◆ アイザックが離れを訪ねたら   その3


「悪いがお前は飲めないぜ、 日本じゃ20歳からじゃないと酒が飲めないんだよ。」
そう言ったミロが銚子という細長い陶製の酒入れを手に取った。
「私も酒が飲めぬから。」
「でも今日は別♪ アイザックが来たんだから祝杯を上げるべきだな。 ほら、杯を出して!」
日本酒の杯は信じられないほど小さくて、ミロが注いだのはその半分にも満たないのだ。 そういえばシベリアにミロが来たときも先生は一切飲んでいなかったはずだが、あれは俺たちの手前、師である立場を崩さぬようにしようとしたわけではなく、本当にアルコールがだめだったのかもしれないと今にして思い当たる。
「アイザックはノンアルコールビールだ。 海底じゃ飲み放題かもしれないが、ここでは我慢してくれ。」
「いえ、そんな…!」

   はい、飲み放題です、凄いですっ!

むろん海底に飲酒の年齢制限などないので、カノンに教育された俺はほとんど酒豪の域に達しているといっていいだろう。
「では、アイザックの無事と再会を祝して乾杯!」
ミロがついでくれたノンアルコールビールはいさか物足りないが、久しぶりに会った先生に弟子の酒豪っぷりを見せ付けて愕然とさせるつもりはないのだ。 先生の前ではいつでもきちんとした弟子でありたい。
その先生はほんの少し唇を湿しただけで杯を置き、運ばれてきた前菜に箸を伸ばした。
「見ての通りほんの少量の盛り付けだが味は繊細だ。 口に合うと良いのだが。 海底では食事はどうしている? 」
「海底といっても空気もあれば日光も射してきますし、海洋深層水をうまく利用していて自給自足ができているんです。」
「ほぅ! それはよい! 」
先生が目を輝かせる。 それから海底の食糧生産や暮らしのあれこれについて話に花が咲き、次々と運ばれてくる皿もあっという間に空になる。
「日本食はともかく一皿の量が少ない。 そういうものだから仕方がないが、この宿ではそこのところをちゃんと考えてくれて俺たちには特別にボリュームのあるメインディッシュを用意してくれる。 今日のは………そら、来た! 」
「黒毛和牛のサーロインステーキ、バター醤油とわさび添えでございます。」
ジュウジュウと音を立てているステーキが目の前に置かれ食欲をそそる。
「いかに海洋深層水が万能でも海底で牛は飼えまい? ここにいる間にたっぷり食べてステーキの味を堪能するとよい。 それだけでは足りぬゆえ私のも分けてやろう。」
「えっ! そんな!」
びっくりして遠慮するそばから、
「相変わらずの弟子思いだな♪ 俺も便乗させてもらおうか、ほら!」
先生からだけでなくミロからも大ぶりな一切れが俺の皿に乗せられた。
「まだまだ伸び盛りだろ。 このくらいは軽く食べられる筈だ。 俺たちはいつも贅沢させてもらっているし、こっちに紅鮭の西京焼きがあるからいいんだよ。 ほら、冷める前に早く食べたほうがいい。 このバター醤油とステーキの相性がまたいいんだよ!」
「気に入ったなら、帰るときにはバターと醤油を持って行くがいい。」
「ああ、そいつはいいな! きっと評判を呼ぶぜ!」
二人ににこにこされて、まるで昔に返ったような気分になった。 子ども扱いされているようでもあり大事にされているようでもあり、なんだかくすぐったい。
「ああ、これはほんとに美味いです!」
「だろ♪」
「それはよかった!」
大盛りのステーキはとろけるようでほんとに素晴らしい! カジキマグロやブリのステーキも悪くはないが、やっぱりこっちのほうが本物だ!
俺の食べっぷりを眺めて嬉しそうにしていた先生が杯に残っていた日本酒を全部飲み、ミロを驚かせていた。

離れに戻ると真っ赤な顔をした先生が、
「すまぬ、アイザック………せっかく来てくれたのに、眠気がさしてきて今夜は先に休ませてもらわねばならぬようだ。 積る話は明日になったらゆっくりとしたい。」
そう言って奥の間に一つ敷かれている寝具に横になってしまった。
「いいさ、 サガは1週間、老師に至っては三週間もご滞在になられたのだ。 アイザックさえよければ、しばらくいてもらおうじゃないか。」
「えっ! そんなにご迷惑はかけられないです、俺!」
「気にするなよ、久しぶりだ。 カミュも口には出さなかったがそれを望んでる。」
「でも……!」
俺とミロがそんな押し問答をしている間に先生はすやすやと静かな寝息を立て始めた。
「お前とカミュをこっちの部屋で一緒に寝かせるつもりだったんだが、予定が狂ったな。」
苦笑いしたミロが備え付けの冷蔵庫から冷えた日本酒を持ってきた。
「ほんとは飲めるんだろ、顔にそう書いてある。 ちょっと付き合えよ♪」
「ええと、あのぅ……」
「カミュは物堅いから、未成年のお前が飲むといい顔をしないに決まってる。 お前だって師匠に飲んでるところを見られたくないだろう?」
「ええ、それはまあ…」
実は食事中も楽しそうに飲んでいるミロを見て羨ましくなかったといえば嘘になる。 フトンという寝具の上にあぐらをかいてミロと飲むというのは不思議な光景だ。
「日本酒はビールやワインと違ってかなり強いからな。 ゆっくり飲まないとすぐに酔いが回るぜ。」
「………ああ、これは!」
「なかなかいけるだろう♪」
いろいろなことを話しながら差しつ差されつしているうちにミロの顔がずいぶん赤くなってきた。
「もう酔ったんですか? ひょっとして俺の方が強かったりして〜♪」
「馬鹿言え! そんな筈はないだろう!」
冷蔵庫の冷酒が底を尽いたので今度は俺がウィスキーの小瓶を持ってきた。
「今さらビールじゃ、しかたないですからね。 今度はこれでいきましょう。」
「ふんっ、まだまだ!」
べつに飲み比べをしているつもりはないけど、俺に負けまいとするミロがむきになるので酒量が進むのが早くなってきた。
「俺はさ………いいか、アイザック、お前のことがずっと気がかりで………いつだったか久しぶりにシベリアに行ったらカミュと氷河しかいなくて………不思議に思ってわけを聞いたらお前が………アイザックが海に消えたって言うじゃないか………………もう探しつくしたあとでどうすることもできなかったんだよ………」
しんみりとなったミロが急に昔のことを話し始めた。 きれいな金髪をかきあげて残念そうに首を振る。
「氷河は泣きそうな顔してるし、カミュも普通そうな顔していながらほんとは泣きそうなのを氷河の手前我慢してるのがありありとわかって………あの時はほんとにつらかったよ………」
初めて聞く話に胸がドキッとする。 想像はしていたけど、当事者の口からはっきりと聞くのは初めてなのだった。 氷河とは海底で闘ったときにそうしたことの全てを乗り越えてしまっているので、先日東京で会ったときにもとくにその話はしていないのだ。
「なんて言って慰めていいのかわからなくて………カミュは酒を飲まないから、そっちの方に逃げることもできなくて………………」
「あの………すみません、ご心配かけて………」
なんと言っていいのかわからなくて、とりあえずそう言ってみた。 自分が死んだことを詫びているのはなんだか妙だ。
「氷河はまだ子供だったから、ショックを受けたといっても事態をはっきり認識できた筈もない。 しかし、カミュは………」
ミロが空のグラスを差し出した。 琥珀のウィスキーを注いでやるとグイッと一気に飲み干した。
「カミュの落ち込みは酷かった………俺は可哀そうで可哀そうで………抱いてやりたくてたまらなくて………俺は……」
ここで俺は はっとした。 しみじみと聞いていたのだが、今 ミロはなんと言った??

   抱いてやりたくてたまらなくてって………
   つまり抱いたのか、抱かなかったのか、どっちなんだ?
   今なら聞いてみてもいいんじゃないのか?

それで先生を………?
と聞こうとして、俺は言葉を飲み込んだ。 「 先生 」 なんて言葉を使ったら、ミロは我に返って俺からの質問だって気が付いちゃうんじゃないだろうか。
本当のことを知るには慌てないことだ。 こうなったからには、俺だってミロが先生の恋人なのか、ぜひとも知りたい! 妙に刺激しないように、ミロの言葉を繰り返して先をうながすのがいいんじゃないのか?
「そんなに落ち込んで………そうだったんですか……」
「ああ、ほんとにひどい有様で………でも、抱けない………抱いちゃいけない………………俺がそんなことをしたら、カミュは氷河の師匠でさえなくなってしまう………自分の心が二つに分かれてしまって、どっちの立場でいればいいのかわからなくなって、ますます混乱してしまうに違いない………俺にはそんなことはできなかった………当たり前だ………好きな奴を苦しめるわけにはいかないからな………そう思うだろう?」
合槌を求められたのには驚いたが、ここは素直に 「 はい……」 と言うことにした。 それにしても、今初めてミロの口から、好き、という言葉を聞いたのだ。 とてつもない秘密を垣間見たようで心臓が苦しいほどだ。
「だから俺は待った………ずっと待っていたよ、氷河が一人前になってくれる日を………ずいぶん長かった。」
ミロと自分のグラスにウィスキーを注いだ。 琥珀色を透かして俺を見たミロが薄く笑う。
「人によっては、すぐに抱いて慰めてやればいいのに、と言うだろう。 そんなときこそ支えになってやれ、と。」
一口飲んだミロが首を振った。
「それはカミュを知らない奴の言うことだ。 俺がそんなことをしたらカミュは困り果てる。 ひとたび愛されることを知ってしまったカミュは、氷河の前で師匠であることに徹しきれないかもしれないと危惧をいだくだろう。 下手をすると、こんなことで悩む自分は師匠に向いていない、弟子を持つ資格はないと思い込みかねない。 俺にはそんなことはできなかった………当たり前だ…………最後の弟子を、たった一人になってしまった弟子をカミュから取り上げるなんてこと、できるわけがないだろう?」
それきり黙ってしまったミロに言葉をかけるべきか迷う。

   ………これ以上、聞いてもいいのか?
   ミロは俺が聞いていることをわかっているわけじゃない  酔いに任せて半ば無意識にしゃべってるだけだ
   これは先生とミロの大事な秘密だ………眠っている先生は俺たちがこんなことを話しているなんて知らないのだ
   ミロが核心に触れる前に話をやめさせるべきだ  そうだ、そうしよう!

そう決心した俺が口を開こうとしたときだ。
「だから俺はカミュが聖域に帰ってきてから気持ちを打ち明けた………それからゆっくり時間をかけてキスをして………ずいぶん驚かせて………」
「あ………あの…」
なにを思い出したのかミロがくすりと笑う。
「で、もっと経ってからカミュを抱いた………嬉しくて嬉しくて涙が出て………カミュも泣いて………そういうことだ……」
体がかっと熱くなる。

   では、本当にミロは先生と恋人になってくれたのだ
   先生は一人じゃない!
   ミロがついていて、いつも先生を守ってくれるのだ!

俺は有頂天になった。 おかしなことだ、日本に着いて氷河から話を聞いたときはあんなに腹が立ったのに。
ミロとはたった半日いっしょにいただけなのに、俺はミロを理解して納得したのだ、先生の恋人にふさわしいと。
「 ミロこそ本当に思いやりのある聖闘士の鑑といえる 」
自信たっぷりにそう言い切った氷河の言葉は間違っちゃいない。 途中経過はおかしいけれど、その結論は正しかった。
「先生を幸せにしてくださいね。」
嬉しさのあまり思わずそう言ったら、
「当たり前だ。 というか、もうとっくにそうしてる。 カミュは俺といるときが一番幸せなんだよ。」
明快に言ったミロがごろりと横になった。
「あ〜、酔いが回った………もうだめだ………アイザック、お前も露天風呂に行くのは朝にしたほうがいい………夜中に行くには酔いすぎている。 のぼせて倒れかねん。」
いきなり理性的な判断を聞かされて、もしや正気だったのかとひやりとしたが、 次の瞬間にはもう寝息が聞こえてきた。

   朝になったら覚えてるかな? それとも忘れてる?
   それにしても、ミロってほんとうにいい男で………

新しい毛布を見つけてくると、すっかり寝入っているミロにかけてやってから俺もフトンにもぐりこむ。
ぐっすりと眠るミロを幸せな気分で見ていたら大事なことに気がついた。

   とすると、俺はやっぱり蜜月を邪魔する闖入者なわけで………
   でも、先生もミロも明らかに喜んでいてくれて………  
   あれ? どうしよう?
   こういう場合は何日くらいで退去するのがふさわしいんだろう??
   長居をすると、我慢できなくなったミロが、俺が露天風呂に行ってる間に先生を抱いちゃったりしてっっ???

実戦経験こそ豊富だが、こんな微妙なことを教えてもらったことなどあるはずもない。
結局、悩みは尽きないのだった。

                                                                       完





               
めでたしめでたし!
               かくてシベリアンは新たな蜜月時代を迎えるのでした。