの搬入や燃料、食料の調達の手立てを確立することだった。
「それにしても小さすぎる。 せめて十五、できるならば二十歳を越えていれば、なにも心配することはないのだが。」
遠くでミロたちと訓練に励んでいるカミュの姿が見えて、そのあまりの若さがアイオロスを慨嘆させる。
「しかたあるまい。 水瓶座の星の下に生まれた子供があらたに見い出されたのだ。
カミュの時には凍気を持つ聖闘士がおらず我々が指導するしかなかったが、今度はカミュが自らの中に内包していた真の凍気で弟子を育成してゆくのだ。
生きている間に弟子を持つ聖闘士の方が遥かに少ないのは知ってのとおりだ。 そう考えれば、カミュもその弟子もきわめて恵まれていると言えよう。」
確かにその通りで、黄金の中ではわずかにムウだけが老いた教皇の指導の下にアリエスの聖衣修復の技術を継承しようとしているのだった。
「いいかね、カミュ。 シベリアで暮し始めたら、そのときから私たちを頼ることはできぬ。 すべてのことを自分で判断して行かなければならないのだ。」
サガに言われて緊張した表情で頷くカミュにアイオロスも言葉を重ねずにはいられない。
「例えば訓練中に弟子が怪我をしたときには君一人で処置をすることになる。
骨折や内臓損傷や脳挫傷も起こりうる。 どんなときにも適切な処置を取れないと命取りになりかねない。」
すでに一通りの医学知識は身につけたものの、それはやはり机上の学問に過ぎないのだ。
そのほかにも栄養学や気象学や人体生理学に始まって児童心理学に至るまで、様々な書物がカミュに先んじてシベリアに運ばれているのだった。
「シベリアまではテレポートするが、君の力はまだまだ弱い。 完全にこなせるまでは我々がサポートしよう。
」
若い黄金ではムウだけがテレポートを楽々とこなす。 それはカミュが凍気を持って生まれたのと同じことで、ムウに天性備わったもののようだ。
「いつになったら会得できるでしょう? シベリアでも可能でしょうか?」
危ぶむカミュは少し心配そうにする。 それも当然で、もし幼い弟子が骨折でもしようものなら、単純骨折はともかく、複雑骨折でもしたときにはとても手に負えるものではない。 即刻抱きかかえて聖域へ跳ばなければならないのだった。
「君ならすぐだ。 シベリアの寒気のなかで自分の小宇宙がどれほど躍動するか、感じたことがあるだろう?」
カミュがこくりと頷いた。 今までに何度か行ったその極北の地で、なんとにたやすく究極まで小宇宙を高めることができたことだろう。
サガに促されてシベリアで初めて発現させた小宇宙は一点の曇りもなく空の高みに立ち昇り、ついには漆黒の夜空に美しいオーロラを出現せた。
緑、青、紫と千変万化してゆっくりと、或いはめまぐるしく動く光の帯が極北の空を彩り、見上げるものに歎声を上げさせる。
「あ…! きれい!!」
「これが君の創り出したオーロラだ、カミュ。 聖域では決して見られない、君の凍気の小宇宙の本質だ。」
「ほかの者に見せてやれないのが残念だな!」
ほんとに! ミロたちが見たらどんなに喜ぶだろう!
図らずもサガとアイオロスに見せたこの日のオーロラは、いつまでもカミュの胸に残った。 後年、シベリアを訪れたミロはこの壮大優雅な光景に目を奪われることになる。
出発の当日、サガとアイオロスに伴われて現われたカミュは落ち着いていて一人前の大人のようでみんなを驚かせた。
別れの挨拶も大人びて同年代のものの目を瞠らせる。
いよいよ旅立ちのときになりカミュが小宇宙を高め始めると、それに呼応してサガの鮮やかな小宇宙がそれを支えるように寄り添い立ち昇る。
皆が息を呑んで見守る中でカミュは新しい一歩を踏み出していった。
「わっ!!」
次の瞬間、凄まじい雪混じりの風がカミュを後ろから吹き飛ばし、まだ小さい身体が10メートルほど先の雪だまりに叩きつけられた。
今まで5,6回ほども来たのに、こんな悪天候に遭ったことのなかったカミュは茫然とする。なんとか受け身は取ったが、この強風ではその体勢さえも崩されかねないのだった。
寒さはもとより承知だったが、風が吹いていれば体感温度は下がるものだ。 気温が10度のときは風速が1メートル増すごとに体感温度が1度下がるが、気温が低ければ低いほどその下がり方は顕著になり、たとえばマイナス20度で毎秒10メートルの風が吹くと体感温度はマイナス40度にもなるのだった。
知識としては知っていたが実際に体験する極北の寒さがひしひしと身に滲みる。いや、寒いというよりそれは痛いとしかいいようのないものなのだ。
すぐそばに見えたこれからの住まいに急いで駆け込み事なきを得る。
ほっとして部屋を見回すと、昨日最終点検に来たときにサガとアイオロスが置いていった花が氷のオブジェとなっている。 どきどきする胸をなだめながらじきに到着する筈の弟子を迎えるために暖炉に薪をくべ終えてひとまずほっとしたときだ。
机の上に置かれた紙片が目に止まった。
……え?
やってくるはずの弟子の体調が悪く、日延べをする旨、書かれていたではなかったか。
今日から師となるはずの勢い込んだ気持ちをくじかれてカミュはぼんやりと立ちすくんだ。
日延べってどれくらいだろう……
まだ小さい筈だから、大事をとって一週間くらいは遅れるのかもしれない
弟子が来ないからといって聖域に帰るわけにはいかないのだった。 気を取り直して、戸締りを確認し、自分一人のための食事を簡単に作る。
「いただきます…!」
まるで弟子が目の前にいるかのようにきちんと言って背筋を伸ばし黙って食べる夕食はなんと詫びしいことだろう。
昨日は双児宮に呼ばれてお別れの夕食をみんなで摂ったのだ。 ずっと一緒に過ごしてきた若い仲間から初めて抜けるカミュにみんなが口々に激励やら慰めやらからかいやらの言葉をくれて楽しく過ごしたことが思われる。
落ち着いたムウ、いつも目を閉じているシャカ、このときとばかりに兄に甘えかかるアイオリア、冗談を連発するデスマスク、背中をたたいて激励してくれたアルデバラン、アテナの加護があるようにと真面目な顔で言うシュラ、バラの香水をくれて困っているカミュの頭をなでたアフロディーテ。 そしてミロはみんなが気がつかないときに餞別の品をくれた。
一人で食器を片付け、すぐに暗くなってきた空にどきどきしながらランプに灯をともし寝室に行く。
昨日アイオロスが整えてくれたベッドに着替えもせずにもぐりこみ、氷のような冷たさに震え上がりながら
しばらく足を動かしてもぞもぞしていたカミュの目がサイドテーブルに留まった。 そっと手を伸ばして引き出しを開け、小さな紙袋を取り出した。
がさがさと音を立てながら出てきたものは真っ赤な手袋だ。
ミロ……
「これ、持っていって。」
「え? なに?」
「手袋だよ、向こうは寒いんだろう? いくら凍気の聖闘士でも手が冷たくちゃ困るだろうと思ってさ!」
「あ……これ、赤だけど!」
「だって真っ白い世界なんだろう? 青は寒い色だから赤を選んだ。 きっとよく目だって綺麗だよ!」
「ん……ありがとう。」
袋の中にはもう一つ、小さな水色の手袋が入っている。 それは聖域に来て初めてのクリスマスを迎えるときにミロからもらったもので、小さすぎてはめられはしないけれどお守り代わりに持ってきたものなのだ。
すこしでも暖かくなりたくて、赤い手袋をはめてみた。
「あれ…?」
セロハンで包んだ飴が忍ばせてある。
それさえも真っ赤なストロベリーの飴が三つ。
くすりと笑って口に含んでみた。
明るいミロの顔が見えるような気がした。
一人きりの夜。
その淋しい夜を助けてくれるのは赤い色。
何年もたってミロ様が訪れるまで、この色がカミュ様をそっと支えるのです。