秋 津 島(あきつしま)

「信じられないわ!ミロ様とカミュ様に和菓子をお持ちしたら、玄関に飼育籠が置いてあって、中に大きい緑色の幼虫が何匹もいたのよ!びっくりして、もう少しでお盆を落とすところだったわ!」 
「え〜〜〜、やだぁ〜〜!あたし、そういうの絶対だめなんだけど!」 
「あたしも嫌だわよ!とてもお運びは出来ないわ!虫なんて、うちの子供が飼ってるだけでたくさん!」 
「今日だけは目をつぶってミロ様にお盆をお渡ししてきたけど、明日からどうしましょう? 籠を洗面台に置いていただくとか?」 
「それでもだめよ!アメニティを補充出来なくなっちゃうし!近寄りたくないわよ!」 
「あ〜、ぞっとする!困ったわね〜〜」 
困り果てた美穂たちが主人の辰巳に相談した結果、翌日から二人の離れの係りは辰巳が受け持つことになった。 
 
チャイムの音が鳴って玄関先に現れたのはこの宿の主人の辰巳だ。
「あれ?どうして?」 
奥から出てきたミロが首をかしげた。辰巳が持っている盆には午後の茶菓子が乗っていて、通常ではこの仕事は美穂たちの受け持ちだ。
「申し訳ありませんが、女性スタッフがこの幼虫を怖がりまして。しばらくは私がこちらの御用を伺わせていただきます。」 
傍らの飾り棚の上にあるかなり大き目の飼育箱の中には大小何匹ものオオミズアオの幼虫がいて、カミュが朝昼晩に集めてくる食草の紅葉を元気よく食べている最中だ。近くによるとシャクシャクと音が聞こえるほどの食べっぷりで成育はきわめて順調である。 これだけ大きい幼虫だとコロンとした糞もかなりの大きさで、この掃除もカミュの日課となっている。ミロ的にはあまり嬉しくない光景だが、理系のカミュにはそれも楽しみの一つらしいので言及は避けている。
「それはなんだか申し訳ないな。 といって、カミュが熱心に飼育日誌をつけてるから、今さらやめられないし。」 
「いえいえ、男は一度は夢中になるものですよ。お気持ちはよくわかります。私も子供のころは虫取り網を持って原っぱを駆け回ったものです。」 
「ふ〜ん、そうなんだ!俺はけっこうやったけど、たぶんカミュはそんな経験はないと思う。」
トラキアのブドウ畑にはたくさんの虫がいて、いとこのディミトリーやソティリオと虫取りに精を出したのはなつかしい思い出だ。 しかしパリの街中の救済院にいたカミュにはそんな思い出はなさそうだった。
「日本の虫はギリシャとはだいぶ種類が違っていて面白い、ってカミュがいつも言ってる。」 
「それはそうでしょうな。なにしろ島国ですから固有種が多いかと思います。それに日本は昔から秋津島と言いまして、国の形のことをトンボにたとえているくらいですから。秋津というのはトンボのことだそうです。」
「え?どうして国の形がトンボ?」

   日本の国鳥はキジだし、国蝶はオオムラサキだ
   国花はサクラで、それからええと………でも、なんで国の形がトンボなんだ?

「昔の天皇が日本の国の形を 、トンボ のとなめせるが如し、といったという話がありまして。 これはどうもトンボが交尾しているときの形に似ているということのようです。」
「トンボの交尾…?」
ミロの頭に犬や猫に代表される哺乳類の交尾、そして鳩や朱鷺の交尾の体勢が浮かんだが、トンボの交尾というのがわからない。トンボだけでなく、蝶やカブトムシさえわからない。

   虫って交尾するのか?
   それはまあ、雄と雌があるんだから交尾するんだろうが、蝶が哺乳類みたいに交尾するのか?
   ううむ……よくわからん……あとでカミュに聞いてみよう

ミロが考えているので、ちょっと辰巳が赤くなった。目の前にいるギりシャからきた青年が交尾という日本語を知らなかったら解説しなければならないと思ったらしい。いくら日本語に堪能とはいっても、専門用語と思われるこの単語を知らない可能性は高いだろう。
「失礼ですが、ミロ様は交尾というのはご存じなかったですかな?」
「ああ、大丈夫。 それなら知ってる。」

   ……あれ? その日本語なら知っている、と言ったほうがよかったかな?
   交尾自体を知っていると思われるよりは、言葉として知っている、って解釈してもらったほうがよくないか?
   でも言い直したりしたら、ますますみっともないんじゃないのか?

普通の外人客の立場ならミロもそこまで気をまわしたりしないが、なにしろ聖闘士だと知られているし、それも聖域で最高の立場の黄金だ。アテナに仕えているという辰巳なら、黄金の重要性やステイタスについても熟知しているのは間違いない。

   その俺が交尾についても知っているっていうのは問題か?
   こういうのって、もしかして黄金の評価を下げるのか?
   いや、でも、交尾は俺の解するところでは学術用語の範疇だから、知っていても恥ではないのでは?
   だけど、意味的には交尾ってセックスと同じじゃないのか?
   でも、最初に言ったのは俺じゃなかったし!
   俺は、聞かれたから、知ってるって言っただけで!

ミロの頭の中で疑問がぐるぐると渦を巻く。
しかしミロの内心の葛藤は辰巳には気付かれなかったようだ。カミュが理系でその手のことには多大なる興味を示し知識も深いのはよく知られているので、ミロのことも同列に思われていて、ここで昆虫の交尾や生殖行為についてミロが一席ぶったとしてもなにも不思議には思われなかったろう。よって、ミロの葛藤はあっさりとスルーされた。
「ミロ様はトンボの交尾をご覧になったことはありませんですか?トンボの場合はほかの昆虫とは違ってかなり特殊でして、尾の部分を……ううむ、説明が難しいですな。 ネットでお調べになるか、それとも現物を見るのがいちばんでしょう。」
「え〜と、トンボの交尾って普通に見られるのかな?」 
「ええ、ここから30分ほど歩きますとトンボのいる水辺がありまして、そこにイトトンボがたくさんいます。あそこでしたら、しばらく待っていれば交尾を観察出来ると思います。トンボは人気のある昆虫でして、昨日お泊りになっていらしたお客様も愛好家で、交尾の写真が撮れたとおっしゃっておいででした。」
「ふうん、そうなんだ!あとでカミュと行ってみよう。」
「日本では昔からトンボは好まれていまして、浴衣や団扇の絵柄にも多いですし、そうそう、トンボの歌もありますな。」
「ああ、そういえばトンボ鉛筆っていうのがあったな。それに、来月の浴衣の柄はトンボだし。」
「さようです。さすがはよく覚えておいででいらっしゃいます。」
この宿では毎月の浴衣の柄が変わり、それもまた楽しみの一つだ。今月は八月だから朝顔で、それも白地と紺地の二種類があるという凝りようだ。カミュはきりっとした紺地を好み、それならとミロは白地を愛用しているのはこの宿では周知のことである。
こうして離れの玄関先でのミロと宿の主人との会話は10分ほどに及び、ミロに盆を渡した辰巳がお辞儀をして戻っていった。
ミロが部屋に戻るとネット碁を終えたカミュが茶を淹れていた。
「つい話が長くなっちゃって。」
「今日は美穂ではなかったのだな。主人が来るとは珍しい。」
「うん、玄関にいる幼虫が女性陣のお気に召さなかったらしい。」
肩をすくめたミロが六花亭のマルセイバターサンドを口に入れる。ホワイトチョコとバターとレーズンの組み合わせが絶妙で、ミロがあまり好むものだから週に一度は出てくる菓子だ。
「あ…それは悪いことをした。羽化するまでは私たちのほうから午後の菓子を取りにいったほうがよかろうか?」
「それもかえって気にするんじゃないのか?そんなこと言ってもたぶん断られるぜ。あとで気の利いたものでも持っていこう。」
「うむ、それがよい。まだ暑いゆえ、涼しげなゼリーなどがよいだろう。」
「ほら、京都の、青竹の筒に水羊羹を入れてあるのなんか、いいんじゃないか?ちょっと洒落てるぜ。」
「木箱入りの三輪そうめんはどうだ?」
「いっそのこと、夏にはこだわらずに松坂牛とかは?暑い夏を乗り切るにはスタミナが必要だ。」
「う〜む…」
日本に暮らしていてもほかに中元を贈る相手などいないので、品物の選定には熱が入る。
「そういえばここの主人から聞いたんだが、日本の形がトンボの形と似てるって知ってるか?」
「え?」
目を見開いたカミュがちょっと考えてから真面目な顔で頷いた。
「それは日本書紀に載っている話だろう。 神武天皇が大和国の山上から国見をして、秋津のとなめせるが如し、と言ったのだという。秋津というのはトンボの古名で、それゆえに日本のことを秋津島ともいうのだそうだ。」
「それそれ。で、それがトンボの交尾らしいんだが、そうすると、となめす、とかいう動詞があるのか?それって交尾するって動詞なのか?」
ミロの頭に自分たちが 『 となめせる 』 情景がありありと浮んだが、もちろんカミュに気取られるようなことはしない。今日の話題のコンセプトは昆虫学であり古事記の記述についての考察だ。

   となめせる、ならなんのてらいもなく言えるが、もっと直截な現代の動詞だったらとても言えん!
   古語だと恥ずかしくないっていうのが不思議だな
   これからは、それでいくかな……

「いや、動詞ではなかったはずだ。 たしか…」
珍しくかたわらの大辞林を手に取ったカミュがパラパラとページをめくる。
「…あった。 となめ、という名詞がある。 交尾したトンボの雌雄が互いに尾をくわえあって輪の形になって飛ぶこと、だそうだ。」
「ふ〜ん、名詞なのか。」
博覧強記のカミュがうろ覚えというのは珍しいが、内容が内容なだけに一度は調べたあとできれいさっぱりと忘却することにしたのかもしれない。
「だけど、トンボってどうやって交尾するんだ?互いに尾をくわえ合うって?お互いに背を向けてしっぽの先をくっつけるんじゃないのか?もっとも、そんな格好のトンボは見たことがないが。」
「どうやって、って……少し考えたカミュがパソコンに向かった。
「あの体勢を言葉で説明するのは難しい。むろん、模倣も断る。というか人間には真似をすることさえ不可能だが。」
「いや、いくら俺でも二人でトンボの真似をしようとはまったく思わない。尾も羽もないからな。」
「トンボは昆虫ゆえ、尾はない。尾のように後ろに長く伸びている部分は腹部だ。」
「うん、わかってる。」
そんなことを話しているうちに、画面にトンボの交尾が映し出された。    ( こちら 参照のこと  )
「あれっ?どうなってるんだ?」
鮮明な写真には、二匹のトンボが長い腹部を互いに曲げてくっつきあっているところが写っている。
「ええと……どっちがどっちだ?こっちのトンボの腹はこう曲がってて……で、なんでハート?やっぱり愛し合ってるからか?」
「ハートに見えるのは偶然に過ぎない。現に神武天皇にはこの形が日本に見えたのだからな。」
「いや、俺もそれはわかってるけどさ。 だいいち、神武天皇が英語なんか知るわけはないし。」
カミュが画面を指差しながらトンボの交尾について説明を始めた。
「雌の生殖器は腹部の先端にあるが、雄の生殖器は二箇所に分かれている。」
「なんで二箇所?…っていうか、そういえば人間も二箇所のような気もするが……でも、トンボの場合は離れすぎてないか?」
「一つは精子を作る精巣でこれは腹部の先端にあり、もう一つは交尾に使う副性器で腹部の付け根にある。そのため雌の生殖器と雄の副性器を結合させて交尾するので輪のような形なるのだ。」
「ええと…ずいぶん難しい体勢だな。」
パソコンの画面を見ながら雌雄のトンボの腹部の先がどこにつながっているかを考えると理解できるような気もする。
「雄はあらかじめ精子を精巣から副性器へ移す必要があり、自分の腹部を前方に曲げてそれを行なう。これを移精行動という。」
「精子の貯蔵庫ってわけか。人間にはとても出来ない相談だな。そんなのは体内で輸精管とかを使って精子を移動させるのが普通の生物のやり方だろうに。現に人間はそうなってる筈だ。」
カミュとの会話で精子などという単語が出たのは初めてだが、さすがにここまで学術的だとまったく恥ずかしくない。
「トンボの生殖行動はきわめて特殊だ。 雄は雌を見つけると腹部後端で雌の頭部を確保し固定する。すると雌は腹部を雄の副性器に伸ばして精子を受け取ることになる。このときの形が輪のようになる。お前の情緒的表現によればハート形だが、神武天皇は日本の国土の形をトンボの交尾の形になぞらえたということだ。」
「ふ〜ん、トンボの交尾って、たとえが珍しすぎるな。しかし自分の国がトンボの交尾と似てるとはね。イタリアなんかは長靴だから、恥ずかしくもなんともないな。」
ここでミロは、毎日テレビで見ている天気予報の画面を思い浮かべてみた。 確かに細めの日本列島の形は湾曲しており、しいて言えばトンボの交尾を思わせないものでもない。
「神武天皇って表現力が豊かだな。俺なんかじゃ、とても思いつかないぜ。言われてみれば、日本列島はトンボの交尾とたしかに似てる形をしてるな。」
「しかし神武天皇は日本書紀に書かれているが実在してないという説もあり、神話の一部とも考えられている。」
「えっ、そうなのか?」
「記録を信じれば127歳で崩御したことになっている。」
「う〜〜〜ん……それはちょっと信じられないかも。」
いや、昨今の所在不明の高齢者の問題のほうがはるかに信じがたいだろう。

その夜、いつものようにテレビの天気予報を見た。
「ほら、日本列島の形って、蜻蛉のとなめせるが如しだよ、そんな気がする。なかなか風雅だな。」
「うむ、古式豊かでなかなかよいと思う。」
「神武天皇って名前に神がついてるし、やっぱり神話だよ、神話。ギリシャ神話みたいなものだ。もっともギリシャ神話は性的に奔放すぎるが、日本なんてトンボの交尾だからな。レベルが違う。日本じゃ、火の神を産んだイザナミがほとをやけどして死んだ、くらいのエピソードしかないんだぜ、性的に淡白だよ、日本は。」
ほと、というのは古語で陰部のことをさす。ミロが現代日本語に訳さなかったことにカミュはひそかに感謝した。
「そのくらい…かな?ええと…」
「いや待て!天照大神が天岩戸に閉じこもったとき、アメノウズメノミコトが衣服を脱ぎながら踊って、それを見た神々がやんやの喝采をしたためにいぶかしく思った天照大神が顔を出した、って言うのはエロチックかもな。でもギリシャ神話はそんな牧歌的なものではないんだが。」
「ええと…」
話が妙な方向に流れそうになりカミュが頬を染めたとき、ミロが、「あっ!」 と声を上げた。
「どうした?」
「ちょっとおかしくないか? 現代の俺たちは正しい地形を知ってるから日本列島の形がトンボの交尾となんとなく似てるって納得できるけど、日本書紀が成立した時代に日本列島の形を知っていた人間がいると思うか?」
「え?……それは…」
日本書紀の成立は奈良時代である。その時代の地図としては僧・行基が作ったといわれる行基図があるが、これをもってトンボの交尾と結びつけるのはいささか無理があろう。正確な日本地図の出現は江戸時代後期に伊能忠敬が全国行脚して測量するまで待たねばならぬ。
「すると、神武天皇、もしくは日本書紀を書いた人物は、どうやって日本列島の形とトンボの交尾を結びつけることが出来たんだ?気象衛星ひまわりなんか、ないんだぜ。」
「……え?」
ミロの心に、神武天皇は実在の人物で、しかし神であるがゆえに空の上から日本を見ることが出来たのではないかという疑問がむくむくと湧きあがる。

   まさか、そんなはずはないよな……でも、なんで奈良時代に日本の形がわかってたんだ?

ちらっとカミュを見ると、やはり合理的な説明がつかないのかじっと考え込んでいる。こういうことは珍しい。
「まあいいさ。そんなことは歴史家に任せよう。過ぎたことだし、日本がトンボの国って言うのも洒落ている。それにならって、俺たちも今夜はとなめするってことでいいかな?」
「ん……」
カミュが赤とんぼのように赤くなった。






  
     書いていて、うちのサイトは学術的かもしれないと思いました。
       伊能忠敬まで出てくるとは思いもよらず。

        トンボの交尾 ⇒ こちら
           あっと驚く行動が観察されています。
           一番下には動画もリンクされていて、交尾の手順がよくわかります。
        
        行基図 ⇒ こちら