◆ 氷河が離れを訪ねたら


氷河が訪ねてくるというその朝にパソコンを開いたミロが振り返った。
「すまないがこれからトラキアへいってくる。 村の教会を建て直していたのがついに出来上がって、今日が始めての礼拝なのだそうだ。俺も少しばかり寄付をしたんで、ディミトリーが呼んでくれたんだよ。」
「それはよい。 ぜひ行ってくるといい。」
「せっかく氷河が来るというのにすまん。 俺のいない間に積もる話でもしててくれ。」
こうしてミロがでかけてゆき、やがて昼過ぎになったころに氷河がフロントに現われた。
「いらっしゃいませ、おいでになることはカミュ様からお伺いしております。」
「これをあとで持ってきてもらえますか。 一箱はこちらのスタッフの方でどうぞ。」
「あら、まあ!」
マキシム・ド・パリのミルフィーユを手渡された美穂が頬を染めた。


ミロが戻ってきたのはかなり遅くなってからだ。
なにしろ、新しい教会の落成は近年にない一大イベントだったので、近郷からも大勢の人がやってきたし、教区のお偉方や村を遠く離れていた住人も多数顔を見せていてたいへんな賑わいだったのだ。この日のために特に練習を重ねてきた聖歌隊が素晴らしい成果を披露し、以前と同じ位置の家族席でディミトリー夫婦やソティリオと並んで聖歌を歌うミロの美声が何人もの村人を振り向かせた。
礼拝に続いて、隣接する牧師館の庭で開かれたパーティーでは 「今日はカミュ様は来ていらっしゃらないのかしら。」と何人もの娘たちがささやき交わすのがミロにも聞こえ、ソティリオからも 「俺も同じことをずいぶん云われたよ。住人じゃないからと思って今日は呼ばなかったんだが、やはり来てもらったほうがよかったかもしれん。」と云われたのだった。 これはべつに娘たちばかりというわけでもなく、村の長老やらミロの親戚からもやはり声をかけられたところをみると、たった二度しか村を訪れていないカミュが好印象を持たれていることは間違いがないようでミロをほっとさせる。
「カミュはどうしてもぬけられない用事があって。 次の時には必ず!」 と言ってその場を切り抜けたミロなのだ。去年の11月に結婚したディミトリーの妻は秋には子供が生まれる予定で、ミロの祝福に頬を染めてはにかんだ。
「すると、今度来るときには俺にも甥か姪がいるってわけか!」
「ああ、そうだ。 二十歳の若さで叔父さんと呼ばれる気分を味わわせてやるよ♪」
ディミトリーと笑いながらワインを何本も空け、にぎやかなヴァイオリンの旋律に合わせてダンスに打ち興じて故郷の空気を胸いっぱいに吸い込んだミロが帰路についたのは午後も遅くなってからのことだった。



   だいぶ遅くなったし、もう氷河は帰っただろうな…

ソティリオに持たされたワイン半ダースを美穂に預けてから離れに向って歩いてゆくと、カミュと氷河がこちらにやってくる。それもタオルと浴衣を持って!

   ………え??

「ああ、ミロ、お前の帰りが遅いので、氷河に会えぬのは残念だろうと思い、今夜は泊まってもらうことにした。これから湯に行くのだが、お前も一緒に来ぬか?」
「ご無沙汰しています、お言葉に甘えて今夜一晩お世話になります。」
唖然としているミロに姿勢を正した氷河が頭を下げる。
「い、いや、俺はちょっと休んでから、寝る前に湯に浸かるとしよう。 氷河もカミュとは久しぶりだろう、今日はゆっくりしていってくれ。」
「はい、ありがとうございます。」
「では、ちょっといってくる。 」
そのまますれ違って離れに入る前にさりげなく振り向くと、心持ち後ろにさがって歩いている氷河に話しかけられたカミュが微笑んでいるのが見えてミロをドキッとさせる。そのまま二人の姿は回廊の向こうに消えていった。

   カミュが氷河と……!
   今まで、デスやサガが来たときも決して一緒には入らなかったのに!
   道後温泉でも老師と入ったのは俺で、カミュは部屋で待っていたじゃないか……
   いくらあいつが弟子だったからといって、それは昔の話だろう?
   そんなに弟子が大切か??


   あのころは小さかったが、あいつももう14歳だ、
   俺が14の時にはお前のことが好きで好きでたまらなくて…!
   いや、弟子だからこそ平気なので、俺の方こそ考えすぎだ、落ち着け、ミロ!!
   でも、しかしっ……

トラキアでの楽しい気分はどこへやら。 ミロの頭の中はカミュと氷河のことでいっぱいで、払いのけても払いのけても、

   
「我が師カミュ、お背中をお流しいたしましょう。」
   「では頼もうか。」


などというシーンが浮かんできてどうしようもないのだ。 大人気ないと自分を叱り、気にすることはないのだと自らに言い聞かせて悶々としながら離れで待つこと一時間。 ようやく二人が帰ってきた。
「待たせてすまなかった、あまりの心地よさに湯船で眠気がさしてしまい、氷河に声をかけられて起こされた。」
「ほんとに露天風呂は最高です、いいお湯をいただきました。」
上気した二人の肌が仄かな桜色に染まり、自分から同行を遠慮したわりには置いてきぼりをくったような気分のミロは はなはだ面白くないのだが、そんなことを悟らせるわけにはいかぬ。
「それじゃ、食事に行こうか。」
軽く声をかけて立ち上がり玄関を出ればやはり二人が一緒に歩き、修行時代の思い出話に花を咲かせている。

   気にするな、気にすることはない!
   カミュが氷河と一緒に風呂に入ったからといって、それがなんだというんだ?
   日本人は誰とでも平気で風呂に入るじゃないか……ここは日本なんだから当たり前のことだ
   それにカミュだって、復活以後、氷河とまともに話すのはこれが初めてのはずだ
   いくら時間があっても足りないだろう、気にすることはない……

食事処のいつもの席では浴衣姿のカミュと氷河が並んで座り、着替えないままに一人で向いに座るミロはまたまた疎外感を感じ始めた。むろんカミュも氷河も、「 そうであろう?」 とか 「 そうですよね。」 とかミロに話を振るのを忘れはしないのだが、話の主流はやはり師弟の側にある。
もとより未成年の氷河は飲まぬし、カミュも然りである。 控えようと思っていたのにいつの間にか一人で量を過ごしていたミロはだんだん酔いが回って無口になってきた。
「そろそろ引き上げるとしよう。」
「はい。 ご馳走様でした。」
揃って出てゆくと他の宿泊客の目をひくのはいつものことで、食事中でも目立っているのに立ち上がったときの背の高さがさらに日本人を驚かす。 それに加えて、今日はやはり金髪の氷河までいるのだから、慣れているはずの美穂までもが賛嘆のまなざしを隠さない。 後ろから歩いているミロには、周りの視線がカミュをさりげなく見ているのがよくわかるのだ。

   お前ね……ほんと、魅力ありすぎ!!
   いや、魅力あるのは嬉しいんだが、こんなに人目に晒すのはもったいなさ過ぎる……
   なんといってもカミュは俺の………
   いや、いかん、いかんっ、今日は考えるな、氷河がいる!
   カミュだって嬉しい筈だ、こんなにゆっくり平和裏に話をしたのはシベリア以来なのだからな
   俺は今日は黒子に徹するとしよう

離れまで戻ったときには頭がクラクラして足元が覚束なくなっている。 こんなことも珍しい。
「とてもだめだ……もう寝る…」
短く言って、奥の間に敷いてあるフトンを一組引っ張って次の間のフトンに並べてやった。
「…え?」
「あの…」
「すまないが、飲みすぎたから奥で一人で寝かせてもらう。 お前達は水入らずで昔話でもしててくれ、まだまだ話は尽きんだろう?」
「大丈夫か?」
「水を持ってきましょう。」
氷河が急いで持ってきた水差しの乗った盆を受け取り、おやすみを言って襖を閉める。やっとの思いで浴衣に着替えてフトンに横になった。

   どうしてこんなに酔ったものだろう………
   それはまあ、どうせカミュを抱けないんだからと、遠慮しないで飲んだことは事実だが…

眠れぬままに天井の木目を見ていると、やがて隣でもフトンに入る気配がし、声をひそめてなにかささやいている様子だ。

   よかったじゃないか………宝瓶宮戦のことを思うと氷河もさぞかし複雑な心境だろうが、もう過ぎたことだ
   カミュも復活を果したし、あのことになんのわだかまりももってはいない

酔った頭で一人で納得したわりには、眠りについたミロが見た夢はなかなかにセンセーショナルではあった。

   
遅れて露天風呂にやってきたとき、カミュと氷河は肩をならべて湯に浸かっている。
   「氷河、この奥に打たせ湯がある。 来るがよい。」
   カミュが立ち上がり、ミロが、あっ、と思ったときにはあとに続く氷河の背に隠されてカミュの姿は見えはしないのだ。
   
      く、くそっ、氷河の奴、青銅の分際で俺のカミュの門外不出、国家機密、世界遺産の後ろ姿を…っ!
      弟子のどこにそんな権利があるっっ!!
      それにカミュもカミュだ! 百年経っても俺にはそんな姿の片鱗も見せてくれないではないか!
   
   怒りに任せて湯をざぶざぶとかきわけて近付くと、
   今度は打たせ湯の下の石に腰掛けたカミュの肩を氷河が揉んでいる。
   氷河の背に当たった打たせ湯のしぶきが細かい霧に変じて二人を包み、
   体勢がよく見えないところがますますミロをいらいらさせる。
   「我が師、カミュ、あの折には本当に申し訳ないことをいたしました。せめて肩などお揉みいたしましょう。」
   「気にせずともよいのに。 私はお前をセブンセンシズに導きたかっただけなのだから。」
   肩を揉まれたカミュが恍惚の表情を浮かべ、満足の溜め息を洩らす。

      お、おのれっ、あんな表情は俺に抱かれて感極まったときにすればいいんだよっ!
      こともあろうに、他の男と一緒のときに俺にそれを見せることはなかろうっっ!!!

   「氷河っ、貴様、俺のカミュになにをっっ!!」
   思わず叫ぶと、
   「ミロか。 私たちの邪魔をしないでもらいたい。」
   「そうです、俺は長年育てていただいたお礼と、かつてお命を奪ってしまったお詫びをしたいのですから。」
   「俺はそんなことは認めないっ!」
   「まだ言うか、ミロ!」
   
      ……あ、あの構えはっ!

   ミロをあっさりとフリージングコフィンに封じ込たカミュは涼しい顔で氷河に優しいまなざしを送る。
   「もう邪魔は入らぬゆえ、続けてもらおうか。」
   「はい、喜んで。」
   なすすべもなく氷の中で切歯扼腕するミロの前で、師弟の絆は深まってゆくばかりなのであった。


朝の目覚めは当然のことながらよくはなかった。 気分直しに湯に入ろうとそっと襖を開けると、すやすやと静かな寝息が聞こえ、二人ともよく寝入っているようだ。氷河が寝返りを打ち、ちょっとあどけない子供のような表情を見せてミロを微笑ませる。14といえば世間ではまだ子供のうちだろう。 聖闘士になったばかりに、時には修羅の世界を覗かねばならぬが、本質的には遊びの面白い年頃なのだった。

   カミュが復活したからいいようなものの、そうでなければどれ程の心の負担を抱え込んでいたことか!
   思えば俺たち三人は、よくも厳しい試練を潜り抜けてきたものだ……

そんなことを思いながらやってきた露天風呂には誰もおらず、明けそめる東の空は色を変える間際で美しい。
鳥の声を聞きながら透き通った湯に身を沈めていると誰かがやってきた気配がした。
「あ……、これは失礼しました。 まさかこちらにおいでとは…」
きびすを返そうとした氷河をミロが呼び止める。
「遠慮することはない。 ここは俺だけの露天風呂じゃないからな。 一緒に浸かればいいさ。」
「は……では、失礼いたします。」
少し離れたところにそっと氷河が入り、しばらくは二人とも無言でいる。
「どうだ、ここの露天風呂はいいだろう。」
「ええ、素晴らしいです! 昨日、あまり気持ちがよかったのでもう一度入りたくて。」
「朝の露天風呂が最高なんだよ、いいときに来たな。」
4月とはいえ登別の今朝の気温は2度なのだ。 ところによっては薄氷が張っていることだろう。引き締まった寒気が湯に暖まった頬にはまことにこころよい。
「カミュとは十分に話ができたのか?」
「ええ、おかげさまで。 修行時代のことや、それからあとのことも…」
口ごもったのは、やはりあの宝瓶宮戦のことが尾を引いているのだろう。
「気にすることはないさ。 終わりよければ全てよし、だ。 それで、カミュの背中くらいは流してやったのか?」
夢のことが心の隅に引っかかっていたミロとしては、思いがけず露天風呂で一緒になったこの機会に聞いてみたくなったのだ。
「とんでもないっ!」
「…え?」
「どうして我が師と仰ぐ人と一緒に湯に入るなどということがあるでしょう?俺にとって、師は神聖な存在です。 昨日は露天風呂と家族風呂に分かれて入りましたから。」
思いがけないことを云われて心外な、といった風情の氷河は憮然とした面持ちである。
「しかし、昨日カミュは、湯船で眠ってしまいお前に起こされた、って言ってたぜ?」
「あれは、夕食時間に遅れないようにと廊下で待ち合わせていたんですが、時間を過ぎても出てこられないので脱衣所のドアを開けて声をおかけしたんです。師と一緒に入浴なんて……そんな無礼なことを俺がすると考えられては困りますっ。」
「あ…なるほどね! ああ、そういうわけか♪ うん、たしかに俺はお前の師じゃないからな♪」
くすくす笑ったミロが立ち上がる。
「ところでこの奥に打たせ湯がある。 昨日はやってみたのか? え? まだ? それじゃ、教えてやるよ♪ ついて来い。」
氷河の前をゆくミロの均整の取れた体躯はたしかに大人のもので、氷河にはまだ望めないものなのだ。鍛錬したらいつかはあんなふうになれるだろうか、と羨望の気持ちをいだく氷河は、なるほど、まだ子供なのかもしれなかった。
「ほら、そこに座って。 こんなふうに肩に湯を当てると気持ちがいいんだよ!」
「ああ、ほんとに!」
「また来るといいさ。カミュもお前に会うと嬉しそうだ、やっぱり弟子っていうのは特別なんだな。」
「ありがとうございます。……あっ、そうだ、ミルフィーユがとってあります、朝食後のお茶のときにぜひどうぞ!」
「え?ミルフィーユって?」
「昨日 俺が持ってきたんです、マキシム・ド・パリのミルフィーユ。」
「ほう! そいつは楽しみだね♪ 次に来るときにはデメルのザッハトルテを頼んでいいか?」
「いいですよ、原宿店は城戸邸からすぐですし、ザッハトルテは沙織さんもお好みです。」
「ふうん、アテナが? そいつは意外だ。」
打たせ湯の下の会話はなかなか尽きそうにない。
離れでは、目を覚ましたカミュが姿の見えない二人に首を傾げていた。

朝食後にロビーに場所を移してミルフィーユと紅茶を楽しんでいると美穂がやってきてテレビをつけた。
「新しい源泉が出たそうです、ご覧くださいませ。」
「え?」
画面に映っているのはどうやら地獄谷で、ヘルメットをかぶったレポーターがマイクを持ってなにかしゃべっている。
「ここ地獄谷付近を震源とした一昨日の地震はごく小規模なものでしたが、それに誘発されたと思われる地割れ付近から92℃という高温の源泉が噴出し、ご覧ください、このようにかなりの湯量の流れがあらたにできています。 専門家の調査によりますと湧出量は毎分2000リットル、乳白色の硫黄泉で、この源泉の出現により地獄谷からの湧出量は一挙に1.5倍となり、地元の観光協会では新しい観光客誘致に大きな期待を寄せています。」
「……ほぅ! これはこれは……!」
「ええっと……ま、まあ、よかったじゃないか、登別振興のためには!」
ミロが紅茶をぐいっと飲み干した。
「あの……それってもしかして、一輝をおびき寄せたときの…? 話は瞬から聞いてます。」
「あ……ああ、そうかもしれんな、うん、きっとそうだろう、聖闘士にはよくあることだ( と思う、たぶん ) 。」
「いいではないか、地元も喜んでいるし、怪我の功名だろう。 一輝の天邪鬼な性格もたまには役に立つということだ。」
理系のカミュの肯定的な結論でミロもほっとする。
「ところで、一輝はあのあとどうなった?」
「はい、瞬に連れてこられて、沙織さんとみんなから、少しはここに落ち着いているように散々云われてとりあえず一週間は城戸邸にいるということになりました。 そのあとはわかりませんが。」
「それだけいれば、まずは上出来だな。 温泉まで湧かせた甲斐があるというものだ。次の時にはオーロラを出現させて稚内振興だ。 そのときには、氷河、お前にも協力してもらうからな。」
「え? それはなんの話です?」
「ミロ、温泉と違って、オーロラを定期的に出現させることは私がそこに継続してとどまらぬ限りは不可能だし、そもそも私はオーロラエクスキューションをそんなことのために…」
「本気に取るなよ、俺だってそのくらいはわかってるさ、冗談だよ、冗談♪」
意味を悟った氷河も笑い、楽しい時間が過ぎてゆく。
「帰る前に地獄谷を見物して行くといいぜ、アンドロメダへのいい土産話になるだろう。」
「はい、そうさせていただきます。」

三人が宿の車で地獄谷にでかけたあとで、美穂がティーカップを片付け始めた。昨日氷河からもらったミルフィーユは素晴らしく美味しくて、このあとしばらくは美穂たちの話題になるのだった。
そのうちにザッハトルテが来ることを美穂はまだ知らない。


               ※ マキシム・ド・パリ  ⇒ こちら
               ※ デメル・ジャパン   ⇒ こちら     



訪問記氷河篇は、なんとトラキア篇も含むという珍しい設定になりました。
どうやらおいしいもの好きらしい氷河の手土産は美穂にもミロにも好評の様子。
さすが、星の子学園に西瓜を持ってきた人だけのことはあります。

よそ様に伺うときは手土産を持っていくように、と氷河に教えたのはもちろんカミュ様♪
聖闘士には礼節も大事なのでした。