第十章   風の中へ


「うっ…」
短く呻いたミロがベッドに身を沈めた。
「大丈夫か? 無理はするな!」
「う〜ん、そろそろいいかと思ったんだが………」
「まだ傷は癒えていない。 傷口が開いて血が滲んでいる!」
「まったく、この時期に! 俺たちにそんなに時間が残されているとは限らないんだからな、レオナールの奴、気が効かなすぎる!」
「そんなことを……」
左肩に負担をかけないようにすると、要するにほとんどなにもできはしないのだ。 レオナールに突かれたときに避けようとしたいたせいで傷は横にも切り裂かれ、出血はかなりのものだった。
あきらめたミロが右腕を差し出したのでカミュが頭を乗せて腕枕の形になる。
「あと半月はこのほうがよい。」
「半月って………その間に革命が起こったら俺は困る。 お前も不満足だろう?」
「そんな……!」
絶句させておいてくすくす笑ったミロが真面目な顔になる。
「ところで、行く先は決まったのか?」
「うむ、母はイギリスに嫁いでいる姉のところに身を寄せることになった。 来月初めには出発の予定だ。」
「それはよかった。」
パリの治安はいよいよ悪くなり、貴族の馬車に罵声が飛んだり物を投げつけられることも珍しいことではなくなっている。
先日、カミュの屋敷を訪問したミロが、荷物の送付について篤く礼を述べ、そのあとの歓談で言葉を選びながら今後の情勢を説いた結果である。 事前にカミュからも市内の不穏な情勢と今後の歓迎すべからざる推移の予測を伝えてあったので夫人もついに国外に出ることを決意したのだ。
「今度は我が家の肖像画や大事なものを精選して荷造りをしている。 口惜しいが仕方あるまい。 父と私は今のところ国を出る予定はない。 母にはいずれ合流すると言ってはあるが、まだそこまでは………」
カミュが口を濁すのももっともで、女子供は国外に脱出させるとしても男としてそうあっさりと国を立場を捨てることはできぬのだ。
「うむ、しかし本気で考えておいたほうが良い。 これまでと思ったときには迷わずパリを離れられるように手筈だけは整えておくことだ。」
「父には毎日のようにそれを説いている。 なかなかうんとは言ってくださらぬが、ミロの言うことが避けられぬとすれば貴族にはのがれ得ぬ運命が待っているとしか思えない。」
「……お前はどうする?」
「私は……」
真摯な青い瞳に見詰められたカミュが目を伏せた。
「母には姉がいる。 私がイギリスに渡らなくとも当面は寂しくはあるまい。 私はお前と……」
静かに寄り添っていたカミュが急に身を起こし口付けてきた。

   あ………カミュ…

「………左手は動かすな……傷にさわる。」
「そいつは無理な注文だな。」
ミロは苦笑する。 この状況ではどうしても動かしたくなるというものではないか。
「これに関しては私の言うことを聞いてもらわなくては困る。 そのかわり……」
「そのかわり?」
「………右手は好きにするがいい。」
「では、そうさせてもらおうか………」
深い溜め息と性急な想いが闇に散っていった。


「来月にはベルサイユで三部会が招集される。 最後に開かれてから実に170年以上経っているというではないか。」
「聖職者、貴族、市民という身分を考えると、第三身分である市民の要求が通るとは思えないが、要求が否決された場合はあとが心配だ。」
「うむ、昔とは違って市民の間に鬱積した不満や怒りはもう抑えが効かないからな。 その場合、どういうことになるか………」
話しながら行くのはレオナールとその同僚のディスマルクだ。
たまの非番といっても、とてものんびりする気にはなれぬ。 街を歩けば、仕事もなく暗い眼をしている男たちや、餓えた子を抱えた母親、病みつかれた老人の嘆きに気付かないわけにはいかないのだ。
「明日に希望を持てないようではだめだな、こんな国ではなかったはずだが。」
ディスマルクがそう言ったときだ、前方で叫び声が上がった。
「泥棒っ! 返しとくれっ!!人が汗水流して稼いだものなのに!」
見ると、年配の男がまずしい身なりの女の持っていた袋を奪って駆けてゆくところである。 二人がすぐにあとを追うと、男は角を曲って細い小路へと逃げ込んだ。
「この先の市場にでも逃げ込まれたら、とても見つからん!」
「くそっ、なんて足の速い奴だ!」
二人の息が荒くなってきた。 振り返った男は、これなら振り切れると思っただろうが、世の中はそう上手くいくとは限らない。 ちょうどそのとき小路に面した左手のドアが開き、中から出てきた男にどんとぶち当たったのだ。 よろめいた男の左肩が壁に激しくぶつかり呻き声が上がる。
「何をするかっ!」
鋭い叫びとともに、逃げようとする男に足払いをかけて瞬時に腕をねじ上げたのは金髪の若い男だ。
「貴様のせいで、またあと半月はお預けだっ、どうしてくれるっ!」
憤懣やるかたないといった様子の男は背が高く、二十歳くらいの貴族のようだ。
「ありがたい!」
駆け寄ったレオナールが金髪の男にわけを話している間に、ディスマルクが男を手早く縛り上げてしまった。
「なるほど、女から物を奪うとはけしからん!」
「ご助力かたじけない。 私たちは銃士隊に属しています、このごろのパリは物騒で。」
「ほう!………やはり銃士隊に! なんとなく、そんな気がしていました。」
非番の二人は制服を着ていないので、説明しなければ銃士とわかるはずもない。
「なぜ、おわかりに? ………もしや、 どこかでお目にかかりましたか?」
「いや、そんな気がしただけですよ。」
狭い小路の暗がりにいても人目をひくほどの豪奢な金髪だ。 まじまじと男を見詰めたレオナールが少し眼を細めた。
「どうもありがとうございました。 おけがはありませんでしたか?」
「ええ、なんともありません。 では、これで。」
にっこり笑った男が去ってゆき、二人は捕らえた男を詰め所に連れて行くことにした。
「しかし、見事なお手並みだったな、さっきの男は!感心したぜ!」
「ああ、鮮やかなものだ! 右手一本であっさりと片付けたのだからな。」
「右手だけで? そうだったかな?」
ディスマルクが振り返ったが、もう男の影も形も見えはしない。
急に強まった風の中を気の早い燕が低く飛んでいった。




                 
黒い騎士・ミロ篇、お楽しみいただけましたでしょうか。
                 ほんの少しのつもりだったのに、いつの間にか10章に。

                 フランス革命はほんのさわりだけ、最後の一行が暗喩になっています。
                 嵐の前の不穏な空気の中のミロカミュです。