あなたを待てば雨が降る 濡れてこぬかと気にかかる ああ ビルのほとりのティールーム |
カミュが時計を見た。 待ち合わせの時間まであと5分だ。
「有楽町で待ち合わせをしよう。 駅のすぐそばにルージュっていうティールームがあるからそこで。」
そう言ったのはミロだ。
「なぜ、わざわざ有楽町で? 東京国際フォーラムの中のほうが都合がよいのではないか?」
「一度は有楽町で待ち合わせをしてみたいと思ってた。 いいチャンスだからな。」
それを聞いてカミュにも合点がいった。 ミロはあの歌を踏襲しようとしているのだ。
「わかった。 フランク永井か。」
「そういうこと。」
一月の東京は雪こそないものの、晴天が続いて冷え込みがきつい。
その日の二人は珍しく別行動になった。
カミュが東京国際フォーラムで開催される地球温暖化対策に関する学会の一般聴講を望んだので、いくらなんでもそれは、と二の足を踏んだミロは同じ日のフォーラムのイベントを調べて都合よくクラシックのコンサートを見つけるとさっそくチケットを取った。
カミュの聴講する学会のほうが40分ほど早く終わるのでフォーラムの広いロビーで待ち合わせすればよさそうなものを、いくら近いとはいえ、暖かいフォーラムを出て一月の風に吹かれながら有楽町の喫茶店に行くにはわけがある。
暮れのテレビで懐かしのメロディーをやたら聞き込んだミロは、気に入った歌をたくさん見つけ、その中の一つがフランク永井の歌った 『 有楽町で逢いましょう 』 だ。
この歌が大流行したころの日本人と同じく、ミロも有楽町でカミュと待ち合わせしたくなったらしかった。
「まったく子供のようなことを。」
「あれっ? まだ俺が子供だと思ってる? そうじゃないことを今夜たっぷりと思い知らせてやるから、楽しみに待っていてもらおうか。」
ミロはカミュを赤面させることがたいそう上手い。
カミュがその喫茶店に着いたのは約束の時刻の30分前だ。 フォーラムのほうがよく見える窓際の席でコーヒーを頼み、持っていた本を開く。
静かなクラシックが流れ、幾組かの客が出入りするだけの店内は居心地がよい。
しばらくすると空模様が怪しくなり、しとしとと雨が降り出した。 たいした降りではないのだが、やむ様子もない。 冬の夕暮れの雨であたりは暗くなってきてライトをつける車が増えてきた。
だからフォーラムの中のほうがよかったのに………濡れなければよいのだが…
約束の五分前になってカミュが外を見ると、ミロの背の高い姿が横断歩道の向こう側に見えた。
信号が変わるのを待っているところで、いっそう強く降り出した雨にあきらめたのか、持っていた紺色の傘を広げようとしている。
すぐにやってくるのが明らかで、本を閉じたカミュが残っていたコーヒーを飲み干したとき、外から激しい衝突音と悲鳴が聞こえ、いくつものクラクションが響いてきた。
はっとして外を見ると、大きな道路の向こう側のさっきまでミロがいた辺りに車が突っ込んで街灯にぶつかり大破しているのが見えた。 もう一台は中央分離帯に乗り上げてやはり激しく損傷している。 たくさんの人が集まり始め騒然とした有様で、喫茶店にいた全員が立ち上がり窓越しによく見ようとする中を真っ先に飛び出していったのはカミュだ。 ミロの小宇宙が一瞬増大し、すぐに感じられなくなったのが恐ろしかった。
何人もが携帯で119番をしており、交差点の車の通行は一切止まって大渋滞になりはじめたのも視界の隅をよぎっただけだ。
さっきミロがいた辺りは黒山の人だかりで、その中に背の高い金髪の姿はない。
車道に見覚えのあるイタリア・マルケザート社の傘が転がっているのが見えた。
「ミロ!」
もどかしい思いで横断歩道を渡りきったとき、遠くから救急車のサイレンが近付いてきた。
「ああ、どうもありがとう。 あとは自分でやるから。」
玄関で美穂から茶菓子の盆を受け取ったミロが座敷に戻ってきた。
カミュの淹れた煎茶を飲んだミロが胡麻大福を口に入れる。 美穂に頼まれて神田の和菓子舗・庄之助で買っておいたこの胡麻大福は実にいい味でミロの好みである。 むろん、カミュも同じだが。
「で、どういう状況だったのだ?」
「うん、ちょっと急だったからすぐに連絡できなくてすまなかった。 傘を開いてる最中で、前がよく見えなかったのもよくなかったな。」
直進車と右折車が衝突してそのうちの一台がミロのいたほうに突っ込んできたとき、ミロのすぐ隣には中年の日本人男性がいた。 風采のよい紳士だと思ったのも一瞬のことで、テレポートでその場を逃れようとしたミロはとっさにその日本人を抱きかかえると、視野の片隅に入った10メートルほど先のビルの入り口付近にテレポートした。 目的地に障害物がないことを確認せずに闇雲にテレポートするのは危険極まりない行為で、目標地点のすぐそばに人も立っていたがほかに選択肢はなかったのだからやむを得ない。
無事に移動した瞬間、後方で大きな衝突音が聞こえ悲鳴が上がる。 ほかに死傷者がいないことを祈りながら間髪を入れず今度はミロだけが登別の宿の離れに移動した。 さっきまでの喧騒が嘘のように静かな空間でミロがほっとため息をついた。 カミュに連絡したのはそれからである。
「なにしろ携帯全盛のご時勢だからな。 119番に通報するのは一人いれば十分で、あとの人間は思わぬ事故現場に居合わせた証拠写真を撮ろうとするだろうし、動画を撮ってマスコミに持ち込む人間もいるだろう。
いや、今は持ち込まなくてもその場から動画を送りつけるってことも有り得るな。
俺とあの日本人が目の前で消えたのを見た人間もいるだろうし、何もない場所にいきなり二人の人間が出現したのを見た者もいるだろうと思う。 そうしたら、俺は姿を消すしかあるまい?」
「いい判断だ。」
「で、安全なテレポート先は天蠍宮か宝瓶宮、もしくはシベリアかこの離れしかない。 ほかのところは誰がいるかわからんからな。
いくら近いからって東京の城戸邸なんかに目標を定めたら誰と衝突するかわかったもんじゃない。 運悪くそれがアテナだったら、この世の終わりだぜ。 その罪、万死に値するな。」
ひとしきり話し終えたミロが次の胡麻大福に手を伸ばす。
「あの時は心臓が凍る思いがした。」
「うん、悪かった。 お前があんまり混乱していてテレパシーが通じないんで携帯にかけたら、これまた事故現場の全員が携帯を使ってたせいか、なかなか通じなかったからな。」
「周りの音が大きすぎて私も携帯の呼び出し音に気づくのが遅れた。 まさか、人垣の向こうに倒れているかもしれないお前から電話が来るとは予想もしなかったし。
ミロ、茶を淹れよう。」
「うん、ありがとう。」
茶殻を捨てたカミュが今度はミロ気に入りの抹茶入り玄米茶を淹れる。 この宿で使っている茶葉は京都・寺町通りの一保堂のものでまことに美味しい。
「あ〜、やっと落ち着いたよ。 ところで予定外に帰ってきちゃったけど、夕食って用意できると思うか?」
「美穂が厨房に聞いてみると言っていたが、急に二人前も無理だろうから駅前になにか食べに行くことにしたほうがよいかも知れぬ。」
ミロからの電話を受けて事情がわかったカミュはその場からミロが放り投げた傘を拾い上げると喫茶店に戻って料金を支払い、人目につかないところから離れに戻ったのである。
誰もいないはずの離れから電話が来ても美穂はたいして驚かなかったらしく、かなり聖闘士の行動に耐性ができたとみえた。
しかしカミュが重ねて電話で問い合わせてみると、夕食の用意ができるという。
「ですけれど、ほかのお客様と同じ献立にはなりませんので、恐れ入りますがお部屋のほうにお運びいたしますので、そちらでお召し上がりいただけますでしょうか?」
「ああ、もちろんかまわない。 迷惑をかけてすまない。」
受話器を置いたカミュがミロを振り返る。
「同じ献立にはならないので、ほかの客が疑問を抱かぬようにこちらに運んできてくれるそうだ。」
「ああ、それは面倒をかけるな。 ほんとに交通事故ってろくなことがない。」
それからミロは露天風呂へ、カミュは内風呂につかり、浴衣に着替えたところで夕食が来た。
「ふうん、とても急ごしらえとは思えないな。」
「まったくだ。」
美穂が並べてくれた料理の数々はいつも通りの美しさでなんら遜色がない。
「お二人の献立も一品二品は違っておりまして申し訳ございません。 」
「いやいやとんでもない。 急に戻ってきてすまなかった。」
お辞儀をして美穂が出てゆき、二人だけの夕食になる。
「ふうん、これも悪くないな。 このまま隣で寝ればいいんだから、お前も少し飲む?赤くなっても平気だぜ。 布団は自分で敷くって言えばいいんだから。」
「ん………では、そうしようか。」
二人で差しつ差されつしているうちにミロがテレビをつけた。 食事処にはテレビはないので食事中に見るというのは珍しい。
「つけるのか?」
「たまにはいいだろう。 ちょっと観光地に旅行に来たみたいでいいじゃないか。」
7時のニュースが始まっている。
「次のニュースです。 今日夕方五時半ごろ、東京・有楽町の交差点で乗用車とワゴン車が衝突する事故があり双方の車の運転者が重軽傷を負いました。
乗用車は信号待ちの歩行者の列に突っ込みましたが、幸い歩行者に怪我人はいなかった模様です。
」
「ああ、この事故だ。」
「お前がいなかったら一人は巻き込まれていたところだ。」
「勤め帰りの会社員や買い物客でにぎわっているさなかの事故で、現場には多数の救急車が駆けつけました。 では現場からのレポートです。」
「ふうん…あのあと大変だったんだ。 あれだけの事故じゃ重軽傷も仕方ないな。 俺は歩行者を助けるのが精一杯だったし。」
「大震災でも起これば現場にとどまってさらに救助に当たるべきだが、すぐに救急車が来るのがわかっているのだからあとはプロに任せるのが筋だ。
退去したのは正しい判断だ。」
「うん、俺もそう思う。 これ以上ブログには載りたくないからな。」
「………私、たしかに見たんです! もう少しで車に轢かれそうになる男の人を、隣にいた金髪の外人さんがかばうようにして、そしたらすぐに消えちゃって! 魔法みたいでした!
ホントです!」
「……え?」
「え〜、信じがたい話ですが、これには事実かと思わせるような証言が幾つかありまして。
まず誰かに助けられたという人の話をお聞きください。 こちらは東央大学の 池田教授です。 教授は現場近くの東京国際フォーラムで開かれていた心臓外科医の国際シンポジウムに出席した帰りに宿泊先のホテルに帰る途中であの事故に遭遇したとのことです。」
「えっ…」
「そういえば、フォーラムでそんな掲示を見た覚えがある。」
そのあといかにも知識人といった風貌の紳士が自らの体験を理路整然と語り、そのすぐあとから歩いてきたという医者仲間の何人もがそれは事実だと述べたことにも触れられていた。 たしかになにもなかった場所に突然二人の人間が倒れこむように現れたのを見たという証言や、そのうちの一人があっという間に煙のように消えうせたという話も付け加えられたのだ。
「いずれの話にも共通しているのは金髪の外人だった、という点で、現在警察が確認中です。」
「いや、確認してくれなくていいから!」
「今になっても画像が出ていないところをみると、身元を特定できるはずもない。 まず問題あるまい。」
「現場付近には防犯カメラが三台設置されており、現在警察で分析中との情報が入っています。」
「あ〜〜〜、防犯カメラね……最近設置する場所が増えているのは聞いている。」
「ううむ……」
「池田教授は、助けてくれた人にぜひ会ってお礼がしたいということです。 教授は心臓のオペでは世界的に有名でこの先も何千人もの命を救うほどの技量をお持ちですから、その人は教授一人を救っただけでなくもっと多くの人の命を救ったことになるというわけです。
この金髪の外人青年に心当たりのある方はぜひお知らせください。 連絡先は……」
「あらら…」
「事実、お前は何千人もの命を救ったことになる。 たいしたものだ。」
「たいしたものだとは思うが、もし防犯カメラに俺が映ってたらどうすればいい?」
「東京には金髪の若い外人は多い。 その心配はないだろう。」
「美穂が気づくんじゃないのか? 俺たちがフォーラムに行ったのも知ってるし、金髪+テレポート =ミロ、ってすぐにわかるぜ、きっと。」
「では先にこちらから話しておくのがよいだろう。 」
「じゃあ、食事を下げに来てくれたときにそうする。」
頷いてタラバガニの刺身に箸を伸ばしたミロの手が止まった。
「あっ!」
「どうした?」
「有楽町でお前に会えなかった! せっかく計画したのに!」
「またそのうちに考えよう。 マスコミが張り込んでいるといけないので、ほとぼりのさめたころがよい。
さ、もう一献。」
「うん、そのときこそよろしく。」
テレビでは房総半島の花便りが始まった。 一月というのに菜の花の黄色が鮮やかだ。
「房総半島で逢いましょう、もいいかな。」
「花は咲いているがまだ寒い。 むろん私はかまわないが。」
「いや、今日のところは離れで逢いましょう、にしておく。 暖かいからきっといい夢が見られるだろうと思う。」
「ん…」
うつむいたカミュの頬が桜色に染まる。
「菜の花と桜、うん、いい取り合わせだ。」
ミロが満足げに笑った。
この歌が好きです、フランク永井の 「有楽町で逢いましょう」。
何年も前から話を書きたくてついに日の目を見ました。
私も有楽町で待ち合わせをしたことがあります、ティールームではなかったけれど。
今はビックカメラになってしまったけれど、
元はといえば、この歌はそごうデパートのCMソングだったんですね。
有楽町の地名の由来としては、
信長の弟、織田有楽斎 (うらくさい) が家康からこのあたりに屋敷を拝領したというのがありますが、
どうもこれは眉唾らしく、ちょっと残念。
でも信じたい話でもあります。
「有楽町で逢いましょう」 ⇒ こちら
和菓子舗 「庄之助」 ⇒ こちら
胡麻大福は載ってませんが、ほんとに美味しいのです
イタリア・マルケザート社 ⇒ こちら
京都・一保堂 ⇒ こちら
「 有楽町で逢いましょう 」 作詞 佐伯 孝夫