鳥 獣 戯 画

「正しくは鳥獣人物戯画絵巻という。 鳥獣の部分ばかりが有名だが、甲・乙・丙・丁の四巻のうち人物が描かれている部分も多いのだそうだ。」
「その甲・乙・丙・丁って?」
「十干 ( じっかん ) といって、古代中国で考えられた甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸 ( こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん・じん・き ) の10の要素があり、その中の最初から四つ目までを絵巻物の巻名にしたもののようだ。」
「ふうん、一巻、二巻じゃないんだ。」
「古めかしいようだが、現代でも、甲乙つけがたいという表現があるし、焼酎などは甲類・乙類という区分けがなされている。」

いささか固い話をしている二人が向っているのは東京は六本木、2007年3月にオープンした東京ミッドタウンである。
「ほら、ここだ!なかなかいいじゃないか!」
地下鉄六本木の駅から地上に出て少し歩くと一群の高層建築が見えてきた。 時代の最先端をゆく建築らしく、手がこんでいるのが一目でわかる。
「ほう!」
「できたばっかりのときはテレビでも大騒ぎだったが、少しは落ち着いたかな。」
「落ち着いてくれぬと困る。 賑やか過ぎる環境で鳥獣戯画を見たくはない。」
「わかってるよ、それは俺も同じだ。」
「オープン時に鳥獣戯画を持ってこなかったのは、この美術館の見識だろう。」
国宝・鳥獣戯画を全巻展示するという素晴らしい企画を立てたここサントリー美術館は1961年に東京・丸の内に開館し、その後赤坂見附に移転、そしてこの東京ミッドタウンに新しくオープンした民間美術館でも老舗の実力派である。
「サントリーって、ウィスキーとかビールのサントリーだろう?」
「そうだ。 企業が得た利益を社会にこうした形で還元するのは素晴らしいことだと思う。 お前が毎晩飲むのも、巡りめぐって社会の役に立っているというわけだ。」
「なるほどね、するとお前も文化振興に貢献してるってわけだ。 」
「え?」
いぶかしげなカミュにくすくす笑いが返される。
「お前の好きな伊右衛門もたしかサントリーじゃなかったか。 俺とお前であんな夫婦になりたいね♪」
「えっ…」
例の本木雅弘と宮沢りえの武家の若夫婦のCMはミロのお気に入りなのだ。 この二人のCMが流れるとミロが画面を注視してひそかに溜め息をつくのを知らぬカミュではないが、こうもはっきりと言われたのは初めてだ。 クリスマスイルミネーションに照らされた頬がほんのりと染まる。
「あ……ああ、ここだ、サントリー美術館!」
最新のビルの四階に、格子のデザインのきりっとした入り口が見えてきた。

京都・栂ノ尾 ( とがのお ) にある高山寺 ( こうざんじ ) に伝わる 「 鳥獣戯画 」 を知らぬ日本人も少ないのではないか。
中学の美術の教科書にはこの絵巻のウサギやカエルの鬼ごっこや相撲の様子が必ず登場し、その愉快な有様はどんな子供の心にもくっきりと刻まれる。 あまりにもわかりやすい絵柄のためにしばしばメディアにも登場し、 「ああ、鳥獣戯画だ!」 と人に思わせることもしばしばだ。
そのわりには本物を見ることは少なくて、それは建築物ではない国宝の宿命ではあるのだが、仏像や陶磁器などよりもはるかに脆弱な絵巻物ゆえになおさら公開されることは少ないというのが実情だ。
「京都の高山寺にあるのはレプリカで、本物は甲巻と丙巻が東京国立博物館、乙巻と丁巻が京都国立博物館に寄託されている。」
「寺としては手放したくなかったろうに。」
「あまりにも貴重な国宝ゆえに保管がたいへんで、博物館に任せたのかもしれぬ。」
混雑を避けるために遅めに来たのが功を奏し、中は思いのほかすいている。 それでも最前列でじっくり見ようとする人の列はだいぶん手前から並んでいるのだ。
「どうする?」
「もちろん並ぶ。 この機を逃したら、次はいつになるかわからぬ。 」
ガラスケースのなかに広げられた絵巻は人の腰ほどの高さにあって、後ろからでは見えはしない。 そのために頭よりも高い位置に精密に造られた絵巻のレプリカが展示されているがここまで来たらやはり本物を拝まなくては意味がない。
「ほぅ…」
カミュが目を輝かせた。
河で水遊びをしているウサギやサルが実に生き生きと描かれて水の流れの線も素晴らしい。
「筆って書き直しができないのによくこんなに描けるものだな! まるで今の漫画を見ているようじゃないか!」
「表情が豊かだし、身振りも実によく描けている!」
一番有名な甲巻だけあって、動物の滑稽な仕草がほんとうに素晴らしいのだ。
「極彩色の源氏物語もいいが、これも好きだな! 京都の博物館で見たのは一部分だったが、これはすごい!来た甲斐がある!」
「前期と後期で展示替えがあるというから、これは後期も来なければならぬ。」
「まったくだ。 平安後期から鎌倉にかけての成立というが、源氏は最高貴族の生み出したもので、一方こちらは諧謔や面白いことを僧侶や絵師が好き勝手に絵にしてみた遊びみたいなものだろう。 人間ってほんとに面白いな!」
そのうちに画面は人物に移り、明らかに描き手が違うのだろう、絵にはひょうひょうとしたユーモアが漂い、まるで酒の席でさらさらと手慰みで描いたような風情が漂ってきた。
「ふうん、こんなところがあるなんて知らなかったな。 だから鳥獣人物戯画なのか。」
「衆目の一致するところだろうが、やはり甲巻が素晴らしい!」
「ああ、あのカエルは世界一のカエルだよ!」

そうして見ているうちに、展示物は鳥獣戯画の絵巻に影響を受けたと見られるほかの絵巻に移ってきた。
戯画の動物とそっくりなポーズの絵があったり、鼠が人間のように着物を着て活躍する絵物語があったりと、なるほどその影響は明らかだ。
頷きながらじっくりと見ていたカミュが急に次の説明の札を読むと目を宙にそらした。 すぐ後ろにいたミロには今までのカミュの態度とは違うのが手に取るようにわかる。

   ……え? どうしたんだ?
   次のがどうかしたか?

いぶかりながら札に目を走らせた。
  『 放屁合戦絵巻  室町時代  サントリー美術館 蔵 』

   ええと………合戦はわかるが、放屁…って?

首をかしげながらその下の文章をざっと読む。 すると放屁のほかに陽物比べというのがあるらしい。 さらにミロにはわからない。

   なんだ? なにを比べるんだ? さっぱりわからんが………

列の動きは今までと同じくゆっくりで、カミュはといえば絵巻の先の方にちらと目を走らせたきり、じっと下を向いたり前の人の背中を見たりしているらしい。 絵巻には何人もの男達が談笑している様子が達者な筆で描かれていて何ということもない。 カミュが困り果てているらしいことはわかるのだが、いったいなにが………

   あっ……!!

次の人物群が画面に現れたところでミロにもはっきりとわかったのだ。 その男達はおのれのものを比べあっていてはばかることがない。 それも絵であるから思いっきり誇張してかなり克明に描かれてあってその大胆さがミロを絶句させた。 自慢げにそうしている人物が十人か二十人は描かれていたような気がするが、見ているミロとしては気もそぞろでどうすればいいかまったくわからないのだ。 人に囲まれているため早足で通り過ぎることもできず、ましてや逃げ出すことなどできはしない。 かといって熟視するのもいかがなものか。 列には当然ながら女性もいたが、いったいどう思ったことだろう。
そのあとの画面は放屁合戦とおぼしきものに移りミロをちょっと微笑ませたが、やはり何人かはおのれのものをさらけ出しているわけで………

   おいおい、日本人って今も昔もおおらか過ぎないか?
   天下のサントリー美術館が東京ミッドタウンでほんとにこれを??

どぎまぎしているうちにやっと行列はその絵巻を過ぎて、平和が訪れた。緊張していたカミュの肩から力が抜けたのがわかる。
そのあとは無難に過ぎて、出口近くにきたときは胸の動悸もおさまっていた。 人の心拍数の正常値は一分間に60から80、運動その他の理由により上昇しても120が限度というところだろうが、カミュの心拍数が幾つになったものやら想像もつかないのだ。

   もしかして横目で見てたかな?
   それとも最後まで律儀に目をそらしてた?
   う〜ん、はたして今後の話題にしたものかどうか?

黙りこくってないで気楽に笑ったほうがいいとは思うものの、ミロにはいまいち判断がつかない。
「絵巻は、」
「……え?」
「なかなか面白いものだ。 そうは思わぬか?」
「ええと……うん、そう思う。 なかなか愉快だ。」
なるようになる。 ミロが一人で気を揉んでいるのを背中で感じながら、カミュは大人の目線でひそかに鑑賞していたのかも知れぬ。
ミロが出口近くの壁に目をやった。
「ふうん! 来年はここでロートレックをやるぜ!」
「ロートレックといえば、アンリ ・ ド ・ トゥールーズ = ロートレック、あのトゥールーズ伯の末裔だ。」
「これも見に来ようかな。」
「それもよい。」
大きな吹き抜けの外ではクリスマスの青いイルミネーションが美しい。 二人の影が青の光にとけていった。





            これほど楽しい国宝があるかしら、鳥獣戯画。
              子供の頃から何度も何度もあちこちで見かけてきたその本物を目の当たりにしました。
              千年近くも伝えられたこの絵巻が、
              このあとも千年以上伝わっていきますようにと願わずにはいられません。

              ミロ様カミュ様を驚かせた絵巻はサントリー美術館を訪れた大勢の人がしっかりと目にしました。
              サントリー、大英断ですが、
              日陰者だったその手の作品に日を当てた功績は大きいと思います。
              目をそらしてばかりいないで、
              時代の諧謔精神や人間性を描き出した作品が生み出されてきたことに注目するべきでしょう。
              たいそうおおらかだったと思います、でも前期のみの展示みたい………26日でおしまいかも。


               サントリー美術館  ⇒  こちら
               鳥獣戯画・甲巻 ⇒ こちら   場面ごとに区切って全体を大きい画面で見られます。
               東京ミッドタウン  ⇒  こちら
               伊右衛門  ⇒ こちら   (音楽が流れます)