番外編・「 綸言(りんげん)汗の如し 」


遠来のカミュ様と親しく御歓談なされていた昭王様は、やがてお手元の銀鈴を鳴らされた。
「客人が翠宝殿に入る。」
承った侍僕は深く拝礼し、すぐに退出していった。
常日頃から清掃は怠りないが、人手を集めて風を通し、花を生けて美しくしつらえなければならないのだ。

それからゆっくりと冷茶を喫し終えられた昭王様は、カミュ様をお誘いになり、翠宝殿へと御自ら案内をなさる。
天勝宮の数ある殿舎の中でもひときわ美しい翠宝殿は、昭王様がご践祚なさるまで長くお過ごしになったところで、紅綾殿にお移りになられてからはどなたもお入りになったことはない。 昭王様のご践祚の日から宮中に上がり お側仕えを始めた自分も、ほんのわずかの時間しか見ておらず、カミュ様がご滞在なさるおかげでもう一度翠宝殿に入ることができると思うと嬉しくて胸がどきどきしてしまうのだ。
風吹き渡る回廊をお供しながらゆるりと進んでいると、不意に昭王様からお言葉があった。
「貴鬼、異国のカミュには燕の暮らしは馴染みにくかろう。 見知らぬ者が幾人も出入りしては気疲れのもとぞ。ゆえに、翠宝殿でのカミュの身の回りの世話は、そなた一人に任せようと思うが、どうか?」
これはとても異例のことで、目の前で承る御内旨にもかかわらず思わず耳を疑ってしまう。 異国からの貴人方をおもてなしするときには五人の侍僕と五人の宮女を差し向けるのが通例なのに、いくら昭王様の御身の回りのことをできるとはいえ、まだまだ子供の自分などにそのような大役がいったいつとまるものだろうか?
突然のお言葉に少しお返事をためらっていると、昭王様がお困りのご様子なのにはっと気がついた。
お優しい昭王様は、「どうか?」とお尋ねくださったけれど、お声掛かりがあったときには、お断りすることなどあるはずもないのだった。そのことに思い至って、かっと顔が赤くなる。
急いでお受け申し上げると、昭王様は微笑まれてお隣りのカミュ様にそのことをご説明なさるのだ。
お聞きになられたカミュ様が、ほぅ、と感心なされたようにこちらをご覧になるのでなんだか恥ずかしくなってしまう。
「貴鬼、もの慣れぬ身で、このたびはそなたに苦労をかけるやもしれぬが、我が身のことはできるだけ自分でするゆえ、燕のしきたりなどを必要に応じて教えてくれればよいのだ。しばらくの間、宜しく頼む。」
少しかがんで仰せになるそのお声はとても温かくてうっとりしてしまう。燕の言葉を上手に話されるけれども、どことなく異国風のお話し振りが不思議にこころよくてならないのだ。 空のように青いお目は、今までに見たどの異国の人よりも澄んで美しく、吸い込まれてしまいそうなのだった。
カミュ様に直にお声を掛けられた嬉しさに一人でお世話をお引き受けすることの不安も薄れ、これからお側近くで過ごさせていただける有り難さ嬉しさが身にしみてくる。

そうこうするうちに翠宝殿に着き、音もなく開かれた扉をそのままお通りなされた昭王様はいかにもなつかしげにあたりを見回された。わずかの間とはいえ、この翠宝殿の夏の主となられるカミュ様に部屋々々のご説明をされながらにこにことしておいでなのは、お小さいころからお住まいでいらした場所に久しぶりにお越しになられたことをお喜びなのに違いないのだ。
いかに昭王様といえども、なんのご用事もないのに無人の翠宝殿をお訪ねになられることはない。 そんなお気持ちを出されようものなら、どれほどの人が急ぎ動かなければならないか、よくご存知であられるのだった。
叔父上のムウ様からそのへんのご事情はようく教えていただいているので、昭王様のお気持ちが畏れながら拝察されるのだ。

むろん、昭王様とカミュ様がお着きになるはるか以前に室内は美しく整えられており、通り抜けるどの部屋にも夏の花が飾られている。 それはいいのだけれど、そのうちの幾つかは、とても持ち上げることができないほどの大瓶で、どう考えても一人で水替えなどできそうにない。 困ってしまって、そっと瓶をなでながら首をかしげていると、
「貴鬼には持ち上げられぬであろう。水替えならば私がするゆえ心配するには及ばぬ。」
とカミュ様がおっしゃるのには驚いた。
今まで天勝宮においでになった貴人方は、ご自分では何一つなさらずに、お袖さえお側の者がお通しして差し上げるのが当たり前なのだ。 花瓶の水のことなど、お気付きになったためしなどむろんあるはずもなく、今のカミュ様のお言葉には仰天してしまったのだ。
畏れながら昭王様も同じことをお思いになられたようで、いかにも意外そうにカミュ様をご覧になったとき、
「私にはさほどのこともない。」
そうおっしゃられたカミュ様が軽々と大瓶を持ち上げられたので、昭王様が「あっ!」とお声を上げられたのには自分もどれほど驚いたかしれはしない。 おそばに上がってずいぶんたつけれど、昭王様がそのようなお声を出されたのを拝聴したのは初めてなのだ。
昭王様もそれに思い当たられたようで、少しお顔を赤くなさりながら咳払いをなされる。
「そのようなことをせずとも、力の要ることだけは翠宝殿を留守にするときに他の者にいたさせようぞ。 その他のことはすべて貴鬼に任せて、他の者は一切立ち入ることはならぬ。 それにしても、力のあることよ。」
「このくらいは、たやすいこと。 昭王にもできましょうものを。」
ますます驚くことをさらりとおっしゃるカミュ様に昭王様は少しお眉を上げられ、手を振ってお供の侍僕達を下がらせなされた。
波の引くように一斉に侍僕達が下がったのをみすまして、
「貴鬼、誰にも言うでない。 余とそなたの秘密ぞ。」
そんなどきどきすることを仰せになりながら楽しげに打ち笑まれた昭王様は、カミュ様のお抱きになっておられた大瓶をすいとお受け取りになると、
「なるほど、たいしたことはない。」
重さをお確かめになるように二、三度そっと揺すられてから、やはり軽々と背の高い台座にお戻しになられるのだった。
その頃にはカミュ様も、昭王様が普段はそのようなことを決してなさらないことにお気付きになられたらしく、すこしお顔を赤くなさる。
「これは、差し出たことを申しました。」
「そのようなことはない。 燕王の身ではあるが、これでも武人のつもりぞ。 箸よりも重いものを持てぬようでは示しがつかぬというものだ。 瓶を持つのは初めてだが、鞍も剣もすでに我が掌中にある。」
このおっしゃり方は異国のカミュ様には難しかったらしく、あとになってそっとお尋ねがあったので、昭王様が馬にお上手にお乗りになることや、剣を見事にお扱いなされることをお話し申し上げたのだった。

やがて侍僕達をお呼び入れになられた昭王様は、カミュ様に夕餉の時刻をお約束なされてから紅綾殿へお戻りになってゆかれた。
お一人になられたカミュ様にお茶をお持ちしてから、午睡の用意をして御寝所にお移りいただき、少し自由な時間ができてほっとする。
カミュ様はとてもおやさしくていらして、けっして無理なご注文をなされる方ではないのが、この少しの時間ご一緒させていただいただけでもよくわかり、これからこの翠宝殿にカミュ様が御滞在している間はずっとお側にお仕えすることになるのがとても嬉しくなってきた。 時々はカミュ様がお暮らしになっていた異国の珍しいお話を聞かせていただけるかもしれないと思うとわくわくしてくるのだ。
でも、一番考えなければならないのは、もちろんカミュ様のお世話のことなのだ。 昭王様が御自らこの翠宝殿に足をお運びなされてまで大切におもてなしなされる程のお方なのだから、毛先ほどの間違いがあってもならないのはいうまでもない。

昭王様のお身の回りのお世話をさせていただいているといっても、お召し物を選んだり、御髪を整えることなどは、むろんそれぞれの係が受け持っていて自分は見ているだけなのだ。 カミュ様の御髪は、髪を結い上げるのが当たり前の燕では初めて拝見したのだけれど、とてもきれいでまっすぐな黒髪を背中に長く垂らしておいでになるので、お目覚めとお休みのときに梳かして差し上げればよいから簡単だ。 でも、お召し物のほうは、長旅をなさって来られたのでそんなにお持ちでないに違いない。 それだけはあとで拝見して、もし足りないようであればどうすればいいかを誰かに相談しておくほうがよいだろう。
そこまで考えてから、やっとカミュ様のお手回りのお荷物のことに思いが至ったのは、我ながら遅すぎるとは思うのだ。 さきほどご案内して差し上げた御寝所の隅には、カミュ様がお持ちになっておられた金色の四角い大きな櫃が置かれていて、中には何が入っているのだろうと不思議に思う。昭王様はご存知ないことだけれども、 とても重いその櫃を運ぶのは、普段 力仕事をしない侍僕ではとてもできずに、特別に力のある近衛の兵を呼んでこなければならなかったのだ。さきほど カミュ様に寝具を掛けて差し上げてから、見たことのない異国の模様のついた金色の櫃にちょっと見惚れていると、
「珍しかろうが、用もなく開けることは許されておらぬ。 」
と、御寝台からお首をもたげられて、いかにもすまなそうにおっしゃるのでかえって恐縮してしまう。 貴人のお持ち物に興味を持つなどたいへんにご無礼なことなので、これからはもっと気を引き締めなければならないと強く思ったことだった。

ご挨拶をしてから控えの間に下がり、これからのことをどきどきしながらも嬉しく考えていると、たいへんなことに気がついた。
カミュ様のお世話の一切をお引き受けしたけれど、お湯殿のお世話はどうすればいいのだろう?
昭王様のお湯殿係りは十名以上おり、いずれも年経た侍僕と宮女がその任に当たっている。 湯浴みをお好みの昭王様は、朝夕にお湯を使われるので、係も忙しそうなのだ。
今まで、そんな畏れ多いことなど考えたこともなかったけれど、貴人のお湯浴みにはいったいどんなお世話をするのか、何も知らないのだった。昭王様の尊いお身体にはなんびとも触れることはできないので、ご更衣をどうやってなされるのか、まったくわからないし、ましてや燕王であられる玉体をお清めする作法など想像もできはしない。 そんなことをちらりと考えるだけでも気が遠くなりそうで、あまりのご無礼さに天勝宮のあらゆるところに飾られている彫り物の龍が命を持って一斉に襲い掛かってくるような気がするほどだ。
カミュ様はむろん昭王様ではないけれども、大切なお客人なのだから、おもてなしも最高でなくてはならないはずだ。
昭王様とご一緒に夕餉のお席につかれるときには、お湯浴みも当然お済ませになっていなければならず、夕暮れ前にはお湯殿にご案内しなくてはならないけれど、いったい自分ひとりでどうしよう? 昭王様付きの侍僕はもちろん作法を知っているのだろうけれど、そんなことを訊こうものなら、やっぱり子供は頼りにならない、と思われて、それはそのまま昭王様の御内旨にそむくことにもなりかねないと思うと、訊くわけにもいかないのだった。
一瞬は、太后様の侍女頭の春麗さんにお知恵を借りようかと思ったけれど、高貴な女の方のお湯上がりのお化粧についてはお詳しくても、昭王様のことについては何もご存知ないような気がして諦めた。 そこで知恵を絞って、ムウ様かアイオリア様にお知恵を拝借しにいくことにした。叔父上には五人、アイオリア様にも三人の侍僕がついているので、きっとお湯殿の作法を教えてもらえるに違いない。
でもでも、うまく教えてもらえても、結局この自分がたった一人でカミュ様のお湯浴みのお世話をすることには変わりない。 あんなにきれいな御髪と、燕ではけっして見られない白いお肌を思うだけで気絶しそうな思いがしてくるではないか。 あまりの畏れ多さに、できるものなら、貴人のお世話に慣れた大人に替わってほしいのに、昭王様がさきほど仰せられたように、カミュ様がお留守の間の力仕事だけが他の者にゆだねてもよい仕事なのだった。 昭王様の仰せは お付きの侍僕もみな聞いており、絶対に覆ることはない。 昭王様がいったんお口にのぼせたお言葉は、なにがあっても変わることはないのだから。

ともかく、こうなってはもう迷っている暇はない。
夏のことだから、お湯殿にはぬる湯を汲み入れておいて、昭王様とのお食事にふさわしいお着替えのお召し物をお持ちかどうかわからないので念のためのお召し物の手配を侍僕頭に相談しに行って、それからムウ様かアイオリア様を探しに行って 肝心かなめの 『 カミュ様にお湯浴みしていただくときのお世話の作法 』 についてお知恵をお借りして、それからそれから………。
あれ?あのおきれいな長い御髪をお洗いなされたら、どうやって乾かしてさしあげればいいのだろう??
こんなことで本当に間に合うのだろうか?
もしかしたら、お昼寝をお勧めしたのは大きな間違いだったかもしれない……!

カミュ様のお世話を一手に任されるほどにご信頼いただいているのは本当に有り難い思し召しなのだけれど、少し溜め息が出ないものでもない。 せめて年が近くて心安い春麗さんとご一緒にお世話できたら安心なのに、と叶わぬことを思いながら足音を忍ばせて控えの間をあとにした。
背中に聞こえるカミュ様の静かな寝息が、ちょっぴりうらやましく思えたことだった。