決勝当日の日曜は天気予報通りの大雨だった。ざんざん降りの様子はネットを見ればよくわかる。 「中止にならないかな。それがいちばん安全だ。」 「さて、どうなるか。現地は日本時間と同じだから様子を見よう。決勝スタートの午後3時までに行っていればよい。」 天気予報を気にしつつ朝食と昼食を終え、雨の支度をしてじっと中継画面を見ていたが、やはり雨は上がらない。かえって勢いを増したような気さえする。 「どうする?行くか?」 「もう少し待とう。行くのは一瞬だ。」 そうしてやきもきしながらテレビ中継を見ていると、ずぶぬれの観客席でビニールコートや傘で雨をしのぎながらじっと開始を待っている観客たちが映し出された。小さな子供を連れた家族もいて、さすがに気の毒だ。 「まだ小さいのに、あそこでどれだけ待つんだ?どうしようもないが、これが最初のF1 経験っていうのはあんまりだな。好感を持って欲しいのに。」 「待ちつくした挙句に、雨で中止です、というのも考えられるし、かと言って強行したあげく死傷者が…というのもお断りだ。」 「ここまでコースにも天気にも恵まれないっていうのは珍しいな。」 先日の日本GPも土曜の午後はたいへんな豪雨になり、熱心なファンは雨の中をじっと待っていたのだが、ついに予選は日曜の午前中に順延になっている。けれどもその日曜は快晴で、実に気持ちがよかったものだ。 そうこうしているうちに10分遅れのスタートが告げられた。 「出たぜ!行こう!」 「うむ。」 美穂に短く 「行ってくる」 と告げて俺たちはサーキットに跳んだ。 「かなり降ってるけど、ほんとにやるのか?最初はセイフティーカー先導かな?」 セイフティーカーとは、事故が起こったときなどに安全のために先頭に位置して安全な速度で走る車のことだ。安全といっても直線だと時速200kmは出ているらしいのだが、本気で走るマシンに比べると妙にゆっくりして見える。セイフティーカーが出るとすべてのマシンがそれまでの順番を守ってただひたすらに列を作って走るだけになるので、いかにも平凡なレース展開となる。 「おそらくはそれで様子を見るのだろう。いきなり中止にはできないという興行的な理由もあるのかも知れぬ。」 初めてのF1を期待はずれに終わらせるわけに行かないのは理解できるが、ドライバーの命のほうが大切だ。 「……お前、もっと降らせられる?」 「無茶を言うな。そんなことを人為的にするわけには行かぬ。」 「でも雨がやんで本気で走り出すほうが無茶だぜ。滑りまくって多重クラッシュ多発なんてごめんだよ。」 「それは確かに。」 ちょっと煩悶しながら待っていると、ついにレースが始まった。といっても、やはり予想通りにセイフティーカーの後について予選の順位通りにしずしずとマシンが列を作っている。 ナノのマシンはフェラーリで真紅がよく目立ち、ヤルノの乗るロータスのマシンは深緑だ。 各チーム2台が走るのでちょっと見には見分けが難しいがドライバーのヘルメットは各自好みのデザインだから、なあに、聖闘士の動体視力なら時速300キロも何のその……って雨で視界が悪いっっ!!ろくに見えないだろうがっ!小宇宙じゃ、雨は晴らせない! 「これで終わらせればいいんだよ。危ないだろ。」 「正直言って私もそう思う。ここから見えないところでクラッシュされたら即時にはわからず対応が遅くなる。」 「来たからには何かアクシデントあったら助けるが、そんなことがないほうがいいからな。」 「ちょっと待て。ナノが、これまで走った中で最悪のコンディションだ、と無線で言ったらしい。」 英語の中継を聴いているカミュが嫌な情報を教えてくれた。 「えっ、あんなに経験を積んでるのに、この雨がいちばんひどいのか!やっぱり、とんでもないな!」 路面に溜まった水が派手な水しぶきになって後続のマシンに襲い掛かってる。あれではさぞかし走りにくかろう。降りしきる雨の中、はらはらしていると、おやおや、赤旗が振られてあっというまにレースが中断だ。 「まだ3周だぜ。決断が早くてよかったよ。」 「2周すればレースは成立するという規定がある。その場合の最終順位はスタート順で、獲得するポイントは通常の半分だ。そのために最低限の3周をしたのだろう。」 「えっ、そうなんだ!するとナノは3番手だったから規定の15ポイントの半分って……あれ?これって、切り上げかな?」 「さあ?……いや、小数点がつく。7.5ポイントだ。」 カミュは雨の中でも検索が早い。ポイントがもらえるのは10位までだから、19位のヤルノにはポイントはない。 雨脚が強くなってきた。俺たちはいつでもテレポートできるようにとメインスタンドから離れたところにある仮設スタンドに陣取ったので風雨吹きさらしという嬉しくない観戦ポイントにいる。 「参ったな、お前、大丈夫か?風邪引くなよ。」 「そっちこそ。私はシベリアで寒さには耐性がある。お前のほうこそ肺炎などにならぬようにしろ。」 「はい、って言えば肺炎にならないんなら気楽なものだが。まあ、寒くはないし、一応コートで身体は濡れないようになっているから大丈夫だろう。」 美穂の勧めで急遽購入したコートは防水性能では他を寄せ付けない英国のアクアスキュータムだし、足元の備えも完璧だ。北海道に暮らしていると防水ブーツは必需品である。持たされた傘も大ぶりで、知人が誰一人いないここでは周りを気にすることもないので二人で一つの傘に入ってる。カミュはちょっと躊躇したが、そうでもしないとマシンの轟音で話も出来ないだろう。 レースが中断したままで、ますます雨が強くなってきた。 「どうするんだ?始まるかもしれないと思うとこの場を離れられないしな。子供なんか風邪引くぜ。」 「ドライバーがマシンから降りてピットに入っていったようだ。しばらくはこのままだろう。」 「日本GPも予選が豪雨で流れて日曜日の午前中になったからな。天気は仕方ない。あの時はピットの前の路面が川みたいになって、そこに即席のおもちゃの舟を浮かべて遊んでるクルーもいたくらいだから念が入ってたけど。」 そんなことを喋っているとやっと放送があり、16時5分からレース再開になることがわかった。危険がなければ歓迎すべきだが、このサーキットにこの雨ではいかがなものか? 「少し小降りになったが問題は路面だな。」 「最初はセイフティーカーの先導だろう。様子を見て大丈夫なら、本格的に走るつもりではないだろうか。」 「そいつが怖いんだよ。死にたくないけど順位は上げたいっていうのが本音だろうし。」 そうして再開されたレースは再びセイフティーカーの先導となり、安全なのはいいのだが、どうしても冗長になる。 「う〜ん、思い切って中止にすればいいじゃないか。死ぬよりましだよ、観客の落胆は考慮する必要はないと思うな。」 「私も出番は作りたくない。」 周りにちらほらといる観客も拍子抜けしたように見える。モータースポーツに馴染みがない場合は、マシンの行列の意味もいまひとつわからないのかもしれなかった。 「ミロ!セイフティーカーがピットに戻った!18周から始まるぞ!」 「ついに来たか!頼むから事故ってくれるなよ!」 マシンの轟音が目に見えて高くなり、あっという間に24台が目の前を行き過ぎて行く。そんなに出さなくていいのにといくらこっちが思っても、そこはプロのドライバーなので限度ぎりぎりをついてくる。わかっていても恐ろしい。 「やった!ターン13で2台クラッシュだ!」 「なにっ!まだ19周じゃないか!無事か?!」 「大丈夫のようだ、ただしリタイアらしい。レースには戻れそうにない。」 「怪我がなければ問題ないよ。俺的には早めにリタイアして危険から遠ざかりたい。君子 危うきに近寄らずだ。」 「またセイフティーカーが出た。」 「それでいいよ、もう。」 しばらく周回したあと24周からセイフティーカーが離れ、また緊張が始まった。いつなにが起こるかわからないほどスピンが多い。中継でもあちこちで映るし、目の前のコースでもすでに二回見ているのだから状況は深刻だ。このコースは滑り過ぎだ。 「だめだっ、ヤルノがセナと接触した!」 「えっ、クラッシュか?どのコーナーだっ?!」 テレポートの構えに入ったとき、 「いや、油圧系のトラブルらしい。ピットに入った。危険はないようだ。どうやらリタイアらしい。」 カミュのほっとした声に力が抜ける。 「リタイアは悔しいだろうが、少なくとも命の危険はなくなったぜ。もっとも本人がどう思ってるかはわからないが。」 「ともかくあとはナノの無事を祈ろう!」 冷静なはずのカミュも声が尖ってきてる。自分が闘うならいざしらず、他人の闘いを見ているだけというのはかなりつらい。 ナノは現在2位でいいところにつけている。それだけにトップを狙っていることは明らかで俺たちの緊張は解けない。 31周でまたクラッシュだ!ターン3で2台がからんで、ふたたびセイフティーカー出動。 「やばすぎるっ!もうやめようぜっ、マジやばい!」 いや、これは俺が言ったんじゃなくて、近くにいた日本人の発言だ。でも俺の気分を代弁してる。 「まずいっ!ナノがピットインしてタイヤ交換に手間取ってる!」 「えっ!フェラーリのクルーは完璧じゃないのかっ?!」 「ええとっ…右フロントのホイールナットが飛んで、捜すのに時間がかかっているらしい!このロスを取り戻そうと無茶をしなければいいが!」 すっごく不安だ!早くナットを見つけてくれっ! ナノ、コースに戻る!しかし、ピットでもたついていた間にハミルトンに抜かれて3位に後退してる! 「ナノ!頑張れっ!」 いや、今日のレースは 『 ガンガン行こうぜ 』 ではなくて、『 いのち大事に 』 のはずなんだが。ほどほどに頑張ってくれ! 「おおっ、ナノが無線でこう言ったそうだ!お前らのミスは俺が何とかする!」 ナノ、漢だっ、惚れ込むぜ! 十二宮の闘いを彷彿とさせるじゃないか!つい、青銅のミスをものともせずすぐに挽回する黄金、という図式を思い浮かべてしまう。でも、頼むから無理はしないでほしいっ! そしてナノはそのすぐあとでほんとうにハミルトンを抜いた!再び2位だっ! 言っておくが、相変わらずのすべる路面で、しかも日没が迫ってる。よくこんな状況でオーバーテイクできるものだ。ちなみにオーバーテイクとは追い抜くことだ。これはレースを見るときの基本中の基本の用語だろう。 「おいっ、暗くなってきたんじゃないか?たしかに雨は上がったが、夕焼けが見えるってまずくないか?!」 「このサーキットにはナイトレースの設備はない。よくない兆候だ!」 「するとライト点灯か?」 「F1のマシンにライトなどないっ!」 「あっ、そうか!そういえば、そんなのは見たことがないな!」 「全体の75%を走り終えればレースが成立したとみなされ、フルポイントが与えられるという規定があるから、それを満たす46周まで走ってから終了させるのはないだろうか。そうでなければ暗くて走れないだろう。この時速で無灯火走行は危険すぎる!」 ところがところが、波乱はその46周に待っていた! なんと、トップを独走していたベッテルが、まさかのエンジントラブルでリタイアとなったのだ! ナノがトップに躍り出た! 「えええええ〜〜〜っ!」 「こんなことがあるのかっ?!」 凄すぎる! 恐るべきはF1! トップをひた走るナノはそのまま二位以下に圧倒的な差をつけて、悠々とメインスタンド前を駆け抜けてチェッカーフラッグを受けたのだった。 それはめでたい、たしかに凄い!賞賛されるべき立派な勝利だ。友達のこの走りは誇らしい! 「でもこの暗さはなんだ?どうして最後まで走らせなきゃいけないんだ?暗すぎるだろっ?ここまできて、事故ったらどうするっ?!」 「よく無事に終わったものだ!」 「神だよ、神!F1ドライバーは全員 神だ!そうとしか思えない!こんなに条件が悪いのに結局は、俺が一番だ!って言って走りまくったんだぜ!信じられん!」 俺たち黄金も、自分が一番、って思ってる奴がほとんどだが、F1レーサーも変わらないような気がする。 24台のうち9台がリタイアという大荒れのレースは、こうして閉幕を迎えたのだった。 ナノは表彰台で喜びを爆発させ、盛大にシャンパンのシャワーを浴びた。 ほんとにF1は凄い。マシンを自在に操るドライバーも凄い。 やっぱり顔を見たくなってパドックに行ってみたが、すごい混雑でとても人波の中心に近づくことは出来そうにない。遠くからヤルノとナノを見つけてちょっと手を振ってから帰途に着いた。夕食が終わったあとで、勤務が明けた美穂が詳しい話を聞きにくることになっている。微に入り細に穿って話してやろう。きっと興奮するだろう。 やっぱりF1は面白い。怪我がなければの話だが。 「興奮と緊張で空腹だ。」 「帰ったら、まず風呂に入って温まろう。それからゆっくり食事だな。」 「アフターレースというわけか。」 「アフターディナーも待っている。」 ますます濃くなった闇の中でカミュの頬がさらに赤くなったように見えた。 2010 ・ F1 韓国グランプリを現地で観戦したミロ様とカミュ様。 きっと今頃は美穂ちゃんに質問攻めになっているはず。 「あの、よろしければ写真も拝見させていただけますでしょうか?」 「え? 写真って撮ってないけど。」 「えっ!せっかく観戦なさったのに写真をお撮りにならなかったんですの?!ええ〜〜っ!」 「だって、俺たちはたしかに観戦はしたけど、主眼は緊急時の対応で。」 「でも、あの、アロンソ様がお勝ちになったあとはもう安全ですし、ウィナーズ・ランとか表彰式とか パドックの様子とか…」 美穂、涙目……… アロンソ優勝 ⇒ こちら パドックパス等についてよくわかるブログ ⇒ こちら 写真満載で素晴らしく、しかもアロンソが優勝している2008年日本GPの記録です。 詳しいレース経過は ⇒ こちら |
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